Radio Catania
昨夜からインターネットラジオでRadio Cataniaというイタリアのラジオ局を聞いています。
時差があるのでお昼に聞くとまだまともに始まってないみたいなんだけど、夜に聞くといろいろ番組が聞けて楽しいです。
でも…。
1.議論というか話し合いばっかり。
向こうの番組のパターンですけど、とにかく話し合い続けるというのが多い。
口調のせいもあるけれど、みんな主張しまくりで喧嘩してるみたいに聞こえる。
でも、まあこれが普通なんだけど。
こうした互いに言いたい放題で別にお互いに平気っていう、はっきりした(割り切った?)人間関係って感じは結構好きで、日本にいると、イタリアうらやましいなあと思うことの一つ。
2.サッカーの話ばっかり!
まあこれも仕方ないんだけど、延々とサッカーの話ばっかり。まあよく毎日こんなにしゃべることがあるなあと思うくらいずーっとサッカー。
電話でリスナーの意見を聞いたりしてるけど、時間切れになるとしゃべってる途中でも容赦なくぶち切るのがおもしろい。いかにもイタリアだなあって感じがします。むちゃくちゃに切られても、まあたぶん激怒したりしないと思います。イタリア流って感じ。
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会話を聞いて改めて思い出すのが、語学って、単純に単語と構文の置き換えじゃないよなあってことです。
イタリア語は、音は聞き取りやすいので、ある程度慣れて単語数が増えてくると、ディクテーションはわりと容易なんですけど、単語を聞き取れても意味がわからないってことが多いです。表現が日本語的発想とはかなり違う感じがします。なんていうか、イタリア語的な頭というかセンスというかを養わないと、なかなか付いていけない気がします。
もう一つ思うのが、言語の感覚というだけじゃなくて、なんていうか、精神性も違うというか、イタリア人的な話の展開っていうのがあるような気がします。うまく言えないけど。ラジオで議論しているのを聞いていると、どうも日本人的な話の運び方ではどうもかなりイタリア人っぽいイタリア語にはならない気がします。
日系企業とかで、外国の現地従業員について日本人管理者がいろいろ愚痴ったり、「中国人ってのは…」とか「インド人は…」とか「スペイン人は」「イタリア人は」「ロシア人は」「アメリカ人は」みたいに「こういう困った(だめな)奴ら」という評価をすることがありますよね。それとか、在日外国人(成長してから日本に来た人)について、「○○人は…」と言ったりとか(日系ブラジル人とか)。
たとえばこういうのは異文化間接触の一つの典型だと思うけど、「こういう奴ら」っていうレッテル張りをしてしまう背景には、こうしたコミュニケーションパターンのずれも一因じゃないかなあと思います。コミュニケーションのズレを、相手側の事情を考慮せずに自分の感覚に100%依拠したまま、(多くの場合は立場が偏っていることに気づかず)相手側の問題だとしてしまう。こうした心の動きがあるんじゃないかな。
イタリアのラジオ面白いよっていう話を書くつもりだったのに、全然違う話になってしまった。まあ、ネットラジオはいいですよ。とか。
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