2016/09/28

抑圧をなくすには皆が抑圧されればいいという謎理屈

はてなブックマーク - 「性差別的」と批判を浴びた「おっぱい募金」、今年はAV男優の胸も揉める仕様に - ねとらぼ

ブコメも「良くやった、ざまあみろ!」みたいな反応がほとんどのようだ。
アホらしいので元記事は見ていない。

女をレイプするのが悪いんなら男もレイプしたらいいんだろ!

みたいな話。逆ギレっていうのかな、こういうの。

性暴力やハラスメントの話を女性差別の側面だけでしか認識できていない。
その認識自体が差別を生んでいるんだけど。

女が胸をもまれるのと男が胸をもまれるのとには社会的な文脈の非対称性があると思うんだが、そういうのもすっ飛ばしている。

*****

性的搾取批判には答えられないから女性差別の側面だけに対応したのだろうという指摘もあるが、それなら「おっぱい募金」を止めた方がよほど理屈に合うわけで。そうしないのだから、たぶん「分かっていない」んじゃないか。

それと「参加者は皆納得しているんだから」という声も結構あるのだが、これは一般社会に宣伝しているキャンペーンであって、身内や同好の士だけのこっそりした話ではない。幼稚園や小学校の正門前でアダルト作品や「おっぱい募金」参加を呼びかけるようなものだ。何でも事前登録制にしたとのことなのでゾーニングには一定の配慮をしたということらしく、それはいいのだが、コンビニのポルノ雑誌や電車内吊り広告のような状態は残っているのだろう。

あと、お金が集まって社会貢献の実績になっているという話もあるが、それは昨年も出た話で、効果があるなら手段の善悪は不問で良いという姿勢は端的にダメでしょうということでしかない。

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抑圧をなくすには皆が抑圧されればいいという謎理屈

はてなブックマーク - 「性差別的」と批判を浴びた「おっぱい募金」、今年はAV男優の胸も揉める仕様に - ねとらぼ http://b.hatena.ne.jp/entry/nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1609/27/news146.html

ブコメも「良くやった、ざまあみろ!」みたいな反応がほとんどのようだ。
アホらしいので元記事は見ていない。

女をレイプするのが悪いんなら男もレイプしたらいいんだろ!

みたいな話。逆ギレっていうのかな、こういうの。

性暴力やハラスメントの話を女性差別の側面だけでしか認識できていない。
その認識自体が差別を生んでいるんだけど。

*****

性的搾取批判には答えられないから女性差別の側面だけに対応したのだろうという指摘もあるが、それなら「おっぱい募金」を止めた方がよほど理屈に合うわけで。そうしないのだから、たぶん「分かっていない」んじゃないか。

それと「参加者は皆納得しているんだから」という声も結構あるのだが、これは一般社会に宣伝しているキャンペーンであって、身内や同好の士だけのこっそりした話ではない。幼稚園や小学校の正門前でアダルト作品や「おっぱい募金」参加を呼びかけるようなものだ。何でも事前登録制にしたとのことなのでゾーニングには一定の配慮をしたということらしく、それはいいのだが、コンビニのポルノ雑誌や電車内吊り広告のような状態は残っているのだろう。

あと、お金が集まって社会貢献の実績になっているという話もあるが、それは昨年も出た話で、効果があるなら手段の善悪は不問で良いという姿勢は端的にダメでしょうということでしかない。

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2016/09/25

毎日新聞が煽る嫌中意識

産経ほど露骨ではないが、産経と同じぐらい差別意識が強い。

余録:キトラ古墳(奈良県明日香村)の石室天井に描かれた… - 毎日新聞(2016年9月25日)

 キトラ古墳(奈良県明日香村)の石室天井に描かれた「天文図」が初めて一般公開された。350もの金箔(きんぱく)の星、星を朱で結んだ星座群。誰がいつ見た星空なのか。ロマンをかき立てられるが、最近の研究では古代中国で観測された星空という説が有力だそうだ▲中国では日食や流星など天体の変化は現実社会の吉凶を占う「天意」とされ、歴代王朝が天文台を置いて観測技術を向上させた。キトラ古墳に中国の天文知識が反映されているのは自然なことだ▲日食時には皇帝自ら儀式を行い、予測に失敗した役人が処罰されることもあったという。そうした伝統の影響もあるのだろうか。現代中国でも宇宙開発は政治と密接不可分な形で進められている▲「中秋の名月」の今月15日、無人宇宙実験室「天宮2号」が打ち上げられ、中国メディアは「習近平国家主席が宇宙の夢を先頭で指揮」と報じた。一方で、1日に衛星打ち上げに失敗した際、主要メディアの報道はなかった。成否が政権の権威に関わるからだろう▲「天宮2号」には今後、宇宙飛行士が乗り込んで長期滞在する予定だ。2022年には独自の宇宙ステーション完成を目指しており、日米露などが参加する国際宇宙ステーション(ISS)に代わって宇宙の主役となる可能性もある▲中国は国連を通じて国際協力を受け入れる考えを示しているが、米国などは消極的だ。国際基準と異なる中国の政治体質や閉鎖性を敬遠しているのだろう。唐代にはインド人が天文台長となり、観測の指揮を執った歴史もある。より開かれた宇宙開発で再び、知恵の伝達者となる道を目指せないものか。
何も関係ない話で、中国への警戒感を煽っている。「中国は危ない」というメッセージだけで、実質的な情報が全くない駄文。
こういう文章をさらっと書いてしまい、また、それを紙面に出してしまえるのが現在の毎日新聞でもある。

*******
まあ毎日新聞がこういうヘイト扇動記事を自然に書いてしまえるのには背景がある。

日中共同世論調査:対中印象悪化「良くない」91.6% - 毎日新聞(2016年9月23日 19時46分(最終更新 9月23日 21時53分))

 非営利団体「言論NPO」(工藤泰志代表)と中国国際出版集団は23日、第12回日中共同世論調査の結果を発表した。相手国の印象が「良くない」「どちらかと言えば良くない」との回答は、日本側が計91.6%で、昨年の前回調査から2.8ポイント増。2005年の調査開始後、14年の93%に次いで2番目に高い数字になった。8月上旬に沖縄県・尖閣諸島周辺で中国公船が領海侵入を繰り返したことなどが影響した。中国側は同1.6ポイント減の76.7%だった。

