二つの報道から
一つの事例に二つの報道。そのときの様子が多面的に浮き彫りになると同時に、そこから得られる教訓もまた、少しずつ変わってくるように思います。
一つの場所で起こった出来事は、一度紹介されたらそれでなんとなく分かったような気がしてしまいますが、本当は、そこで語られなかったことも多いのだなと気づかされます。
一つの話の背景に隠れてしまうものの存在を常に想像することが大切なのだと思います。
岩手日報のニュース
機転きかせて避難、全校無事 大船渡小と越喜来小
津波襲来時、大船渡市の大船渡小(柏崎正明校長、児童268人)と越喜来小(今野義雄校長、同73人)は状況に応じた対応で、児童全員が生き延びた。事前の想定を大きく上回る津波を前にマニュアルにとらわれない学校の判断が、児童の命を救った形だ。越喜来小は第1避難所に三陸駅、第2避難所に南区公民館を設定。通常は揺れが収まってから避難するが、今回はあまりにも揺れる時間が長すぎた。細心の注意を払いながら、揺れている間に避難を開始した。
大津希梨さん(4年)は「大きな揺れのときにしゃがみ、小さい揺れのときに急ぎ足で逃げた。揺れが止まるのを待っていたら波にのまれたかもしれない」と振り返る。
大きな揺れに泣きだす子もいたが、昨年整備した県道との連絡通路などを使って避難。校舎を破壊する津波の猛威に危険を感じ、南区公民館からさらに背後の山に登らせた。
遠藤耕生副校長は「津波到達まで30分ないと想定すると、揺れが収まってからでは間に合わないと思った。校舎が壊れることも考えた」と説明する。
大船渡小は学校が近所の住民も逃げてくる避難場所。11日も地震発生後、児童はマニュアル通り校庭へと避難した。
ところが、津波が街をのみ込みながら、迫るのが校庭から見えた。柏崎校長はさらに高台にある大船渡中への移動を決断。児童は校門より山手のフェンスをよじ登り、1、2年生は教職員が持ち上げた。全児童が避難後、津波は校庭をのみ込み校舎1階に浸入した。
柏崎校長は「まさか地域の避難所であるここまで津波が押し寄せるとは。それでも児童は冷静に行動した」と語る。
【写真=津波で校舎が3階まで破壊された越喜来小。避難開始の判断が児童の命を救った=大船渡市三陸町越喜来】
(2011/03/23)
越喜来小学校のエピソード
asahi.com(朝日新聞社):市議の「遺言」、非常通路が児童救う 津波被害の小学校 - 社会
岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。
「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。
親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。
平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。
11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。
市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。
非常通路から避難した児童の中には、平田さんの3人の孫もいた。平田さんの長男、大輔さん(38)は「人の役に立った最後の仕事に父も満足していると思う。小学3年の息子にも、大きくなったら話してやりたい」と語った。(其山史晃)
2011年3月29日17時6分
大船渡小学校のエピソード
東日本大震災:保護者の声、間一髪で児童救う 大船渡小 - 毎日jp(毎日新聞)
岩手県大船渡市の市立大船渡小学校は、東日本大震災で校庭が高さ約2メートルの波に覆われる被害を受けたが、児童265人は全員無事だった。高台にあるため避難場所に指定されていた同校。しかし震災時は校庭に児童や保護者ら約300人が集まっていた。迫り来る津波の危険をいち早く伝えたのは、ある保護者の「津波が来たぞ!」という叫びだった。11日午後2時46分。これまで経験したことのない揺れに驚いた大船渡市の会社員、佐藤浩人さん(47)は市内の職場から、ちゅうちょせず学校へ向かった。母校でもある同小に5年の長女(11)と2年の次男(8)が通っているからだ。
佐藤さんが到着した時、校舎を飛び出した1~6年の児童らが校庭に整列して避難していた。子どもの無事を確認した佐藤さんが車のテレビでニュースをチェックしていたところ、画面に「大船渡3メートル」のテロップが映し出された。
大船渡小は大船渡湾から約400~500メートルの距離にあり、湾を望む山の斜面上に建っている。テロップの直後、湾の方へ視線をやると「バキバキバキ」と津波が家屋をなぎ倒す音が遠くに聞こえた。あちこちで砂ぼこりが舞っているのが見えた。しかし、教諭や児童は気付いていなかった。波は200メートルまで迫っていた。「津波が来たぞ!」。とっさに叫んだ。
大声に教諭たちが反応した。佐藤さんは教諭たちとともに、児童たちを校庭南側の急勾配になっている車道に誘導。児童を抱きかかえ、斜面を駆け上がった。津波が押し寄せてきたのは避難が完了した直後だった。
佐藤さんは津波で自宅を失った。「もし自分が気付かなければ子どもたちは流されていたと思う。紙一重だった」と振り返る。同校教諭の菊地正徳さん(44)は「学校までは来ないという思い込みがあった。佐藤さんの呼び掛けに助けられた」と話している。【鈴木一生、山本将克】
毎日新聞 2011年3月22日 12時00分(最終更新 3月22日 12時12分
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