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2009/11/11

文化祭を参観して

先だって中学校の文化祭を参観してきました。そのときに思ったことがあったので、備忘録的に。

1.合唱が微妙に「やらされている」感が出ていて微妙だった。
1年生の合唱なのですが、今ひとつ「やるぞー」的盛り上がりに欠けた感じでした。
まあ、中学生だったらそんなもんかなあとは思いますが。

2.中学生の主張がかつての共産主義国家における官製告発劇のようだった。
二言目には「きちんとしろ」「だらしない」「最近の子供は」と叱りつけるばかりの大人たちに対して、「その批判はあなた達大人にこそ当てはまるのではないか」と指摘するのが主題だったのですが、その結論が、「大人たちのみなさん、自分を反省して、私たちののよいお手本になってください」というもの。何という予定調和。
なぜ、正しい論理的帰結、すなわち
「だからこんな大人どもは全て打倒し、我々子供たちの手で新しい世界を作ろう」
という話にならないのかと、これがやはり体制側がお膳立てした舞台における体制批判の限界なのかと、歯がみする思いでした。こんな欺瞞に満ちた結論に誘導されて、しかもそれを疑問も抱かず受け入れさせてしまうとは…。公教育とは、まさに、体制に従順な人間を作るための暴力装置なのであるなあと痛感しました。

3.演劇がかつての共産主義国家的な風味で考えさせられた。
主題が学校生活の欺瞞を暴露するみたいな話だったんですけど、それを文化祭という体制側の用意した枠組みの中でやるという…。
欺瞞告発劇なので、当然、当局=権力側による抑圧、そして体制に順応して権力の手先となる生徒たちとの対決という筋になるのですが、しかし結局は教師が自らの教育姿勢を悔い改め、暖かい愛情に満ちた呼びかけを行うことで、生徒たちも互いに素直な自分を見せ合ってクラスが一丸となってしまいます。なんという予定調和。
当然正しい論理的帰結は、「教師・親による支配体制を打倒し、生徒たちによる生徒たちのための生徒たちの自治を樹立する」というものであるわけですが、しかしこの演劇では、生徒たちが直面している矛盾が体制による強制に起因するという根本問題から目をそらし、「理想の教育像」を見失った教師と生徒との対立、および生徒同士の対立という矮小化された問題にすり替え、その矛盾を彼らの人間関係で解消してしまったわけです。結局、本質的矛盾は解消されず、生徒たちは体制の用意した「理想の生徒像」に自らを同化させることでしか生きていけないという結論、これを満腔の怒りでもって弾劾するどころか、小ネタに釣られて爆笑しながら鑑賞している中学生たちを見て、「ああ、ここまで飼い慣らされてしまっているのか」と、これこそがまさに大人への最大の風刺なのではないかと改めて思ったことでした。
この演劇で決定的に印象に残ったのが、最後のエピローグ部分でしたが、そこでは、先生と生徒、皆が分かり合えたおかげで、なんとこのクラスは、音楽コンクールや体育祭でことごとく優勝してしまうのでした。「優勝」とは当然ながら、競争の結果であり、そしてそこには「敗者」たるほかのクラスの人たちが存在しています。「深刻な対立を乗り越えた自分たちだからこそ、優勝できたのだ」という総括は、その背後に「ほかのクラスは自分たちのような優れた経験を積んではいない」という論理を隠しています。体制の枠内で矛盾を(表面上)解消し、結果的に体制を補強する意味を持った今回の「事件」が、結果的に「優勝劣敗」という尺度でもって総括されるという帰結は、この中学校での「教育理念」が何を志向しているのかを象徴しているのではないか、と思わされました。
蛇足ですが、もう一つだけ。最後のシーンで、このクラスで卒業の記念写真を撮ろうということになります。そこで皆は自分たちの素顔=嘘偽りのない本心を素直に表現できる自分=で写真に写るのですが、できれば、ここは最後の最後に仮面を付けて写真を撮ってもらいたかったなあと思いました。そうすれば、この演劇も、文化祭も、そして教師と親が支配しているこの学校のあり方そのものも、相対化でき、そしてこれは痛烈な学校批判になっただろうに、と思います。しかし、その対立を当事者(しかも非抑圧者)たる生徒たちに要求するのは、やはりとても酷なのでしょうね。

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