« 藺牟田池を見てきた | トップページ | せっかくのCSなのに… »

2009/10/12

テレビメモ

日曜の夜から何となくつけっぱなしになっていたテレビ。

ETV特集「死刑囚永山則夫 獄中28年間の対話」

40年前の1969年、4人をピストルで撃ち殺し、“連続射殺魔”として逮捕された永山則夫。19歳で逮捕され、1997年に死刑を執行されるまでの28年間、永山は獄中で実に多くの対話を繰り返していた。
著名人や市井の人々との1万5千通を超える手紙でのやりとり、永山が人生で初めて心から信じた女性や、裁判を支えてきた支援者との面会室での会話や書簡などである。そうした対話をつぶさに見ていくと、当時の時代や永山を取り巻いていた環境、そして、揺れ動き変わりゆく永山の人間像が見えてくる。
裁判員制度や死刑制度に関心が注がれる現代。今回の番組では、未公開の書簡や、初めて明かされる証言などを数多く取り上げていきながら、永山と対話を深めた人を訪ね、当時を振り返り、現代にも通じるさまざまな問題について考えていく。

途中から見ただけでフォローし切れていないが、印象的だったのが小川奈津美さんとの関係の変化だった。面識もない獄中の死刑囚と結婚するなんて…と昔疑問に思ったことがあったのだが、奈津美さんが自らの境遇と重ね合わせて思いを馳せたこと、そして始まった永山氏との対話、お互いがお互いの存在を抱き留めて唯一無二の存在へしていく関係の変化、そういったものがよく伝わって、心にすとんと落ちた。自分の生を生きることと社会関係を築くこととに真摯に向き合っていく彼女の存在が、そして何より彼女が彼と共に生きようとする強い思いが、彼の心を開いていった様子が語られていったのは感動的ですらあった。
そこで生まれた一縷の希望は、結局最高裁の高裁差し戻しと再審理によって断ち切られていったわけだけれど、そうなってしまうと、一次高裁で死刑判決を破棄したことすら運命を翻弄する権力の気まぐれのようになってしまう。テレビでは、この差し戻しの後、永山氏が自分の人生を生きる希望を閉ざしてしまう様子が描かれていたが、それは死刑が贖罪や更正というものとは本質的に無縁であり、受刑者に絶望を与え、自己の内部に閉じこもらせる制度であることを示しているように思われた。

被害者やその遺族の感情・苦しみは可能な限り救われなければならないが、しかしそれは応報感情によってしかできないものなのだろうか。永山氏が殺した人たちにもかけがえのない人生があり、その周囲にはその人をかけがえのない存在とする人々がいた。それと同じように永山氏にもかけがえのない人生と人々があった。私たちはその存在を永遠に消したのであり、彼を殺したのは自分たちの手であったのだということを強く実感させられた。

***********

NHKスペシャル|原発解体 ~世界の現場は警告する~

深刻化する地球温暖化。各国のエネルギーの獲得競争。世界を巡る環境が大きく変わる中、今、原子力発電が注目されている。火力発電所に比べて大幅に二酸化炭素の排出が少なく、発電の出力が大きいからだ。
チェルノブイリ原発事故以降、脱原発の政策を続けてきた欧米。中国・インド・ロシアなどの新興国。そして産油国までも建設に舵をきった。世界で新たに導入の準備がすすむ原発の総数は100基にのぼる。
その陰で初期につくられた原発が役割を終えて解体されている事はあまり知られていない。
閉鎖された数は既に120基あまり。私たちは原発の大解体時代をむかえていたのだ。 国内にも「ふげん」と「東海発電所」の2つが解体に着手。取材クルーははじめて、知られざる原発解体の現場に密着した。そこでは放射線という一般の建物にはない特殊な環境下での厳しい作業が続いていた。次々と関係者の事前の想定を越える壁が立ちふさがる。さらに原発の解体は別の課題を抱えていることもわかってきた。解体した後に発生する大量の放射性廃棄物を処分する場所が未だに決まっていないというのだ。

世界の社会経済環境が大きく変わる中で高まる原子力発電へのニーズ。 一方で未だ解決の道筋がみえていない解体からでる廃棄物の行き先。この難しい問題にどう私たちは答えをだすのか。解体現場の取材からの報告。


ちょうど川内原発が増設されるという動きの中でタイムリーだなあという印象。
原発には寿命があっていずれ解体しなくてはならないが、放射線が強くて作業は恐ろしく危険な上に、解体を考慮して建設されていないので作業自体も著しく面倒。
昭和31年?に初めて国が原発建設を考えた時には、寿命が来た原発をどうするかという検討はなされていなかったとか、建設時の図面が保管期間をとっくに過ぎていて破棄されていたりコピーが適当で全然読めなかったりとか、現場の判断で図面と違うことがされていたりとか、まあすごくありがちなことが続出して、解体の工期とコストがふくらむふくらむ、おまけに出てくる大量の廃材の処分場所も全然決まっていない状況というわけだから、もう解体の現場は末期的状況を示している訳だが、それでも原発を新設するのだ!という方針は今や全世界に広がっているそうな。