 調査は8月13日~9月4日、日中両国の18歳以上の男女を対象に実施。日本は1000人、中国は1587人から回答を得た。

 相手国への印象が良くない理由(複数回答)について、日本側は「尖閣諸島周辺の領海・領空をたびたび侵犯しているから」が64.6%で最多。「中国が国際社会でとっている行動が強引で違和感を覚えるから」が51.3%で続いた。中国側は「侵略した歴史をきちんと謝罪し反省していないから」が63.6%で最も多かった。

 相手国の印象が「良い」「どちらかと言えば良い」は、日本側が計8%で、こちらも過去2番目の低さ。中国側はほぼ横ばいの21.7%だった。

 現在の日中関係について「悪い」「どちらかと言えば悪い」は、日本は前回と同じ計71.9%。中国は計78.2%で前回より11ポイント悪化した。

 領土を巡る日中間の軍事紛争について「起こると思う」(「数年以内に」「将来的に」の合計)と考える人は、中国側の62.6%に対し、日本側は28.4%だった。

 工藤氏は記者会見で「安全保障面での相手政府の行動を不安視する見方が大きくなっている」と指摘した。【小田中大】

相手国の印象が「良くない」「どちらかと言えば良くない」の合計

日本側:91.6%(+2.8ポイント)
中国側:76.7%(-1.6ポイント)

相手国の印象が「良い」「どちらかと言えば良い」の合計
日本側:8%
中国側:21.7%

現在の日中関係について「悪い」「どちらかと言えば悪い」
日本側:71.9%(前回と同じ)
中国側:78.2%(-11ポイント)

領土を巡る日中間の軍事紛争について「起こると思う」(「数年以内に」「将来的に」の合計)
日本側:28.4%
中国側:62.6%

簡単にいえば、両国民共に相手のことをあまり好ましく思っていないのだが、その度合いは日本の方が激しい。日本人のほとんどが中国を嫌っているのである。(その対象が中国人なのか、中国政府なのか、中国社会なのかは曖昧で、実はこれらを区別することは非常に重要なのだが、この記事では分からない。)

他方、中国人が軍事衝突を恐れているのに対し、日本人はあまり気にしていない。中国人の対日感情が戦争への不安という内実を伴っているのに対し、日本人の対中感情は、中国の覇権主義・大国主義が気に入らないというやや漠然としたものになっているようだ。

この調査を行った言論NPOによれば、対日感情、対中感情はメディアの論調に左右されやすいことが分かるという。毎日新聞の「余録」は、この点で紛れもなくヘイト扇動記事なのである。

参考
日中関係は政府だけでは解決が難しい局面にある12回目の日中共同世論調査で分かったこと | 言論外交の挑戦 | 特定非営利活動法人 言論NPO
「第12回日中共同世論調査」結果 | 言論外交の挑戦 | 特定非営利活動法人 言論NPO

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2016/09/17

市原克也アダルトビデオ監督のインタビュー記事の感想

良く話を引き出した。インタビュアーが頑張っている。

AV問題:語り始めた業界人(2)「清く正しくは間違い」 - 毎日新聞(2016年9月17日 09時00分(最終更新 9月17日 13時06分))【魚拓】

毎日新聞の関連記事リンクも貼ってあってなかなか良い。

市原克也監督の談話がボロボロで業界の闇を露呈している。
だが、監督本人はそのボロボロぶりに気づいていない。むしろご自身の信念や正しいと思う感覚を率直に語るという意識を持っているようだ。
自らの感覚を信じ、それを率直に語ることが開かれたコミュニケーションの基礎なのだという単純な信仰。そして、自らの感覚への考察の欠如。そこに社会常識への挑戦や多少の露悪趣味が混じっている。
市原監督の談話を読んで思い出したのが百田氏のツイートや発言だ。市原監督の語り口は彼の態度と通じるものがある。

*******

監督の談話は、
1.アダルトビデオ業界が全体的に「食中毒ばっかり出す焼き肉屋」ばかりになっていること
2.自分の店も「食中毒」を出し続けていることを全く認識できていない
を示しているのは明らかだろう。業界の闇の深さを思い知らされる。

指摘できる点は山ほどあって到底終わらない。ちょっと唸った箇所を一つだけ挙げる。

 −−(引用者注 出演する女性自身が)AV出演で「一線を越えてしまう」「転落する」などとは思っていない?

 市原監督 そういうのは年に何人かしかいない。一つ一つの絡み(性行為)が意味を持つから、僕らはその方がありがたいんだけど……。

「絡み」がその女優の人生と紐づけられることで、その「絡み」に深みを与えられるという趣旨だと思うのだが、これって、例えば絵画や文学で破滅型の作家の作品を、作家の人生・人格と重ねて鑑賞するという方向と同様のことだろう。そして、市原監督は、その女優が破滅すれば自分の作品に深みが出ると言っているのだろう。これはなかなかすごいことではないか?

画家や作家は自分の破滅によって自分の作品に深みを与えた。本人がそうしたかったかどうかは別にして、自分の作品を自分の人生で飾ったわけである。ところが、監督は、女優の破滅を自分の作品の飾りにしたいと言っている。重ねて言うが、これはなかなかすごいことではないか?

