30年ぶりにスネークマンショーを聞いた。
私にとって青春時代(笑)を象徴する一つ、スネークマンショー。
YouTubeで懐かしく聞いていたけど、年を取ると相応に気がつくこともある。結構風刺が入ってたんだとか。
こんなタイトルだったのかな。
とりあえず聴いてみてください。
以下は私の感想。
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あのころまでは大時代に振りかぶるのはまだ一般的だったかもしれないけど、そして音楽(芸術全般?)もこうした反逆というかツッパリというかが格好いいものと見なされていた時代だったと思うけど、今聞き直して思うのは、学生運動。
特に全共闘以降の学生運動は、反体制とか既成の枠組みへの反抗という形と、資本主義体制+御用学問への異議申し立てという反権力・反権威主義が大きな動機だったと思うんだけど、運動を組織していく中で、否応なしに自らが思想的にも運動的にも体制的かつ権威主義的色彩を帯びていったということが起こった。運動を組織して政治的な力を持とうとすれば必ず直面することではあるんだけど、反権力・反管理主義みたいなことを掲げながら管理的立場で闘争に決起することを要求するという姿勢には、矛盾を感じる向きも多かったのではないかと思う。学生・労働者・農民が革命運動に「自主的に」立ち上がるという構図を掲げて、しかしながら時に執拗に、時に威力的にオルグをかけるというのには、どうしたってある種のうさんくささがつきまとうし、「リベラル」とか「保守」とかいう人たちが左翼的運動(あるいはボルシェビキと言うべきか)を毛嫌いする根源にはこうしたことがあると思う。
それはともかく、この「スットプ・ザ・ニューウェーブ」(でいいのかな?)は、権威を振りかざして実は空っぽなミュージシャンが、集めたバンドメンバーからそっぽを向かれる様子を描いているわけだけど、私にはそれが70年代後半から80年代初め頃の学生運動の実情をからかっているように思えた。
あのころには、運動とその実質的敗北との反動だと思うんだけど、様々な危機や矛盾を訴えて集団的決起を迫るという組織化の方法や、主義や理論の正しさをもって「指導」や運動方針への規律を要求するという運営とへの反感・違和感が、もう生理的なレベルにまで浸透していったように思う。キャンパスで何か立派な・難解なことをアジってるけど誰も聞いていない。権威で従わせられないとなるやせこいことを言い出す矮小さ。そして最後には誰からも相手にされなくなり、周りは自分たちだけで勝手に新しいことを始めてしまう。こんな風に孤立していく運動の構造を、このスネークマンショーは切り取っているように思える。
…と書いてみたものの、今ひとつ上手くないような気もする。単にロックンロールとかの反体制的カッコつけをネタにしていると見た方が自然かもしれない。この作品が権威主義とその幼児性とをからかっているのは確かだけど、これ自体は学生運動にとどまらない。ガキ大将や会社の上司やお父さんお母さんや官公庁の役人や政治家など、どこにでもある普遍的な存在だ。だから聞いた人一人一人が自由に思い起こしてその対象を嘲笑すればいいのかもしれない。ただ、スネークマンショーが学生運動が解体していく時代にあったことは確かだし、スネークマンショーをやっていた伊武雅刀、桑原茂一は全共闘世代だし(小林克也は全学連世代かな)、YMOも同世代で、やっぱりこの作品はそうした時代の空気を反映しているんじゃないかなという気もするのだ。
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