世界で最初に原発を建設したイギリスでは、今や解体処分にかかる費用が9兆円と見積もられているそうで(これはたぶん建設済みの原発の合計だと思うけど)、おまけに廃棄物の行き場もないのだそうで、にもかかわらず、原発の新設計画が進行中なのだそうだ。
ドイツでは確実に安全だったはずの地下処分場が実は作ってみたら想定外の問題が発生してしまい、しかも政府はそれを10年も隠していたものだから、国民の処分場へのアレルギーがひどくて、処分場立地を見つけられなくなっているとか。

日本では、放射線量が少なくて安全とされた廃材はなるべくリサイクルするように試みているそうだ。テレビでは、そうした金属を地域の業者に運んで、再度融解して公園のベンチの足などに加工している様子が映っていた。
…これからは放射線測定機を常時携帯しないといけないかもしれないなあ…。

たしか、廃棄物処理については大深度の地中に埋めて保管するとかいう話があったと思うんだけど、そうした技術開発はやっぱり続いているんだろうし、処分場の問題はもっと政治的にもクローズアップされてもいいように思うけれど、今ひとつ盛り上がっていないような。昔から、原発は実は高コストでそれ自体では採算に合わないというような話があったように記憶するが、いわゆる自然エネルギーによる発電で供給力をカバーするのが非現実的だとするならば、もはや我々の文明は根本的にエネルギー消費を縮小させる他はないのではなかろうか。…あるいは、放射性廃棄物でも全世界に薄ーくまき散らせば、全員(全生物?)のガンや白血病のリスクが多少上がるくらいのコストで済むんだから、まあいいじゃない?ぐらいに思うとか。

***********

クローズアップ現代10月7日(水)放送「“助けて”と言えない~いま30代に何が~」

今年4月、福岡県北九州市の住宅で39歳男性の遺体が発見された。男性は死の数日前から何も食べず、孤独死していたとみられる。しかし、男性は、困窮する自分の生活について、誰にも相談していなかった。いま、こうした命に危険を及ぼしかねない状況に陥っても、助けを求めない30代が増えている。彼らは「家族に迷惑をかけられない」「自分で仕事を見つけ、何とかする」と誰にも相談できずにいる。家族、友人、地域との繋がりを断ち切り、社会から孤立する30代。番組では、厳しい雇用情勢で先行きが見えないなか、静かに広がる「助けて」と言えない30代の実像に迫る。

バブル崩壊以降、フリーター、ニート、派遣労働と踏んだり蹴ったりの30代。テレビでは、「自分が苦しいのは自分が悪い」「努力が足りなかった」と自分を責め、「もっとがんばれば何とかできるはず」と自分をさらに悪い境遇に追い込む人々の心が取り上げられていた。「負け組」「弱者」に見られたくない、「ホームレス」のような惨めな存在と同一視されたくないというプライドもまた、周囲の助けを頼るという能動的な動きを阻害しているとしている。

実感として身に迫るなあという感じ。自分もほぼ確実にそのように孤立化するだろうし、実際、ほとんどそうなりかかっていたわけだし。その人たちがどうかは分からないのだけれど、自分のことでいえば、元々孤立志向だったわけで、それは孤独が好きというよりも、孤独に慣らされてきたというか、他人との心の交流、頼り頼られるという関係が「自分にはあってはならないもの、自分には許されないもの」だという強い確信が心の奥底に横たわっているわけで、そういう人は、本来的に自分がどんなに苦境に陥ろうとも、それは結局自分個人だけの失敗というところに回収してしまうし、それで破滅しようとも、それはそれで運命なのだというような諦観があるのだなと思う。頼れることが分かっていても、あえて破滅を選ぶというか。そういう一種の矜持のようなところにまで変形してしまっているというか。

それと、これは自分が最近よく観察している多くの大学生のことでもあるのだけれど、競争原理の中に自分を同一化してしまって、自分は敗者であり、能力が足りないのだから、どうにもならない人生を歩むのは仕方ないという意識が前提となっているような人がちらほらいる。こうした態度は古今東西どこでもあることだと思うけれど、しかしそうした合理化?は容易に解きほぐせないと感じている。結局は個人個人とじっくり付き合っていろいろ関わり合いを持ちながら、自分も共に成長するような気持ちでやっていかない限り、彼らが自分の人生に積極的な意義を見いだして自分の足で歩こうという気にはならないのではないかという気がする。大学経営という見地から見ると、とても容認できるビジネススタイルではないのだけれども。

« 藺牟田池を見てきた | トップページ | せっかくのCSなのに… »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/83801/46464405

この記事へのトラックバック一覧です: テレビメモ:

« 藺牟田池を見てきた | トップページ | せっかくのCSなのに… »