人を道具と見ることしか知らない人が表現者として活躍すること自体はあってもいいだろう。創作活動ではそういう要素があることは否定できない。「地獄変」の良秀の陶酔は理解できる。そして、市原監督は「AVは善なるものではなく、清く正しいものにしていく方向は間違っている」と言っている。しかし、そう考えるのなら、「出演強要は考えられない」とか「一部の業者が悪質なだけだ」という言い訳はせず、「AVは闇を背負うものであり、その闇があるからこそAVは輝くのだ」と言う方がいいのではないか。

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2016/09/16

日本の排外主義ヒステリーは本当に異常

蓮舫氏、台湾籍認める=「記憶不正確」と謝罪 (時事通信) - Yahoo!ニュース(9月13日(火)10時45分配信)

はてなブックマーク - 蓮舫氏「台湾籍」認める=「混乱招きおわび」 (時事通信) - Yahoo!ニュース

時事の記事がすでに排外主義的。

蓮舫氏は旧民主党政権で、台湾籍が残ったまま閣僚を務めていたことになり、波紋が広がりそうだ。ただ、15日投開票の代表選を辞退する考えはないと強調した。
とか、
同時に、二重国籍批判に関しては「これまで政治家としては日本人という立場以外で行動したことはない。日本人として日本のために働いてきたし、これからも働いていきたい」と釈明した。
とか、日本人としての純粋性がなければ政治に携わるべきではないというような論調。気持ち悪すぎる。「グローバル人材が必要!」とかいう官製スローガン(グローバル人材!笑)があるような時代に何を言っているのだろうと時代錯誤ぶりに頭がくらくらする。

だが、この類いの論調は時事通信だけにとどまらない。どうやら一般にもそういう空気が横溢しているらしい。はてブの大多数が蓮舫氏を何らかの理由でとがめている。今回、蓮舫氏が咎められる理由は何もないし、国籍や出自などでさんざん差別的に扱われている被害者である。にもかかわらず、彼女を擁護するコメントはほとんど見られない。国籍は問題ではないという人も、彼女の言動が良くないなどと言っている。レイプ被害者を「あなたの言動が良くない」と咎めるのと何が違うのだろうか。こういうのをセカンドレイプと言う。そしてセカンドレイプはマイノリティやセックスなど、それ自体がスティグマとされる属性に絡んで行われる。蓮舫氏をセカンドレイプしている人々は心の奥で日本人の純潔性(笑)を信奉し、外国人が政治参加すると自分が蹂躙されるかのような恐怖を感じているのだろう。

民族性やアイデンティティは国籍などという単純な形式で到底識別できるものではないということはさんざん明らかにされてきたと思うのだが、我が国では国家と国民は一心同体であるという観念が未だに強く信じられているようだ。

ニュース本文

民進党代表選に立候補している蓮舫代表代行は13日午前、記者会見し、父親の出身地である台湾(中華民国)籍が残っていたことを明らかにした。

蓮舫氏の会見要旨

 台北駐日経済文化代表処(大使館に相当)から12日夕に確認の連絡を受けたという。蓮舫氏は「記憶の不正確さから混乱を招き、おわびする」と謝罪した。

 蓮舫氏は旧民主党政権で、台湾籍が残ったまま閣僚を務めていたことになり、波紋が広がりそうだ。ただ、15日投開票の代表選を辞退する考えはないと強調した。

 蓮舫氏はこれまで、日本と台湾のいわゆる「二重国籍」を否定。17歳だった1985年に日本国籍を取得した際、父親とともに代表処へ出向き、台湾籍放棄の手続きを取ったと説明していた。しかし、手続きが済んでいたかは「確認中」として、6日に改めて台湾籍放棄の手続きを申請した。

 蓮舫氏は会見で「(台湾籍放棄)手続きが完了すれば、籍に関することは最終的に確定する」と述べ、手続きが終わるまでなお時間を要するとの認識を示した。

 同時に、二重国籍批判に関しては「これまで政治家としては日本人という立場以外で行動したことはない。日本人として日本のために働いてきたし、これからも働いていきたい」と釈明した。 

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2016/09/09

音で訪ねる ニッポン時空旅「あの世に歌う~なき唄」の聴取メモ

以前、与論島の洗骨の儀式についてメモしたことがあった。

土葬への嫌悪感について: 思いついたことをなんでも書いていくブログ

もともと風葬であった地域に明治政府からの圧力があり、埋葬方法が土葬に、さらに火葬に変わっていったこと、そして、風葬から土葬に変わった後、土の中で苦しい思いをした死者の霊を慰めるために生まれたのが洗骨の儀式だということであった。

今回、たまたまラジオを聴いていて、それにつながりそうな話を拾ったので、聴取記録をメモしておく。今回は徳之島の話である。

洗骨の儀式をテレビで見たときには、風葬でも土葬でも肉体を自然な腐敗に任せることには変わりがないのに、なぜ、この地域の人々が死者が土の中で朽ちていくことを耐え難く感じるのか、その感覚がよく分からなかった。だが、今回のラジオでの解説を聞いて、少しその辛さが分かったような気がする。
それと同時に、風葬のような、目につく場所に死体を放置する、言わば見苦しく不衛生な方法がなぜ大切にされてきたのかも、少し分かったような気がする。

私の肌感覚は、遺体は火葬する、しかも野焼きではなく窯で肉を完全に灰にすることこそが、あるべき弔いだというものだ。今回の番組を聴いて、改めてその自分の無意識に潜む火葬中心の感覚を自覚することができた。と同時に、他の埋葬方法、土葬や風葬や鳥葬などへの違和感も和らいだような気がする。

**************

NHKラジオ 音で訪ねる ニッポン時空旅「あの世に歌う~なき唄」

出演:永野宗典・本多力(ヨーロッパ企画)、サカキマンゴー(親指ピアノ演奏者)
【解説】島添貴美子(富山大学)

※「なき唄」とは葬送時の泣き歌のこと。

ストリーミングを聴く - 音で訪ねる ニッポン時空旅 - NHK

日本では葬式は静かにしめやかに行うものという感覚があり、葬儀で歌ったり踊ったりすることはマナー違反と思われがちだが、世界各地には葬儀で歌い踊る習慣がある。実は日本にも葬儀で歌う習慣はあるという話で、以下、徳之島の「なき唄」が紹介される。

(以下のメモは「こう聞こえた」という記録であり間違いがありうる。また「なきうた」の表記は番組に合わせて「なき唄」としたが、「なく」を「泣く」とするなど一部表記が揺らいでいる。そのほかの表記方法も同様である。)

