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2010/04/24

いじめ、不登校への考え方と対応:内沢鹿大教授の陳述書から

鹿児島県知覧町立知覧中学校いじめ自殺事件(1996.9.18)に関する内沢達の陳述書
リンク:知覧中いじめ自殺事件に関する陳述書(PDF)(鹿児島大学リポジトリ)
※2014/03/24 リンク切れを修正しました。論文化してリポジトリに掲載した内沢氏に敬意を表します。

夢中になって読んでしまった。非常に考えさせられたので、以下に所感をメモしておく。
ちなみに、内沢氏は鹿児島大学の先生。上記事件について調査してきた人。
この事件は裁判になり、内沢氏は書証を提出した。上の陳述書がそれ。
裁判は2002年に原告側の訴えを認めた判決が確定した。

以下、断片的に。引用文は段落を一部修正してある。また傍線部などの装飾は私が付加したものである。

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いじめ被害者への対応の基本

S君は、同級生八人ぐらいの名前をあげながら、「今日は○○君になぐられた」「たたかれた」「つばをはきかけられた」「ズボンぬがしをされた」「つねられた」などと、連日、訴えていました。
 にもかかわらず、担任教諭は赤ペンでの書き込みにあるように、「いつも被害者なんだね!」「相手の方も何か理由があるのかな」「たまには猛反撃したら!」「小さい小さい!」などとまったく取り合いませんでした。
 文部省の「調査研究協力者会議報告」にあるような「全教職員がいじめられている児童生徒を必ず守り通すという毅然とした姿勢」(甲第三七号証)が教師らにはなかったことから、Q君は安心して話すことができませんでした。
「被害者にも責任がある」という態度・対応が間違っているということは理解しているつもり。ただ、全教員が一丸となって対応するという体制を持つということの意味をあまり考えていなかった。ハラスメント対応でも類似の問題が起こるが、告発者を報復から守ること、そして守られると信頼してもらうことが事態の解明には絶対に必要だということで、また被害者を守りつつ対応するということは教職員個人が単独でがんばっても無理だということだ。このことは組織的に非常に重大な問題を提起していると思う。

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学校には生徒をいじめから守り、生徒の安全を確保する義務がある。
その内容:調査・報告・防止措置

1.生徒の安全を脅かすいじめについて、その実態を調査する義務
通り一遍ではなく、「他にもあるのではないかという問題意識で調査を尽くさねば」ならない。

2.実態や調査結果などを親、保護者、そして生徒に報告する義務
その理由:
・いじめは学校だけでは解決できず、「いじめの情報を保護者等に提供して理解や協力を求めたり、関係の機関や団体との連携を図るなど」の「開かれた学校づくり」が重要であること。(文部省(ママ)の「調査研究協力者会議報告」)
・生徒たちが「危険からわが身の安全を意識的に守ろうと」できること。

3.いじめの発生を防止する措置を取る義務
その細目:
・日頃から生徒の動静を観察すること
・暴力行為などがないかどうか細心の注意を払うこと
・その存在が窺われる場合には関係生徒からただちに事情聴取をおこなうこと
・教員間、教員と生徒間における報告、連絡および相談等を密にすること
・以前から暴力行為などを繰り返しおこなっている生徒に対しては、校長または教頭自らが厳重な注意を与えること
・教員らが校内を見回るなどの指導、監督体制を全校的な規模でおこなうこと
など

組織的な対応が必須になっている。チーム的な意識共有とリーダーの厳格な対応が重要なようだ。
すごくありがちだと思ったのが、

このように学年が違うと生徒指導主任でさえ、暴力行為のことを知らないのです。
 加えて同じ学年で、しかも同じく生徒指導係であっても、情報を共有していません。
というくだり。公私両面において全く人ごとではない。

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「生徒指導の課題には優先順位がある」
生徒指導がいじめを増長することすらある。

●生徒指導上の問題の三分類

1.大目に見てもよい問題
 必要な場合は注意をして生徒の自覚を促し、時間をかけていってかまわない。
 遅刻や忘れ物を繰り返す、宿題をしてこない、そういった生徒の生活・学習態度に対する指導

