自分もそうだったなあ
懐かしいなあ、と思ったので書く。
ご多分に漏れず、私も勉強が出来る方(とはいえ順位で言えば上から5%から10%の間くらいかな)、小中学校では勉強関係では極力目立たないように気をつけていた。
テストの点数も通信簿も、とにかく全く誰にも見せないし何も言わない。宿題も見せないし、質問されてもわからないふりをする。先生に当てられたときだけは答えるが、時々は間違えてみる。でもテストはまじめにやって手抜きはしなかった。我ながら嫌みな感じだなあ。
まあもっとも、友達同士で成績を見せ合うっていう風潮はあんまり記憶にない。テストを返してもらうやいなや、点数の書いてある右上部分を三角に折って隠してしまうのが当然だったし、テスト前には「全然勉強してない」って言い合うのがお決まりという雰囲気だった。
で、私が感じていたのは、「勉強できるのはかっこわるい」というより「勉強できるなんてひけらかすのははしたない」に近いような、金持ちが金満ぶりを誇示することがよく思われないような、貧乏人が金持ちをうらやんだりねたんだりするような、そういう気持ちと同じようなことだった。
あと、たいてい、勉強が出来る子は体育はそれほどでもなかった。もちろん両方出来る子もいたけれど、そうでない場合が多かった。そして自分は全く体育は苦手だった。どうしたって体育が出来て活発な子たちが威勢がいいグループを作るし、また人気者にもなっている(と自分は思っていた)ので、そういうヒエラルキー(というと大げさだけど)の中では下位グループに属する自分としては、ひたすら目立たずおとなしくしていようという考えもあった。よりによって、勉強という誰もが多少なりともコンプレックスを持っているジャンルで「ぼくは優秀です」って目立つなんて、やっかいな人たちの神経を逆なでする以外に何があるっていうんだ?というくらいの気持ちがあった。
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というわけで、勉強関係では目立たないようにしていたわけだけど、でも今から考えると、そこそこ勉強はしていたように思う。当時は勉強はつらいし面倒だしいやなものだったけれど、それでも勉強が好きだったんだろうと思う。というか、考えることが好きだったのかな。あと、何かが出来るようになることが好きだった。体育や音楽、図画工作の方面では、もう全く、我ながら目を覆いたくなるほどに無残なできだったので、こちらで「できるようになる」喜びはあまり期待できず、それゆえに比較的ましな勉強関係に集中したということもあるかもしれない。
こう考えると、自分個人のことなのに、やっぱり相対評価で考えていたんだなあということがわかる。思い返してみると、学校に種目がなかったスキーやスケートは運動なのにすごく楽しかったし、球技がある期間は毎日ドナドナの子牛の気分だったのに、学校で教わらない卓球も好きだった。吹奏楽部でやった楽器にはただひたすらのめりこんだ。
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こんな風に勉強ができることを隠してきたわけだけど(とはいえ、「出来る子」と思われていたのは明らかなので、まああくまで本人の気持ちとしては、というくらいなんだけど)、高校や大学では、そういうことからは全く解放された。解放されたのは、たぶん、出来る人たちばかりで構成された学校だったからだったと思う。その中では「できない」というふりをする必要がないからだ。
と思ったけれど、解放されたのは、自分が本気で出来ない部類に属していたからかもしれない。たとえば高校時代、現役でトップ大学に合格するくらいの人たちは、やっぱり「できますよ」という顔をしていなかったような気がするし、自分はやっぱりそういう人たちのことをうらやましく思っていたからだ。
たとえば、麻布や開成や灘といった名門高校の同窓会があるとする。出席した同窓生たちには東大医学部やハーバード大学などを優秀な成績で出た人がいる一方で、地方の、まああまりぱっとしない大学を出た人もいるわけだ。そうすると、やっぱり「おまえは勉強が出来たもんなあ」「いやいや、そんなことはないよ」「俺なんかとは頭のできが違うんだよ」「いやいや」みたいな会話があったりするんだろうか。名門高校の同窓会なのに。
何を言いたいかというと、結局、この羨望とねたみの階梯は果てしなく続いているんじゃないかということだ。で、子供の頃の私が思っていたように、その羨望の根拠は、勉強の出来不出来が出世(経済的成功)につながっているということにある。もちろん学業成績が経済的成功を完全に規定する訳じゃないけれど、大まかには相関しているだろう。だから、勉強が出来ることを隠すというのは、子供特有の事情なのではなくて、大人にも共通していて、たぶん、大人社会の反映なのだろう。
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