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前略

本多:女性達が歌っておりますが…。

島添:はい。「くや」と言います。集落によっては「うもい」「おもり」「うやむい」などと言われる歌なんですが、短い節で死者への呼びかけを繰り返します。で、遺族の方が、「うもりさーれ」うもりをしてくださいとか、あるいは、声を掛けてくださいというふうな形で所望しますと、亡骸に向かってその場の女性達が声をそろえて歌いかけるわけです。
で、徳之島の郷土史家松山光秀氏によりますと、近親の女性達が亡骸を囲んで「くや」を歌い、歌いながら亡骸の顔をのぞき込んだり、死後の硬直を防ぐために手足を曲げたり揉んだりするそうなんです。
で、この「くや」なんですけれども、臨終の直後から始まって、途切れさせてはいけないと言われまして、「くや」の呼びかけというのは何度も何度も繰り返されるわけなんです。
で、この呼びかけの言葉なんですけれども、亡くなった人の年齢によって変わるそうでして、(今)聞いている「くや」は「うやまなし」、親のことですね。

島添:で、実はこうやって「くや」が繰り返される中で、遺族の方々は「いぎゃねい」、これはしのび(忍び?偲び?)ごとと訳されるものなんですけれども、この「いぎゃねい」を死者に対して語りかけたりもしているんです。で、この「いぎゃねい」というのは、死者に対して何を話しても良いけれども、例えば、また戻っておいでという類の言葉は慎むようにしなければいけない。それで、あなたはもう何一つ思い残すことはないから、どうかまっすぐ先島(さきしま)に行ってください、先島というのはあの世のことなんですけれども、どうかあの世へ行ってくださいとか、どうか後ろは振り向かないでくださいといった暇乞いの言葉を死者に言いかけるわけなんです。
で、「くや」というのは「どうして亡くなってしまったの」っていうような思いが詰まる言葉があるんですけれども、その一方で「いぎゃねい」によって、使者が戻ってこないように、ちゃんと無事にあの世に行ってくれるように細心の注意を払うんですね。

サカキ:仏教的に言えば成仏してくださいっていう……。

島添:そうそう。無事にあの世に行ってくださいということですよね。

本田:そうか。悲しんでいるだけやとね、行きづらいですもんね。

島添:そうです。逆に、身が引かれるような思いでこの世に留まり続けるっていうのはやっぱり良くないことだ、と。

永野:送る側も気持ちをそうやって整理するということなんですかねえ。

島添:そうですよね。で、その一方で「くや」はもうどうして亡くなってしまったのっていうふうな思いがあふれ出るような言葉が出てくると。そのバランスって絶妙ですよね。
島添:ところがですね、文化人類学者の酒井正子が書かれた『哭きうたの民族誌』という本によりますと、この島のほとんどの集落にこうした泣き歌、あったようなんですけれども、お坊さんがいなかったので、結局「くや」、こういう歌を歌って死者を送ったというふうに…。

本多:あ、さっき言っていたみたいに、自分らで送っていたということなんですね。

島添:ところが、1960年代くらいから徐々に歌われなくなったといいます。お坊さんがお経を唱えるのがお弔いという形になっていたということだと思いますが。

本多:なるほど。で、そうしてですね、葬儀が終わった後も別の歌がまたあるんですって。残された遺族の方々が寂しさを紛らわすために口ずさんだ歌なんですけれども、手々集落の「やがま節」というそうです。先生、この「やがま節」の内容というのは?

島添:はい。歌の内容を訳しますと、「幼子を亡くしたら、あぜ道を踏み外すほど、夫を亡くしたら、死ぬほどの苦しみだ。」で、これが一節目で、二節目が「愛しい兄さん、どこに行ったの。いくさき浜の真ん中に。」このいくさき浜ってお墓があった浜と言われていますね。だから亡くなったらお墓の真ん中に行っちゃった、という話ですよね。で三節目なんですが、亡くなった人が戻ってくるのではないかと思いながら、「北の戸口も恋しい、南の戸口も恋しい。で、恋しい人の声を待っている」という内容の歌です。

本多:なるほど。じゃあそれをイメージしながら聴いていただきましょう。「やがま節」、山田ときさんの演唱です。

島添:で、「やがま節」の「やがま」なのですけれども、「とぅるばか」と言いまして、洞窟をお墓に利用したり、あるいは岩に穴を開けてそれをお墓にしたりするようなお墓のことを「とぅるばか」と言うんですけれども、結局この歌というのは、お墓の前での死者の別れの歌遊びに歌われた歌というような説があったり、あるいはその「やがま」っていうのは、腹立ちとかわだかまりなど鬱積した思いを吐き出すこととも言われていまして、だからその、亡くなった人に対する思いを吐き出すっていうところで「やがま」というふうに言うという説もあるというものなんです。大体四十九日ごろまで残された家族が寂しさを紛らわすために口ずさんだ歌なんだそうです。
まあ、いくさき浜、お墓のある浜とか、「とぅーるばか」みたいないろいろ…?…に入ってくるんですけれども、これ、かつて南西諸島では風葬の習慣があったんです。で、風葬というのは洞窟に亡骸を置きまして風化させるという埋葬の方法なんですけれども、四十九日といいますとちょうどその亡骸の肉が落ちて骨になっていく頃が大体四十九日なんですね。南の島ってやっぱり気温が高くて湿度があるので、まあ肉体の腐敗はやっぱり早いと思うんです。で、この亡骸が腐敗して骨になっていく最中というのは、まあ死者にとっては非常に苦しい時期だと考えられておりまして、それで、死者を慰め励ますために、残された家族や友人達が墓参りを繰り返すわけなんですね。で、こうやって「やがま節」とかを歌うわけなんですけれども、で、逆にこれが生きている人たちにとっても、時間をかけてその亡くなった人とお別れをし、それで気持ちの整理をしていく時間にもなっていたわけなんです。

