事態は確実に進行。
大阪府議会、君が代起立条例案を委員会で可決 3日成立 :日本経済新聞
2011/6/2 15:18 大阪府の橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」が府議会に提出した「君が代起立条例案」は2日、教育常任委員会で審議され、賛成多数で可決した。府議会では維新が過半数を占めており、3日の本会議で可決、成立の見通し。条例案は維新が5月25日に議長に提出。府内の市町村立を含むすべての学校の教職員に対し、入学式や卒業式などの君が代斉唱時に、起立を義務付ける内容。罰則はなく、維新幹部は「規範を示す条例」としている。
この日の委員会で公明の八重樫善幸府議は、維新が選挙時の公約では同条例に触れず、討議時間の少ない5月議会での議決を目指したことについて、「なぜ早急にする必要があるのか」と批判。自民の吉田利幸府議は「そもそも条例違反に拘束力があるのか」と実効性に疑問を呈した。
大阪府教育委員会によると、今春の入学式で起立しなかった教員は38人。府教委は職務命令に反したとして、2人を戒告処分とした。処分に関する基準はなく、府教委の裁量に任されている。
橋下知事は1日、取材に「君が代不起立に限らず、公務員の職務命令違反について、どのような処分をするのか、議会が基準をつくる必要がある」と強調。9月議会で新たな条例案を出す考えだ。一方、中西正人府教育長は5月27日の本会議で「条例による義務付けは必要ない」と答弁した。
最高裁は同30日、君が代斉唱時に起立を指示した校長の職務命令について、合憲とする初めての判断を示している。
日経の記事では、
「罰則はなく、維新幹部は「規範を示す条例」としている。」
とありますが、これがお為ごかしに過ぎないことは明白。
何より、「維新」の中核である橋下知事が、この記事の中でも
「君が代不起立に限らず、公務員の職務命令違反について、どのような処分をするのか、議会が基準をつくる必要がある」
と処分について言及していますし、
君が代起立しない教員「絶対辞めさせる」 橋下知事 :日本経済新聞
2011/5/17 0:39 地域政党「大阪維新の会」の府議団が5月議会に提出を目指す君が代斉唱時に教員の起立を義務付ける条例案について、大阪府の橋下徹知事は16日、「(起立しない教員は)絶対に辞めさせる」として、強い姿勢で臨む考えを示した。府庁で記者団に語った。維新府議団は同日、条例案の対象に府立学校だけでなく、府内の政令市を除く市町村立の小中学校の教職員も加える意向を示した。
橋下知事は「国歌・国旗を否定するなら公務員を辞めればいい。公務員の身分保障に甘えているだけ」と強調し、「辞めさせるルールを考える」と述べた。
維新は条例案に罰則を設けない方針。起立しない教員は地方公務員法に基づく懲戒処分を受ける可能性があるが、最も重い処分の免職の適用は困難との見方もある。
府教育委員会は2002年に君が代斉唱時の起立を府立学校などに通達し、職務命令違反で懲戒処分とした教員は計7人いるが、処分はいずれも最も軽い戒告。また東京高裁は今年3月、都立学校の教職員167人の処分を「懲戒権の乱用」として取り消す判断をしている。
という話は繰り返し報道されているとおり。9月頃には免職処分を明文化する動きだと言うことも報道されているわけです。
国旗国歌法の時と同様、「いやあ、実効性はありませんから」と言いながら、いったん制定されれば、今度はそれを根拠に締め付けてくることは火を見るよりも明らかなことです。
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ところで、今回の最高裁の合憲判決の前段となる、東京高裁の判決ですが、
「君が代斉唱、一般的行為」東京高裁判決 - つれづれなるままに
こちらは当時の毎日新聞の記事を残してくださっています。
都築裁判長は同種訴訟で合憲判断を示した最高裁判決(07年2月)を踏襲。 国旗掲揚と国歌斉唱について「個人に自身の歴史観や世界観を否定する行為を強制するものではない」と判断した。 「従来、全国の公立高校の式典で広く実施されている」とも指摘した。
このように、「強制が内心の自由を侵害しているかどうか」の基準として、「広く実施されている」ということを根拠にされてしまうわけです。この「実施」がどのようなものかも無視して。
「皆がやっているのだから、たいしたことはないんだ」というのであれば、サービス残業だって、失業だって、自殺だって、たいしたことはないに決まっているわけです。「みんな集団自決してるんだから、あんたに自決を命じることもまた合憲」というような話です。
やっぱり、おかしいことはおかしいと拒否しなければ、なし崩しにされてしまうという証になっているなあと思います。
