伝統かしらんが嫌なものは嫌
なぜ高校で針供養が行われなくなったかというと、過度な宗教教育排斥のせいなんだとか。針供養は神社の神主さんが行うわけで、神道にのっとっているわけだが、どうもそれを嫌う人がいるのだという。個人で針供養をするなら何ら気にしないけど、「日本人精神」とか「感覚」とか「日本人ならだれもが持っている」とか「それを否定するのは自分が日本人である事を否定する事だろう」とか「日本人が日本の伝統を否定したら国が無くなってしまう」とか気持ち悪すぎ。そもそも本当にこんな儀式手順が「伝統」なの?っていうか伝統って何?淡島大明神。婦人病と安産の神様。
しかし思うに、神道と宗教はちょっと違う。神道は、昔から日本人精神の中心に存在する八百万の神を基本とする「感覚」を神格化した物である。だから、日本人ならだれもが持ってるものであり、それを否定するのは自分が日本人である事を否定する事だろう。日本人が日本の伝統を否定したら国が無くなってしまう。だけども、それを気に入らない一部の大人が騒ぎ立て、針供養などの伝統行事を潰してきた歴史があるらしい。そうして毎年、針供養を行う学校が減り大竹学園だけになってしまったのだとか。
針供養は神道に基づく日本の伝統行事であって、決して宗教教育ではない。だから伝統を残すために意地でも続ける。そう、校長先生が言っていた。僕もそう思う。
自らの宗教性を真剣に考えている人がこの儀式に違和感を覚えても不思議はないと思う。一神教の人たちが持っている世界観とまるで違うものが表明されていて、それに内部関係者として参加させられるのに苦痛を覚えても当然だと思う。私はどこの宗教の信者でもないけれど、神道は正直あまり好きじゃないからこの行事の様子には正直かなり違和感を覚えるし、やっぱり参加させられるとしたら気が重い。
これはやっぱり宗教的な儀式だと思う。それを「宗教じゃない」「日本人だったら…」みたいに責められるのは嫌だ。勝手に「日本人」の枠を決めないでよって思う。この行事を続けること自体にも本当なら疑問がある。だって組織的な強制力を持っているしお金も使っているだろうからね。でもそこは飛ばすとしても、せめて自由参加(これも眉唾な概念だけど…)にしてほしいし、「日本人がどうたらこうたら」みたいな理由付けはやめてほしいなあと思う。
って、別に学校に文句を付けたいんじゃなかった。
それより、このライターが気持ち悪いなあって思ったのだった。「固い話」なんて書きながら、結局校長先生から聞いた話を、特に調べたり考えたりもせずに、フィーリングで適当に書き殴ったみたいな理屈。公と宗教というややこしくて微妙な話に足を突っ込むんだったらそれなりに裏取りして書けばいいものを、気持ちよさげでもっともらしそうな筋だけ作って、変な意味づけをして気持ち悪い記事にしちゃう。
デイリーのいいところは一切の重さをかぶらないというか、まじめで堅い話の隙間にある微妙な笑いどころを見つけてくるみたいなところだと思うんだけど、何も考えないサイトって作りのところに変なメッセージ性や意味づけを入れるとこんなふうに「ホントに何も考えてません」っていう恥ずかしい記事になっちゃう。
まあそういうのも含めてデイリーなのかもね、って今思った。
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