2.絶対おおめに見てはいけない、厳しく対処しなければならない問題
 ただちに介入して止めさせ、二度とおこなわせないようにしなければならない。
 生徒の命、安全を守ること。
 校内での喫煙(学校の雰囲気をおかしなものにするのであいまいにできない)

3.本来注意すらしなくてもよい、問題とは言えない「問題」
 「服装指導」「頭髪指導」:校則自体に合理的な根拠がない。「個性を生かす教育」にも合致しない。

「校則についての教師の画一的な指導と生徒間のいじめは、根っこが同じ」
教師の体罰や服装、髪型などの管理がいじめの気運を高めてしまう。

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いじめの問題 = 教師の児童生徒観や指導の在り方が問われる問題

「いじめは、学校生活において、弱い者、集団とは異質な者を攻撃したり排除しようとする傾向に根ざして発生することが多い」
「教師が単一の価値尺度により児童生徒を評価する指導姿勢や児童生徒に対する何気ない言動などに大きな関わりを有している場合があることに留意すべきである」(傍線部は私が追加)

 「靴下は白色」という校則が、そうでないものを、つまり「集団とは異質な者を攻撃したり排除しようとする傾向」を増長しているのです。
 生徒会副会長をしていた先のP君によると、「ネームをつけていない」「違反ボタンだ」というようなことでも、生意気だといって、上級生が下級生を呼び出すことがあったと言います。

「校則違反」を口実にしていじめが起こっていることに注意。
ヒットラーユーゲント、紅衛兵、「非国民」差別を思い起こさせる。あるいは「ホームレス狩り」。親や教師は無意識・無自覚にこうした分断を子どもたちに持ち込んでいる。
「指導」では避けられない問題だが、「正しいこと」の価値判断自体の正当性への反問、そしてそれを受け入れた子どもと受け入れていない子どもとの関係には絶えず気を配らなければならないということだろう。
 また、加害生徒グループの一人であったG君は、二年の終わりか三年になった頃、髪を茶色に染めてX教頭に注意され、何度言っても聞かなかったといって、生徒相談室にあった電動バリカンで五分刈りにされることがありました。
(中略)
 強制的にバリカンを入れる行為自体も大きな問題ですが、教頭が優先的に指導すべきはG君の髪型ではなく、彼がなした下級生に対する暴力行為や同級生・I君の眉を剃り落とすといった暴行ではないでしょうか。後者について、X教頭は何もしていません。
教頭個人の意識の低さは責められるべきだが、この節で内沢氏が浮き彫りにしていることは、組織として、生徒指導の焦点が校則違反取り締まりや不登校対応(後述)に置かれ、体罰やいじめ、迫害が全く意識化されていないということだ。いわば組織的に「見れども見えず」の状態を作っていたということが示されている。学校がそのような組織になっていたということは、学校が置かれていた状況そのものにも問題の背景があるのではないかということを伺わせる。

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生徒の行動や「問題」の背景をよく考えることが大切。行動や「問題」の現象のみをなくそうとすると対応を誤る。

自殺した生徒(勝己君)には遅刻が多かった。勝己君の二人の担任の対応
V担任:体罰を振るい罰当番を課した。
U担任:特別なノートを作らせ毎日の報告を義務づけた。
U担任:(勝己君は)「時間に対してルーズ」

 勝己君の足を自然には学校に向かわせない、登下校中のことに止まらない、学校の中で起こっていたことにこそ、生徒指導は重点を置いて「熱心」に取り組まれるべきでした。そうしてこそ「指導」の名に値するものです。

 Z元校長は、第一五回口頭弁論において「私が赴任して、知覧中の生徒は、集団行動、全校朝会などの時刻を守る、整然と聞くというような姿からして、ほかの学校よりもしっかりしているなという印象がありました」と証言しました(調書五九項)。
 印象とはいえ、校長においても重視していたのは、「時刻を守る」「整然と聞く」といった外見的なことに過ぎなかったのです。