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ところで。
君が代起立 懸念が残る最高裁判断(6月1日)-北海道新聞[社説]
最高裁は、卒業式などの君が代斉唱の際、学校長が起立を命じることは思想、良心の自由を保障する憲法19条に違反するとはいえない-との判決を下した。校長の起立・斉唱の職務命令は合憲とする初の最高裁判断である。
憲法が「侵してはならない」とする内心の自由は、最大限に保障されるべきである。判決が一定の条件の下では制約できるとしたのは、納得できない。
この判断が、とりわけ教育現場で独り歩きすることに懸念を持たざるを得ない。
判決は、校長の職務命令に反し、卒業式で1度だけ起立せず戒告処分を受けた元都立高教諭に対するものだ。定年退職後、再雇用を拒んだ東京都教委の処分取り消しなどを求めていたが、上告は棄却された。
職務命令について判決は、元教諭の「歴史観や世界観自体を否定するとはいえない」としつつも、思想、良心の自由を「間接的に制約する」と認めた。
そのうえで《1》慣例上の儀礼的な行為《2》国旗国歌法や学習指導要領の規定《3》地方公務員の職務《4》式典の円滑な進行-などを総合的に比較すれば、制約は「許容できる程度の必要性と合理性が認められる」とした。
各地で下されている教職員の処分の追認にほかならない。
教育委員会の処分は、心の問題に踏み込むのではなく、起立を命じた校長の職務命令に違反したという枠組みをつくり、行われてきた。
「強制はしない」と説明された国旗国歌法が1999年に施行され10年余り。道内を含む約700人の教職員が懲戒処分されている。
判決は、第2小法廷の4人の裁判官が全員一致したものだ。だが、注目すべきは「思想信条に関する微妙な領域の問題」との認識を示した補足意見である。
ある裁判官は「裁量を逸脱した処分は違法となることもあり得る」と指摘した。
別の裁判官は、司法が職務命令を合憲、有効と決着させても「最終的な解決へと導くことになるとはいえない」と補足意見で述べた。
さらに、日の丸君が代は強制的ではなく、「自発的な敬愛の対象となるような環境を整える」ことの重要性にまで触れた。
最高裁判断は職務命令を合憲としつつも、これだけの補足意見を付けた。異例なことだ。恣意(しい)的な処分など行き過ぎた動きにならないようにとの判断があると受け止めたい。
校長の命令に黙々と従う教師が増えることが、学校という場にふさわしいのだろうか。教育現場が萎縮し、窮屈になることを何よりも憂う。
こちらでは、趣旨は共感するのですが、なかなか苦しい論理立てだなあ…と。
日の丸君が代の強制について、強制ということが教育現場にはそぐわないという筋です。
北海道新聞の立場からの限界なのかなあと思ったりしますが、しかし、もっとはっきり言ってほしいなあと思ったりします。
日の丸君が代の強制は、それ自体がおかしいと。
そして、同時に、日の丸君が代が血塗られた歴史の象徴であり、そしてそれへの総括が、残念ながら戦後65年が過ぎた今日ですら、未だに滞ったままであるということ、このことが日の丸君が代への複雑な感情の根本にあることをはっきり言うべきだと思うのです。
これは単に当時のアジア諸国での日本軍、日本人の蛮行を客観視するということだけではなくて、今も根強いアジア諸国民への差別、そして沖縄やアイヌなどの少数民族差別の根っこを問い直すということでもあります。こういう忌まわしい構造が、よく言われる「愛国」や「忠君」と強く絡み合っている、そういうものの象徴として日の丸君が代があるわけです。そしてそれを強制する…強制しているという意識すらない…人々が、いかにこの構造とその忌まわしさに無自覚かということを絶望的なまでに見せつけてくれるからこそ、この日の丸君が代の押しつけには著しい嫌悪を感じるのです。
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コメント
日の丸・君が代に異常なまでの嫌悪感を示すこと自体、個人的には疑問ですが、それは内心の自由として認められるべきものだというのは理解できます。しかし、教育公務員に自ら志願して就職した以上、教師という公の立場で個人的な自由を振りかざすのは間違いです。
教育現場には強制はそぐわない、なんて耳障りはよいですが矛盾しています。子どもたちには授業中の私語もエスケープも許されません。日本に核兵器を落としたアメリカの公用語は学びたくない、として英語の学習を拒否したら、成績は1でしょう。授業の妨害をすれば厳しく指導されるでしょう。それとも内心の自由だからしかたないねと他の生徒と同様の評価が得られますか?
