違和感
これは全くの思いこみ程度の話なので、根拠はあまりないのだけれど、「のび太くんは実は立派な人間だった」という描写にはどうも違和感がある。
私がドラえもんに親しんだのは単行本で言えば20巻か30巻あたりまでで、その後の冒険映画などはほとんど見ていないし、テレビ放映もあまりちゃんと見ていない。で、そのころまでの印象で言うと、のび太っていうのは、一部見所もあるけれど、ほぼどうしようもないだめな子という感じだった。
で、ドラえもんって基本的には、せっかくのいい道具やアイデアがあってもだめな人が使うと結局ろくなことにならないという、その「いいはずのもの→思いがけないだめな結末」という落差で笑わせるギャグマンガだったと思うのだ。ちょうど古典落語でよくある構造だ。
で、落語の八っつあんや弥太郎とかが、無教養でてんでだらしない人物であるように、のび太もそういう役割を与えられていたように思う。どうしようもなくダメダメだけど、読者から見ると、なぜか憎めない、愛すべき存在としてのダメダメ人間。「男は辛いよ」の寅さんみたいな存在とでも言うか。それがまた読む人間からすると、自分たちの鏡像のようでもあって、愛着がわいたりもしたわけだ。
それが徐々に、意外な特技を持っていたり(射撃の才能とか)、努力を見せたりするようになってきて、だんだんのび太の役割は「笑いもの」という要素から、読者が感情移入して一緒に難問に立ち向かうという要素が強くなっていったように思う。もちろん当初からいじめっ子やママや先生などの「難問」の要素はあったわけだけれど、のび太の対応は逃げるかごまかすかで、感情移入の意味もかなり違っていたと思う。
で、今放映されているドラえもんを見ると、のび太はどうも基本的にかっこいい奴として描かれているようなのだ。一見だめに見えるが、それは表面的に過ぎず、一旦緩急あれば直ちに努力と勇気を惜しまず、正義と友達のために粉骨砕身するヒーローが隠れている。いつの間にか、「ろくでもないがどこか憎めないダメな奴の巻き起こすどたばたギャグ」っていう構図が、「一見ダメそうだけど実はやるときはやるヒーローの冒険活劇」っていうジャンルに変わってしまったような気がしている。
というわけで、どうも「こんなのドラえもんじゃない」っていう思いがずーっと続いている。まあ、夏休みの冒険映画との関係もあるんだと思うが、時々見るテレビでも、どうも日常ののび太のダメさというのがうまく消化されていないような気がして、どうしても違和感を覚えてしまう。それで、ドラえもんはあまり好きではなくなった。
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ますます与太話に輪をかけるんだけど、昔、そう昭和40年代とか50年代頃までのギャグマンガって、ダメな奴のダメさ加減をあざ笑うというタイプのものが普通だったような印象がある。それがだんだん「どんな人にもいいところがある」とか「みんながんばってるんだ」みたいな、優しいというか人権思想的なというか、言い換えればヌルイ雰囲気がだんだん浸透してきたような気がする。…ってそのころからあまりマンガ読んでないんで本当はわからないんだけど。…映画とかアニメとかになるとそういう味付けが増えちゃうのかなあとか思ったり。
というわけで、のび太は永遠にダメな奴でいてほしいなあと思うのでありました。
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