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不登校生に対して登校を促してはならない

不登校自体をどう捉えるかについては考え方の違いがあっても、〈登校刺激を加えてはならない〉ということは、こうしたことに係わっているものにあっては、とうに常識です。いま現在、学校には行けない、行きたくないという不登校の子どもの気持ちをまず認めてあげることが対応の出発点です。
 親・保護者の不安に対しては「いまお家で元気にしている。それが一番いいことです」と言ってあげることが肝要です。
 そうして時間をかけ、その子が落ちついてきたときには「登校を促す」という考え方をする専門家もおりますが、そのときもきわめて慎重でなければならないというものです。
(傍線部は私)
 子どもたちは、普通、学校は何が何でも行かなくてはいけないところだと思っています。しかし、教えられれば、そうではないことが容易に理解できます。
大学でも近年は出席指導が盛んに行われているし、ますますそれを促進する動きも強まっている。私はそれを当然視してきたので、この記述は非常にショックだった。

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文科省も努力している

文部省の「学校不適応対策調査研究協力者会議」は、一〇年前の一九九〇年に「登校拒否はどの子にも起こりうる」との見方(中間報告、最終報告は一九九二年)を明らかにしました。
 それ以前の、「本人の性格」「怠け」「親の過保護・過干渉」など、子どもや家族の問題として捉えがちだった見方を修正したのです。

1996年7月 調査研究協力者会議報告
過度の同質傾向を排除して、個を大切にし、個性や差異を尊重する態度やその基礎となる新しい価値観を育てるという児童生徒観に立ち、これに基づく指導を徹底することがいじめ問題への根本的な取組として極めて重要となる。
「従来の行きがかりにとらわれず、学級や学年経営の在り方を含め、学校運営の在り方をあくまで子どもの立場に立って見直し、改善すべきは思い切って改善していく必要がある。
 例えば、生徒指導において、なお髪型や制服の規制をはじめ細かすぎると思われる校則なども見受けられる。
 子供たち一人一人の人格のよりよき発達を支援するという考えに立ち、きめ細やかで『個に応じた生徒指導』を行う観点から、見直していって欲しい。」
「いじめを受けている児童生徒には」「緊急避難としての欠席が弾力的に認められてよい」との画期的な提言をしました(甲第三七号証)。
上記提言は県教委レベルでは各校に通達しているらしい。私が中学生だった頃と比べ、相当に研究も対応も進んでいるようだ。だが現場ではそれがなかなか伝わっていないし、社会的な気運も高まっていないような印象を受ける。地道な調査研究の成果は我々が広げていく必要を感じる。
先日落下事故があったみたいに、屋上天窓の処置も通達があったにもかかわらず鹿児島県では全然実施されてなかったみたいだし、鹿児島の学校にはそういう体質があるのかね。勘ぐるのは良くないけど。

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親は子どもを知らない。子どもはそのことを知らない。

勝己君はすさまじい暴行と迫害を長期にわたって受け続けていたが、ご両親は全く気づいていなかった。家庭内に全く問題はないごく普通の家庭であった。勝己君の家庭内の様子は小学校時代から全く変わったところがなかった。

 五で述べたように、勝己君はいじめに一人で頑張って耐えてきていました。勝己君は、家族に遠慮して話さなかったわけでもありません。また原告の家庭に話しにくい雰囲気があったわけでもありません。
 むしろ原告の家庭は、何でも話しやすい雰囲気のある明るい家庭でした。先に述べたように、いじめられていることは話さないものなのです。

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不登校への親の対応

特段の事情の有無もわからないままに「休ませてあげるべきだった」とは、原告に対して非常に酷なことと思われるかもしれません。
 「事情がわからなくても」認めてあげるということ、と言うよりもむしろ「事情を聞かないで」学校を休むことを無条件に認めてあげるということ、これは簡単なことではなくとても難しいことです。
 しかし、それは親を措いて他の人にはできない、親だからこそできる、親に期待され求められる、わが子が学校に行くことを嫌がったときの対応の仕方です。