サカキ:これは、見に行くんですか。腐敗して骨になるまで。

島添:そうなんです、毎日お墓を見に行くんですね。で、そうすると一日一日亡骸の状態が変わっていくのを毎日見に行くわけなんです。

本多:えぇーっ。何とも言えない気持ちになりそうですね。

島添:で、たぶんなんですが、ものすごい臭いもしてくるはずで、そこでその、本当に亡くなったということをここでたぶん実感していくんだと思うんですね、日に日に。

サカキ:今と比べると考えられないくらい死が身近ですよね。

島添:そう思います。

サカキ:そこにちっちゃいときから例えば一緒に通っていたら……。

島添:そうですよね。

本多:死ぬっていうことはこういうことかってね。

サカキ:自分もこうなるのか。

島添:そうですね。まあ沖縄の文献を読んでいますと、だからその、毎日見に行きますよね。それでお棺から亡骸を取り出して、腰を掛けさせて一緒に歌遊びをしたりとかっていうような習慣がある地域とかもあったそうなんですが。ところが腐敗が進んでくると、もう腰掛けさせることができなくなるんですよね。で、そこで本当にこの人は亡くなったんだってことをここで確認できる、実感するわけなんですね。

本多:えぇーっ。そうかあ。

永野:本当に現代とは死との向き合い方が全く違いますよね。

島添:で、あとやっぱり、亡くなる人にとっても、火葬は熱くて、灰になるというのは、もうあの世に行けないっていうふうに考えているわけで、かといって、土葬だと冷たい地面の下に置かれるのはやはり辛いだろうということで、だからやっぱり、風葬の習慣があったところっていうのはそうやって埋葬されることがあの世に行く正しい方法なわけなんです。

本多・永野:なるほどね。

永野:まあ自然な発想だったんですかね。ずっと寄り添って。

島添:そうですね。

本多:で、これまで徳之島の「泣き歌」で時空旅して参りましたが、最後にもう一曲ですね、今度は日本最西端の島、与那国島の泣き歌を聴いてみたいなと思います。葬儀のときに残された人々が故人をなくした悲しみを歌に託したという「みらぬ歌」です。先生、こちらの歌の内容を。

島添:はい。「見ない仲なら見ないでよかったのに。知らない仲なら知らないで済んだのに」という。で、「かわいそうな奴、切ないなあ」っていうふうな歌詞が一節目にあり、で、二節目。「見ないうちはともかく、見れば抱きたくなる。抱けば恋しくなり、思えばたまらない。」で、「かわいそうな奴、切ないなあ」という、ちょっと切ない内容で。では行きましょうか。

本多:はい。では宮良保全さん、富里康子さんの演唱で「みらぬ歌」、三線の伴奏付きで1978年の録音です。

永野:じっと身を預けて聴いてしまいましたけれども。

島添:南の島の歌ですよねえ。

永野:風景もなんか目に浮かぶような。

島添:ゆたーっときますね。

一同:うーん…。

島添:まあ、先ほども引用してきました酒井先生の『哭きうたの民族誌』によりますと、この歌、お通夜で夜通し歌った歌だそうでして、亡くなった方の思い出などを即興で掛け合ったそうなんです。今も一応掛け合いにはなっていましたよね。ただですね、与那国では歌が崩れて伝承を危ぶむような声が挙がったこともありまして、10年掛けて楽譜化して、1970年に「民謡工工四(くんくんしー)」という楽譜集を出しているんですけれども、その影響だと思うのですが、この「みらぬ歌」も現在ではこの「民謡工工四」バージョンがステージなどで歌われるようになっているそうなんです。

サカキ:こうしないと残んないですけど、譜面化しないと残らないけれども、メロディーの多様性だったり歌詞の即興性ってのは損なわれてはいきますよね。固定化されちゃうから。この節で歌わないといけないっていうふうにはなっちゃいますね。

島添:そうですね。なのでたぶん「みらぬ歌」のバージョンも人によってずいぶんいろいろあったと思われるのですが、今は民謡工工四バージョン…。

サカキ:習慣が一緒に残っていないと残りようがないですよね。

島添:そう思います。

本多:そうか…。一個できちゃったらみんなそれで学んじゃうから…。

島添:そうですね。

後略

************

メモの後書き

この番組で風葬の儀式について知り、思い出したのが「もがり(殯)」のことである。

今年8月に天皇が生前退位を望む談話をテレビで公表し、そこで「重い殯」が嫌だという話をした。

これに気づいたのは下記のブログの指摘による。
現天皇を「非常に厳しい状況下に置」いた「重い殯(もがり)」とは - kojitakenの日記

「殯」とは天皇の葬儀の一環で、遺体を即座に荼毘に付さず、一定期間そのまま安置し、その遺体と遺族などが対面し続けることを指すようだ。

殯(モガリ)とは - コトバンク

この解説によれば、どうやら「殯」の習俗はアジア一帯にあり、日本古来の葬式にもあったらしい。どうも大王や皇室の儀礼であったような印象を受ける記述である。

現代の日本では通夜後早々に火葬するのが当然になっているが、実は風葬のエッセンスは、現代の皇室儀礼に(それが明治以降に再構成されたものであるにせよ)残っているのである。これを日本文化の古層だというつもりはないが、しかし皇室を奉ることで出発した近代日本が弾圧した習俗の本質が、実は皇室の儀礼にも含まれていたのは何とも皮肉というか、興味深い。

そしてもう一つ面白いことがある。天皇談話によれば、現在の天皇はどうやらその習俗を受け入れがたく苦痛に思っているらしいということである。彼は現代日本では殯の儀式を引き継ぐ唯一の男という役を背負わされているが、その古い儀式に馴染めない。火葬を当然とする現代日本の感覚に影響されているのである。その意味では彼も殯という弔い方を理解できない普通の現代日本の男性なのだ。

良くも悪くも現天皇は戦後日本の感覚を持った人なのだなあとは、折々に出される安倍政権を牽制するような発言でも感じていたことだった。日本国憲法にある象徴天皇制という原則、次第に拡張される「公式行事」による国民への浸透政策、そして戦争責任。日本の戦後民主主義とバランスを取りつつ天皇制を維持しようとしてきた人のように見える。そして、その戦後感覚から出られない人なのではないか。殯という弔い方を忌まわしいもの、ケガレのように思い、そこから逃れようとする彼の心情から、殯を時空を越えた連続性の中に位置づけ、弔いの奥深さを理解しようとする様子はうかがえない。自分の体験の中で培った天皇制理解に基づいて、その理想像を誠実に演じようとするが、その理解の枠からは一歩も出ようとすることがない。そのような人のように思えるのである。

