成績が悪いということ
学生と接していて時々思うことが、成績を付けるというのはつくづく問題が多いことだということです。
成績を付けるというのは、本人にとっては、その科目の到達度を知ることで自分を客観的に把握し、勉強や努力の仕方を修正するための刺激という意味があると思うのですね。これは、普段から成績がいい人、いい成績しか知らない人であれば、間違っていたところがあれば、そこを直そうという動機付けにもなりますし、成績が落ちた時には焦りや緊張を伴った強い圧力にもなると思うのです。
しかし、幸か不幸か普段から成績が悪い人というのが必ず出てしまって、そしてそういう成績に慣れてしまった人にとっては、悪い成績というのが改善の動機付けにならないのですね。間違ったところを直すという動機にもならない。
もっとたちが悪いのが、悪い成績という事実を受け入れなければならないために、自己評価を低くし、「自分はできない人間である」「この科目・分野は苦手で自分には適性がない」というふうに状況を合理化してしまうということです。もちろん、悪い成績が何度か続くと、そのような形で納得しなければ、心が現実を受け入れることが難しくなりますから、自然で正常な反応だと思うのですね。しかし、いったんこのような形で自己評価が定まってしまうと、その分野でがんばる意欲を回復することはとても難しくなってしまいます。
私が接している学生には学業成績が全般に低い人たちが多くいます。こうした人たちを見ていると、本当に学校に振り回されてきたのだなと感じることがしばしばあります。机の上でする勉強に対する苦手意識は相当なものです。その意識が彼らの行動や意思決定の基準になっているのではないかと思うこともあります。例えば、文章を読むという作業を忌諱するさまはまるで条件反射のようです。加えて、一つの事柄について論理立てた話をするということも上手ではありません。「考えを深める」という行為そのものへの忌避があるのではないかという印象を受けるのです。単に「私は国語が苦手だ」「自分は数学が苦手だ」ということで済むのであれば、悪い成績を付けることにはそれほど多くの問題は出ないかもしれません。しかし、多くの場合、数学の成績が悪ければ、理科や国語や英語の成績も悪かったりするわけです。そのようにあれこれの科目で成績が悪ければ、読み書きそのものや論理的に考えること自体への苦手意識を生んでしまい、その苦手意識が、今度は本当にその人からこうした能力を育てる契機を奪ってしまうことになるのではないかと思うのです。
こうして悪い成績に慣れてしまった学生にとっては成績評価が勉強の動機付けにはならなくなってしまいます。成績は低くて当たり前、いやむしろ低くなければならないということも生じます。単位を落としたり落第したりすることへの危機感は鈍磨せざるを得ません。このことが教える側にとってやっかいなのは、成績評価を使った励ましをすることがほとんどできなくなるということです。厳しく評価しても意欲を刺激することができないのはもちろんですが、逆に良い成績を付けても「がんばろう」という思いを喚起することはできないのです。成績を良くすると、「なんだ、あの程度の取り組み方でもこれくらいの評価になるのか」とか「ラッキー」だとかという感想が多く出てきます。これが「あの先生は甘い」、「あの科目は易しい」という評価になったりすることもあります。結局、いい成績が「自分はできる」という自尊感情を高めたり、がんばろうという意欲を増したりすることには繋がっていかないのです。
いったん成績評価に対する心理的な合理化ができてしまうと、成績評価を高めても低めても、それで勉強意欲を喚起することは難しい。それどころか、悪い場合にはその人の思考能力や表現能力をすら奪ってしまうことがある。このような事例を目の前にすると、これからの就職活動や社会人生活にどのように向き合うことができるのだろうかと心配でたまらなくなってくるのです。
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