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なぜ子どもは不登校の理由を言いたがらないか。

一般に不登校の子どもは、自分が学校に行きたがらない理由を、その本当のところをまず絶対にと言ってもよいほどに話しません。
 もちろん理由がないわけではなく、あります。でも言いたがらないのです。なぜでしょうか。それは言ってしまうと「行きたくない理由」が「行きたくなくても行かなければならない理由」に変えられてしまうからです。
 勝己君の場合も同じでした。前日に、ほんの少しだけ「打たれた」と言わざるを得なくなりましたが、それは「本当の理由」の極々一部にすぎません。
 たったそれだけでも、学校を休んでいた理由が、「先生にもお願いしておくから、明日は学校に行くんだよ」と、もうこれ以上は休めない理由になってしまいました。

これは非常に考えさせられる。難しい。親は権力者だということを痛感させられる。

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対応の誤りと自殺へのプロセス

連日暴行が続く→学校をこっそり休む→担任が親に連絡→親が理由を聞く→いじめの一部が発覚→加害者と「仲直り」の握手をさせられる→「チクった」のが加害者に発覚→さらに過酷な制裁を予想→完全な絶望

「仲直りの握手」は加害者に被害者の「裏切り」を見せつけるもの。従って最悪。
学校:いじめの事実を聞き出す+握手の事実を把握→勝己君の無断欠席→対応せず

こんな風に要約すると、全然問題の深刻さが見えなくなってしまうな。

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幼なじみが積極的に非常に残酷な暴行を加えていた。しかし両親はまさにその彼を信頼していた。

 促されてのこととはいえ、勝己君が「打たれた」と親に言ったのは後にも先にも、前夜の一回だけです。敏孝さんは、小学校から同級生だったD君だけは知っていて、以前はスポーツ少年団などでいっしょに仲良くしていたのにわが子を打ったとはショックなことではありました。
 しかし、「今度、そういうことがあったら君が止めてくれ」と頼み、D君も「わかりました」と答えて、「一件落着」と思ったことに無理はありません。敏孝さんにしてみれば、時々出会ったときにはニコッと人なつっこい表情をするD君をそれ以上は疑うことはできなかったでしょうし、当日の朝、ふすま越しに「先生にも言ってあるから、ちゃんと学校に行きなさいよ」と登校を促したことも、じつに自然なことでした。
これは非常にショック。親や先生からすると、人当たりが良くて素直で、いつも仲良くしている子が、実はきわめて残酷な張本人だというのだから。
いじめネタではよくある設定だけど、外部からはそれが見えないので最悪な対応をしてしまうというところがすごく怖い。

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被告少年らに反省がない

いじめの実態についてはあまりに残酷な内容なのでここでは云々しない。加害者の酷薄さが浮き彫りにされている。
また、事件後大人たちが事件解明に相当に注力したが、加害者たちから真相を聞き出すことはきわめて困難であり、また事実が明らかになった後ですら最後まで嘘を変えなかった。さらに、加害者からは自己弁護と被害者と周囲への非難は聞かれても自らの行動を反省し、その意味を問い返し、改悛する様子は見られなかった。中学生とはいえ、陳腐な表現だが心の闇という言葉を想起させられた。

この描写からは、子どもであっても加害者への追及は厳格に行わなければならないということが見えてくる(もちろん脅迫や誘導などがあってはならない)。

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おおよそ思いつくところをメモしてみた。
内沢氏の陳述書は、いじめ事件の苛烈さを知るだけではなく、一般的に学校や家庭での子どもへの対応や教育における基本的な姿勢を知る上でも示唆に富んでいると思う。さらに、学校現場や家庭だけではなくて、大学での学生対応や職場でのハラスメント対応にも通じるところが多いと思う。

知覧中学では、昨年またいじめによる自殺が発生している。内沢氏の指摘と裁判の教訓が生かされなかったことに、問題の深刻さを思う。地域に実は根深い構造があるとか噂好きな人から聞いたが、しかしそんな話を喜んでいている大人がいる限り、こうした事件はまた起こることになるのだろう。


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