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2016/07/29

今の日本の食文化は「豊か」なのだろうかと時々思う件

日本では戒律で食べないものはあまりないかもしれないけれど、習慣的に食べないものは結構多いように思う。

この件。
はてなブックマーク - ムスリムの人が日本人に「どうせ無宗教ならイスラム教に改宗どうだい」と言ったら「〇〇が食べたいから考えさせて」と言われ〇〇の美味しさが気になってしょうがないらしい - Togetterま

「食い物に制限を掛ける宗教が日本でメジャーになるイメージが一切湧かない。」
「食に自由がない宗教って、日本じゃ絶対流行らない(多数派にはならない)よな。」

学生を中国に連れて行くと、「食べられない!」と言う人がたくさん出てくる。料理の味付けだけの問題ではなく、食材から食べられないというのだ。また、私の知人には、台湾観光の食事で豚の頭が丸ごと出てきたことにショックを受け「二度と台湾には行かない」と決心した人が二人いる。中華料理の食材の多くをゲテモノだという人は少なくないはずだ。それに、食用動物を生きたまま販売し、調理時に屠殺・解体する方法をグロテスクだと感じる人も多いだろう。

韓国に行くと、日本ではほぼ市場に出回らない食材が市場で普通に売られていたりする。日本では野草や雑草として扱われている草や木の葉、海産物などが韓国では日常の食材だったりする。香辛料やハーブも豊富だ。

日本以外ではあまり見ないような食材は確かにある。こんにゃくいも、わさび、山芋のようなものは、他の地域ではあまり見ないような気がする。納豆もそうかもしれない。それに、今では食材だと思われなくなってしまったものも昔はよく食べられていたようだ。年配の日本人だと、韓国の市場に行くと懐かしいと感じることがあるかもしれない。また、昔は地域性がもっとあって、他の地域では食材だと見なされていないものが地域によっては日常の食材だったりする。都会の人は雑草や食べられないものだと思っているものが田舎では子供のおやつや嗜好品代わりだったという話はいろいろある。魚介類などには今でもそういうローカルフードが残っている。だから、日本がもともと食材の種類が少ない社会だということはないのだろう。

しかし、現代の我々が日常でなじみがある食材は案外種類が多くないのではないか。食品産業や流通の都合やメディアの影響、仕事と生活スタイルの変化によって、我々の食生活はいろいろと標準化され、均質化しているような気がする。それが食材や味、料理方法に対する対応の狭さ、ある種の偏狭さを生んでいるのではないか。私たちは先祖がなじんでいた食材や味の多様さをいつの間にか忘れてしまい、知らず知らずのうちに、ある決まった傾向とパターンの食べ物だけを「食べ物だ」と認識するようになってしまっているのではないか。

我々は、しばしば、イスラム教徒など食にタブーを持つ人の食生活を窮屈に思ったり揶揄したりするけれども、我々も、自ら気づかないうちに自分たちの狭い枠の中に収まって、別の窮屈さの中で生活しているのかもしれない。自分たちが収まっている枠の狭さに気づかず、ほかの枠に従って生きている人々を「大変だねえ」とか「かわいそうだ」などと言い、自分たちの枠の外にいる人たちの食べ物を見て「気持ち悪い」とか「ひどい料理だ」とか言っているのだとすれば、ずいぶん滑稽ではなかろうか。

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2016/07/20

原発ほど楽しく稼げる商売はない

福島原発が爆発したとき「これで原発関連業界は一生メシが食えるな」と思った。

東電「完全凍結は困難」 第一原発凍土遮水壁 規制委会合で見解 (福島民報) - Yahoo!ニュース(7月20日(水)10時45分配信)

 東京電力は19日、福島第一原発の凍土遮水壁について、完全に凍結させることは難しいとの見解を明らかにした。同日、都内で開かれた原子力規制委員会の有識者会合で東電の担当者が示した。東電はこれまで、最終的に100%凍結させる「完全閉合」を目指すとしていた。方針転換とも取れる内容で、県や地元市町村が反発している。
 会合で東電側は規制委側に凍土遮水壁の最終目標を問われ、「(地下水の流入量を)凍土壁で抑え込み、サブドレン(建屋周辺の井戸)でくみ上げながら流入水をコントロールする」と説明。その上で「完全に凍らせても地下水の流入を完全に止めるのは技術的に困難」「完全閉合は考えていない」と明言した。
 これに対し、オブザーバーとして出席した県の高坂潔原子力総括専門員は「完全閉合を考えていないというのは正式な場で聞いたことがない。方針転換に感じる」と指摘。東電側は「(凍土壁を)100%閉じたいのに変わりはないが、目的は流入量を減らすこと」と強調した。
 凍土壁は1~4号機の周囲約1.5キロの地中を凍らせ、建屋への地下水の流入を抑え、汚染水の発生量を減らす計画。
 東電は3月末に一部で凍結を始めたが、一部で地中の温度が下がらず追加工事を実施した。東電によると、第一原発海側の1日当たりの地下水くみ上げ量は6月が平均321トン。5月の352トンに比べ31トン減少したが、凍土壁の十分な効果は確認できていない。
   ◇  ◇
 東電が今年3月に特定原子力施設監視・評価検討会で公表した資料では凍土壁造成の最終の第3段階について「完全閉合する段階」と表記していた。経済産業省資源エネルギー庁も「凍土遮水壁は最終的には完全な凍結を目指す」(原子力発電所事故収束対応室)との認識だ。
 規制委会合で東電が示した見解について、県の菅野信志原子力安全対策課長は「おそらく公の場では初めてではないか。汚染水の発生量を減らすという凍土遮水壁の目的を達成するため、当初の計画通り100%凍らせる努力が必要だ」と強調した。
 福島第一原発が立地する双葉町の伊沢史朗町長も「公式の場で方針転換とも取られかねない発言を唐突にする東電の姿勢には、非常に違和感を感じる」と指摘した。双葉地方町村会長の馬場有浪江町長は「凍土壁で汚染水を完全に管理できるという説明だったはず。町民の帰還意欲にも影響しかねない問題だ」と批判した。
 一方、東電は「地下水流入量抑制が目的で、100%閉合を確実に実施するわけではない。目的は変わっておらず方針転換ではない」(本店広報室)としている。
本来、東電は原発の事故処理という巨大な厄介を抱え込んでいるのだが、壊れた原発という「社会的にとにかく放置できないもの」を操作する主体として、社会(政府)に強い交渉力を持っている。原発の状況情報と実務の裁量で他に優越しているので、資金源たる社会との交渉の場作りをコントロールすることも出来る。
そして、この東電が引き出す膨大かつ超長期にわたる資金源に多数の関係業者と研究者が群がる。さらには資金源たる政府関係者と政治関係者もそこに群がる。これは既存の原発村というか原発生態系がそのまま生きる格好になっているのだが、事故処理と廃炉処理という新たなネタが投入されたおかげで、汚水処理やロボット技術などの人々もメシの種を見つけられることになった。

