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2010/04/23

言語と論理の関係(大げさすぎる?)

さっきもRadio Cataniaを聞いていて気がついたんだけど、
「彼はどこにいるのかしら?」っていう日本語、「彼」が主語で、その彼がどこかに存在しているという事実を中心にとらえてますよね。英語にすると、 Where is he? という感じだと思います。で、たぶん、英語ネイティブの人もこういう表現になるんじゃないかな。
でもさっき聞いたイタリア語だと、Dove lo trovo? と言ってたんです。私は彼をどこで見つけるだろうか? Where do I find him? ということです。これが「彼はどこにいるの?」のイタリア語。日本語的発想だとまず思いつかないと思います。

もちろん「彼はどこ」を直訳したイタリア語 Dove e' lui? でも通じるし、この表現も普通に使うと思うけど、でも「私は彼をどこで見つけるだろうか」もイタリア語脳では自然な表現なのだと思います。でもこれは日本語脳では自然ではない。ここが決定的な差ではないかと。
さらに考えてみれば、「…できる」って部分もないんですね、この表現には。普通日本語だと、「私は彼を見つけるだろうか」ではなくて、「私は彼を見つけられるだろうか」の方に傾くと思うんですね。「…できる」の要素が無意識に入っちゃう。その方が理屈にもかなっていると思うし。
でもイタリア語で Dove lo posso trovare? とかになると、間違った表現じゃないと思うけど、ちょっとまどろっこしい感じがします。言いにくいような?ネイティブの人はどう思うんだろう。ちょっと聞いてみたいけど、こういう感覚って本当に「わからない」んですよね。脳的に全くわからない。「そういうものだ」と鵜呑みにするしかない。こういう丸暗記をどんどん積み重ねて経験を増やしていけば、少しはイタリア語脳ができてくるのかなあ…。

追記
別のことを思い出しましたが、韓国人留学生の人が先輩にいるのですが、昔その人と話していて、日本語がどうも難しいという話になって。
その先輩の曰く、「濁音になったり半濁音になったりするけど、あれは規則がさっぱりわからない」と。
たとえば、熊という言葉、白に付くとシロクマと濁りませんが、穴に付くとアナグマと濁ります。どうして?

いや、文法的な規則があるのかもしれませんが、少なくともネイティブの人は無意識に使い分けているわけです。そういう語感に一種のセンスがあるんですけど、これがすごくやっかいみたいです。
そういえば、中国人にとって格助詞の「の」が付くか付かないかがわかりにくいみたいだし、「象は鼻が長い」という文の「は」と「が」の使い方が外国人が間違いやすいとか、考えてみたらたくさんありますね。間違うポイントも、その人がどの言葉を母語にしているかによっても変わると言うし。話がだんだん難しくなってきたので、とりあえずここまでで。

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