公務員なのですから法で定められた範囲で職務命令通りに動くのは当たり前です。それに従わなければ評価が下がり、罰を受けるのも当然。そんなに嫌ならほかの職を選べばよい。教育に携わりたければ私立の教員になればよい。それだけです。橋本知事も府民への強制はしていないのですから。国旗・国歌論は他人に迷惑のかからないところでやってほしいです。
公務員がいい!給料がほしい!でも職務命令に従うのは嫌!自由を認めろ!・・・子ども以下です。今まで条例がなかったものが、これまでの経緯で「できて」しまったのです。その原因を作ったのは「公」の教育現場で「私」を振りかざして厚顔無恥な主張を繰り返したアホ教師です。
投稿: ぽっぷ | 2011/06/03 22:00
ぽっぷさん、コメントありがとうございます。投稿いただいてから日が経ってしまってすみません。
「公務員なのですから法で定められた範囲で職務命令通りに動くのは当たり前」とおっしゃっている点は同感です。ただ、これまでは日の丸君が代は「法で定められた範囲」には含まれていなかったわけですね。東京都などでも、この命令が妥当なものかという点の認識に争いがあり、それで裁判にまで行ったわけで。
残念ながら、教育委員会側の命令・処分を指示する最高裁判例が繰り返し出ている以上、形式的には公務員は従わざるを得ないという判断になってくるでしょう。抵抗がさらに難しくなったということですね。ぽっぷさんのおっしゃる、「職務命令通りに動くのは当たり前です。それに従わなければ評価が下がり、罰を受けるのも当然。そんなに嫌ならほかの職を選べばよい。」という認識の社会的正当性が強化されたわけです。
私自身は、実はそういう風潮自体に疑問を感じているのですね。つまり、業務上それほど重要とも思えない事柄で個人の内心について絵踏みさせるようなことを、「業務命令」の一言で正当化し、「この命令に従えないものは排除されて当然」ということに疑いも持たないという風潮ですね。ですから、「日の丸君が代を絶対に掲げてはいけない」という命令も(そのような命令は現在の日本ではまずありえませんが万一あったとしても)、また私からすると非常に疑問です。私自身は日の丸君が代自体非常に問題があるものだと思ってはいますけれど。その意味で、教育者だからというところは私にとってはどちらかというと枝葉の問題なのです。
そして、「公務員がいい!給料がほしい!」云々というところはさらに本質的ではないと思っています。私立教員としても日の丸君が代を掲げている学校は非常に多く、そして私立学校の方が容易に処分しやすい以上、「私立教員になれ」という選択肢は現実的な代替案ではありません。また、処分覚悟で自らの信条を貫こうとし、裁判まで行っている人々は、「公務員がいい!給料がほしい!」という主張をするために抵抗しているわけではないわけです。ぽっぷさんがおっしゃる「公」と「私」の区別という面で言えば、これらの人々は、まさにそうした「公」の皮を被って特定の信条を強制することの是非を問うことを本旨としているのだと思いますし、そのことはおそらく教育とりわけ初等中等教育という場面では、日々の現場教職員にとっての本質的問題の一つなのだろうと思います。ぽっぷさんがご指摘のように、学校教育における指導のあり方ということは日々の現場実践でこそ実感され、また実際的な問題の切り分けに悩まれていることでしょうから。
投稿: muttbob | 2011/06/27 15:11
ふらりと再訪しました。お返事をいただきありがとうございました。勢いで書いてしまった感がある文章でしたが、冷静にご対応いただき感謝です。
まず、私自身は日の丸・君が代にそれほど愛着をもっているわけではありません。もちろん日の丸・君が代を式典で掲げることが過去の戦争を賛美したり、軍国主義を正当化したりするようなことにつながるとも思っていません。ブログ主さんは、何らかの理由で問題視されているようですが、私も反論こそすれそれ自体を否定したり強制したりするつもりはありません。「内心の自由」を尊重するというのはこういうことであると認識しています。違うのでしょうか。