事故処理、廃炉処理から加わった人々は、それまでの原発生態系の人々に比べて新たな強みを持っている。それは、自分が社会正義に則っていると信じることが容易だということである。自分の新たな発想や試行錯誤を事故収束という人類の未知の困難な課題への貢献だと正当化しやすい。前人未踏の難問に挑むのだから失敗は付きものだし、失敗を繰り返しながら前進するしかない。そして出来るだけ早急に事故は収束させねばならないのだから常に万策を講じる必要がある以上、資金は惜しみなく注がれなければならない。

というわけで、事故後の原発処理業界は巨大なエネルギー源を得た生態系のように一気に発展し、カンブリア爆発のような奇妙な種(技術・事業)の繁殖を生む。今回の凍土壁はそうしたものの一つだろう。

なお、潤沢な資源があってもそこに生存競争が発生しないことはない。淘汰圧がゆるむ上に、今回の事故処理ではルーチンも技術も確立していない、つまり何が正解かも分からないため、多様なアイデアや技術や事業が立案段階のスクリーニングをくぐり抜けるので、外野から見るとナンセンスとしか思えないものが現実化しやすくなるということである。そしてさらに事業採択をめぐる交渉ゲームというメタ構造が生まれるので、外野にはますます訳が分からない世界が生まれていく。……まあ熱水噴出口近辺の生態系のようなもので、大きな資金源がある世界では大なり小なりどこでも起こっている話で、ムラ社会の形成メカニズム的な話ではある。

こういうふうに考えて行くと、社会がこの原発処理生態系にたかられる規模を減らすには、処理に関する情報や裁量をなるべく独占させないということが第一になる。出来るだけ利害関係が離れた(ないし対立した)人々・組織を処理プロセスに関わらせて、資源配分の権限の分散を図るという発想である。第二に、プロセスの透明化と責任主体の明確化だが、それには結果責任への引責方法を明記し、責任判定者を処理業界から距離の遠い人たちで構成させるという仕掛けが必要になる。たとえば今回の凍土壁の問題で言えば、第三者が事業を監視するモニタリング組織を設けて強い査察権限を与えること、そして事業の正否の客観的判定基準を事前に設定し、失敗時には施主も施工会社も事業経費を賠償するなどの義務を課すこと、などである。

こうした制度によって事故処理の業務や技術開発活動自体が歪められるというおそれは当然出てくるが、それによる社会的費用はこうした制度がない場合の社会的費用と比較されなければならない。原発処理の社会的費用をいかに見積もるかは難しい問題だが、当初から正否が危ぶまれていた技術に数年以上もこだわり(むしられる側であるはずの政府も強く支持していた)、多額の開発費を浪費したあげくに当初目標をなかったものにして恬淡としていられるような環境を放置することは、制度設計としてザルのようなものだとは言えるだろう。

ともあれ、経産省や内閣の様子を見る限り、このような「ザル」を改める気運が彼らから生まれるとは思えない。生態系内部から生態系のエネルギー源を閉じようという話はなかなか生まれないだろう。だから状況の変化には外的な力が必要なのであるが、これも当面は期待できそうにない。そして、誰がどうしようが原発処理には数十年以上かかることは確実であり、その処理費用が多額になることもまた確実である。
というわけで、原発の処理業界は今後数世代の安定・成長産業になると見込まれる。少子高齢化・人口減少・低成長の時代にあって数少ない有望事業の一つになるだろうから、若い人は目指すといいのではなかろうか。

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追記(2016年8月19日)

福島第一の凍土壁、凍りきらず 有識者「計画は破綻」:朝日新聞デジタル(2016年8月18日20時47分)

 東京電力福島第一原発の汚染水対策として1~4号機を「氷の壁」で囲う凍土壁について、東電は18日、凍結開始から4カ月半で、なお1%ほどが凍っていないと原子力規制委員会の検討会に報告した。地下水の流れを遮るという当初の計画は達成されておらず、規制委の外部有識者は「破綻(はたん)している」と指摘した。

 東電の報告によると、3月末に凍結を始めた長さ約820メートルの区間の温度計測点のうち、8月16日時点で99%が零度以下になったが、地下水が集中している残りの部分はまだ凍っていないという。東電は、セメントなどを注入すれば凍らせられると主張した。

 凍土壁の下流でくみ上げている地下水の量は、凍結開始前とほとんど変わっていない。外部有識者の橘高(きつたか)義典・首都大学東京教授は「凍土壁で地下水を遮る計画は破綻している。このまま進めるとしても、別の策を考えておく必要がある」と指摘。検討会は、上流でくみ上げた場合の地下水抑制効果の試算などを示すよう東電に求めた。(富田洸平)

東電はなぜこれほどまで凍土壁にこだわるのだろうか。

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環境保護を身にまとった排外主義+α

下記の運動。

奄美大島のすばらしい自然を残すため、中国人客5,400人を乗せた22万トン級クルーズ船の寄港地建設計画をやめてもらいたい!