だからこそ「これまでは日の丸君が代は『法で定められた範囲』には含まれていなかった」のではないでしょうか。なのに、戦後何十年もたってから国旗国歌法がつくられ、さらに今回こんな条例がつくられるようになってしまったのはなぜか、ということをむしろ考えるべきだと思います。「そんなことを条例で押しつける必要はあるのか」という点については私も同感なのです。橋本知事は「教育公務員なら立つべき時には立て」と言っているだけのこと。日の丸・君が代を好きか嫌いか(表現が安っぽいですがわかりやすいので)は人それぞれ。でも業務としての式典を円滑に進める義務は果たさなければならないはず。内心の自由はあってもそれに基づいて実力行使する自由があるわけではないのです。今回の条例制定騒ぎは、罰則等がないことをよいことに、そこをはき違えて調子に乗ったアホ教師たち(冷静に書いてもこれは使ってしまう・・・)のいわば自業自得であり、積極的に賛同はしませんがやむを得ないものと考えます。
ちなみに、「業務上それほど重要とも思えない事柄」とのご指摘ですが、私はそうは思いません。「教育者だから」が枝葉であるならば、こんなに大きな問題にならなかったように思います。私自身についてはお察しの通りでありますが、いずれにしても大切な式典を妨害したり、ルールを守らないことを正当化したりすることは、教育現場だからこそ大きな問題なのではないでしょうか。「俺は日の丸・君が代には問題を感じている。でもお前たちの卒業式だから式典の妨害になるようなことはしない。だからお前たちも卒業したらこの問題について自分の頭でしっかり考えてほしい。」教育者ならせめてこれぐらい言えないのかと。「日の丸・君が代は問題だから俺は式典の指示には従わない。お前たちも立ちたくないと思ったら立たなくていい。それが内心の自由の表現だ。」当事者にはこれが正義なんでしょうが、どこに教育的要素があるのか。本当に迷惑な話です。
あと、私立教員についてのご指摘は、残念ながら的はずれですし、矛盾をはらんでいるように思います。公務員は就職時に服務の宣誓をさせられます。公務員としての職務命令に従う義務が生じるわけです。私が「ほかの職を選べばよい」といったのは、それに同意しておいて反故にする姿勢に疑問を感じたからです。なぜ私立でも処分されることが前提なのですか?処分自体が問題ではないのですか?一応、前コメントでは国旗国歌を義務づけられていない学校を想定して私立教員になることを代替案としたのですが、別に「業務上それほど重要と思えない事柄」で処分するな!と「私立学校」と戦ってもいいじゃないですか。ブログ主さんが言われていることは「日の丸・君が代を掲げている私立にそれを否定する人間が教員として就職するのは現実的でない」ということですよね。公立学校でも現職の教員が就職するときには、日の丸も君が代も学校教育の中に入ってきていたはず。であれば、それを承知で教員になっておいて・・・。ここが一番わからないところです。
職業選択の自由は確保されていたはず。企業でもときに内心にかかわるような「業務命令」はあるかもしれません。ではそのとき「内心の自由」を盾に命令に背くのが是なのでしょうか。前述の私立学校のくだりと同じで、処分を恐れて戦えないのであれば、「公務員」という身分に甘えてわがままを言っているとの誹りは免れないように思います。
だからこそ「『公』の皮を被って特定の信条を強制することの是非を問うことを本旨としている」とあることについて、なぜこれをそんなに正当化できるのか大いに疑問です。「公」の立場がなければ薄らぐような安い主張にどれほどの価値があるのでしょうか。公務員には定数があるのです。必要な戦いであるならばそれは「私」の部分でやってもらい、代わりに本分としての「公」に情熱を注ぐことのできる公務員に活躍してもらう機会を増やすべきだとは思いませんか。
長文失礼しました。相変わらずまとまりのない文章ですが、この手の話をすると感情的に否定されることが多いので、じっくり考えを説いてくださるブログ主さんには感謝しています。
投稿: ぽっぷ | 2011/07/10 01:47