この短い呼びかけ文の中に「中国人」が6回出てくる。

現在建造中で2018年完成予定の世界最大級のクルーズ船が上海から九州に向かう途中で奄美に寄港する計画。そのために奄美大島龍郷町芦徳の浜に350mの桟橋を建造し、中国人観光客のために芦徳半島はテーマパークにするという。
寄港を予定しているクルーズ船…
226,000トン、全長362m、幅65m、高さ72m、81,500馬力のエンジン
(比較として、世界最大のニミッツ級原子力空母より大きい)
乗客は中国人5,400名(乗組員2,100名)
つまり、寄港日は龍郷町にいる人の半分以上が中国人になります。
龍郷町民約6,000人に対して、中国人観光客5,400人プラス乗組員2,100人という、島のキャパシティを超えた規模の船が来たなら、奄美ならではの心地良さを壊してしまうでしょう。
”中国人の観光地”のイメージがつくと、日本人観光客や日本人移住者は必ず減少します(差別的な考えではなく、島の規模と対応力の問題です)。現在移住してきているIターン者も、生活環境の悪化があれば島外への転居を考えざるを得ません。
「差別的な考えではなく」なのだそうだ。頭が痛い。
大型クルーズ船の発着場とレジャー施設建設に反対するのに、なぜ「中国人」を連呼しなくてはならないのだろう。たとえばこれが日本や欧米からのクルーズだったらどうなったのだろう、「日本人」とか「欧米人」とかを6回も連呼しただろうかとつい思ってしまう。

もっとも、静かな村に外国人が大挙して押し寄せるというイメージに地元民が不安を覚えることも理解できる。その不安に乗じて排外主義は忍び寄る。だから、この不安をほぐす努力が必要だ。それはもちろん開発推進側がすべきことではあるけれど、寄航施設の建設への反対の本義が自然環境の破壊と住民生活への影響、そして強引な進め方にあるのなら、反対側も自分たちが排外主義に巻き込まれないように、そして住民の不安をあおらないように留意しなければならない。第三者の誰かへの差別感情を強化することは運動の目標とは関係ないし、長い目で見れば地域社会を毀損するのだから。

ちなみに、中国台湾発のクルージングツアーの多くでは寄港地滞在は朝から夕方まで、つまり長くて12時間程度しかいない。そして奄美大島に寄港する船は一年に数十もないだろう。そして、龍郷町は大島の中でも端にあるから移動も不便で、島内を縦横無尽にツアーバスが走り回るということもないだろう。そもそも動員できる観光バスがそんなにないし。大型クルーズ船を当て込んでバスを買い込んだらたぶん持て余す。常時観光客があふれるほどにはインバウンドを期待できないからバスの稼働率が上がらないだろう。
ほかにも観光客の行動管理や入管・警察との絡み、住民の治安への不安などいろいろ混ざって、結局ツアー客は限定された場所で囲い込まざるをえないだろう。したがって、町内を外国人観光客が我が物顔でぶらぶら歩くということは起こりにくいだろう。
というもろもろのことから、「住民人口より中国人が多くなる」みたいな不安は少なくとも生活空間が侵食されるという意味においてはあまり現実的ではないだろう。
外国人への不安感を開発反対運動のテコに利用することは、環境保護や地元民の生活防衛という大義を汚すし、地域の対外イメージにも傷をつけることになるのではないか。

私も龍郷町は何度か訪問しているし、奄美群島をめぐる状況はある程度知っていて、その上で今回の開発には懐疑的な気持ちを抱いているが、この署名の呼びかけだとちょっと乗れないなあと思う。地域の人たちの不安をそのまま代弁しているかのようにも読めるが、もしそうなら余計に問題だと思うからだ。悲しいことだけど。

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2016/07/13

関経連は日本の特権階級(の一部)であるらしいという話。

森詳介・関経連会長(関電の前会長)が、原発運転差し止め請求が出来ないように法改正したいと述べたとのこと。
これに、角和夫副会長(阪急電鉄会長)も同調したそうだ。

原発差し止め仮処分申請「できないように」 関電前会長:朝日新聞デジタル(2016年7月13日18時58分)

 原発の運転差し止めを求める仮処分の申し立てが全国の裁判所で相次いでいることについて、関西電力前会長の森詳介・関西経済連合会会長は13日、「司法リスクを限りなく小さくする必要がある」と述べ、申し立てができないように法改正などを政府に求めていく考えを示した。仮処分を申し立てた住民側からは「傲慢(ごうまん)だ」との声も出ている。

 関電は12日、高浜原発3、4号機(福井県)運転を差し止める大津地裁の仮処分決定に対する異議が退けられ、同原発が動かせない状態が続く。関経連の会見で森氏は「仮処分は民事で扱わない、特定の裁判所でやるとか、いろいろな方法がある」と指摘。国のエネルギー政策とかかわる原発の運転をめぐる問題は仮処分申請を認めず、知的財産権を専門に扱う知財高裁のような特定の裁判所で扱うべきだなどとした。

 森氏はそのうえで「資源エネルギー庁も大変大きな問題意識を持っている。最終的には法務省に要望していきたい」などと述べた。

 会見では、角和夫副会長(阪急電鉄会長)も森氏に同調して「原発を動かす、動かさないは行政訴訟に限定するなど、やり方はある」などと説明した。

 これに対し、大津地裁に仮処分を申し立てた住民側の井戸謙一弁護士は「人権侵害を緊急に救済する道を閉ざせば、憲法の『裁判を受ける権利』の否定になる。法改正まで訴えるのは、傲慢な姿勢だ」と批判した。

これこそ権力者の感覚なのではないか。法と制度を恣にする。それがおかしいと感じないし、むしろ社会正義に適うものだと思っている。
正義を行使するために社会の根幹的な法制度を深い次元で変更する。
これを国民的課題とせず、少数の有力者の中の調整で実現しようとする。
この方法・姿勢がむしろ正しいものだと信じている。(いくら何でも、私利私欲のために国民の権利を侵害してかまわないと正面から主張しているのではないだろう、たぶん…。)

これこそ正に王や貴族の心理であろう。
彼らは、自分たちがそのような者であると認識しているのだろう。
我々(日本国民)が彼らにそのような地位を認めているとは思えないので、彼らは権力の簒奪者であるか、あるいは自分たちの特権は神授されたものと考えているのではないか。

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