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2013/10/03

傷痍軍人のこと

昭和40年代末か50年代だから1970年代か、まだ街頭で物乞いをする「傷痍軍人」はときどき見ることができた。

あの人たちは何をしているの?と聞いた私に、祖母が「あれは偽物で傷痍軍人のふりをしているだけだ」と答えて、私を連れて足早にその場所を去った。それが傷痍軍人についての最初の記憶だ。
それから繁華街にお出かけにつれて出てもらった時など、ときどき「傷痍軍人」を見つけた。みすぼらしい軍服姿で義足を付けて立っていたり、手や足がないままに路上に座り込んでいたり、声高に物乞いをするわけでもなく、ただ雑踏の片隅でじっとしていた。
「傷痍軍人のふりをして哀れみを乞う商法なのだ。戦後30年、今時傷痍軍人なんているんだろうか」と思った。

1980年代後半、ちょうどマル金、マルビとかが流行っていた頃、京都の吉田神社の節分会を見に行ったら、そこにも「傷痍軍人」がいた。夜店が建ち並び、大勢の人出でごった返す参道の途中に、ぽつんと2人ぐらいで立っていた。翌年の節分会にも、その翌年の節分会にも「傷痍軍人」はいた。
「そういう出し物なのだ、やっぱり偽物なのだ、今時、物乞いをする傷痍軍人の演技をするなど、変わった趣味の人がいるものだ」と思っていた。その後、90年代後半頃に再び節分会を見に行った時には、もういなかった。

傷痍軍人とは誰だったのか - 読む・考える・書く

野中広務・辛淑玉 『差別と日本人』 P.114

 私、子どもの時に、新宿のガード下で物乞いしてる傷痍軍人を侮蔑的な目で見てたんですよ。軍人嫌いの私には、唄っているのが軍歌だということもあったかもしれない。日本の国からお金もらってるんだからいいじゃないか、と思ったのね。
 そしたら、大人になってから、あれは朝鮮人だったってことを教わるわけ。結局、元軍人であっても朝鮮人だから、それで一銭も日本からもらえなくて、生活することもできなくて、しかも国籍条項によって福祉からも排除されている。だから物乞いするしかなかったってことを知って、私は打ちのめされたんですよ。

私が見た人たちが、こうした「本物の」傷痍軍人だったのかどうかはわからない。
なぜ祖母が「偽物だ」と言ったのかも今となっては確かめる術はない。
ただ、仮に偽物だったとして、なぜわざわざ傷痍軍人のふりをしていたのか、そしてふりをしていたにしても、手や足がなかったのはなぜなのか。当時の私は、こうしたごく当たり前の疑問をなぜ考えようとしなかったのか。そしてまた、なぜ吉田神社の「傷痍軍人」に話しかけなかったのか。今にして思えば、都合のいい場当たり的な憶測で、直視したくないものから逃げていただけだったのではないか。

「日本傷痍軍人会」が解散へ NHKニュース
この会に、朝鮮台湾などの旧植民地出身者は含まれていたのだろうか。

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NHK NEWS WEB 「日本傷痍軍人会」が解散へ 10月3日 19時16分

先の大戦で負傷や病気をした元兵士でつくる「日本傷痍軍人会」が、会員の高齢化で解散することになり、3日、東京都内で式典が行われました。
戦時中から戦後を通じた厳しい生活の体験を基に平和を訴え続けた活動が、戦後68年で1つの区切りを迎えました。

日本傷痍軍人会は、先の大戦で戦闘中に負傷したり戦地で病気になったりした元兵士が作る団体で、戦後も仕事に就くことができないなど厳しい生活が続く人が多いなか、国に援護の充実を求めてきました。
戦後68年がたって、35万人いた会員は5000人に減り、残った会員も平均年齢が92歳と高齢化が進んでいることから、来月末で解散することを決めました。
3日、東京・渋谷区の明治神宮会館で創立60年の記念式典と解散式が行われ、全国の会員らおよそ1200人が出席しました。
記念式典では、天皇陛下が「戦傷病者とその家族が歩んできた歴史が、決して忘れられることなく、皆さんの平和を願う思いとともに将来に語り継がれていくよう切に希望してやみません」と述べられました。
続いて行われた解散式では、奥野義章会長が「幾多の困難を乗り越えてきたことを忘れずに生きていきましょう」と述べ、解散を宣言しました。
日本傷痍軍人会は、戦時中から戦後を通じた厳しい生活の体験を基に平和の大切さを訴え続け、7年前には体験を後世に伝える史料館が東京都内に開設されました。
史料館には、元兵士ら140人の証言映像が集められていて、このうちの1人で、戦後、中国で抑留中に右目を失明したという北海道恵庭市の武田豊さん(84)は、解散式のあと、「解散するのは、日本が再び戦争をせず、新たな傷い軍人を出さずに済んだからで、うれしい気持ちだ。私たちのような体験をする人が2度と生まれないようにするためにも、多くの若い人たちが史料館を訪れて戦争の悲惨さを感じてほしい」と話していました。

これまでの活動
「日本傷痍軍人会」は先の大戦で戦闘中に負傷したり、戦地で病気になったりした元兵士が、終戦から7年たった昭和27年に設立しました。
元兵士は、負傷などの影響で仕事に就けない人も多く、さらに連合国軍の占領下では、支援のほとんどが廃止されたために厳しい生活が続き、当時、街頭で募金活動をする元兵士の姿も見られました。
こうしたなか、日本傷痍軍人会は、元兵士の要望を国に届け、次第に医療の手当や義手や義足の支給といった援護の制度が作られていきました。
その一方、戦時中から戦後を通じた厳しい生活の体験を基に「われらのあとに傷い軍人を作るな」というスローガンをかかげ、平和を訴える活動を続けてきました。
そして、7年前には、元兵士の体験を後世に伝える史料館「しょうけい館」が東京・千代田区に開設されました。
史料館には、目を負傷した兵士がかけていた銃弾のあとが残るめがねや、治療のため、けがをした部位を麻酔なしで切断したという野戦病院の模型、それに実際に使っていた義手などが展示されています。
また、元兵士など140人の証言映像が集められ、このうち、中国戦線で銃弾を受けて右足を切断した男性は、戦後、結婚の話が出るたびに、片足がないことを理由に、次々と破談になった体験を証言しています。
また、ニューギニアで銃弾を受け、衰弱した状態で戦場をさまよい続けたという男性は、戦後、突然、意識を失う症状が出るようになり、運転免許の取得も認められず、就職で苦労したことを証言しています。
「しょうけい館」は会の解散後も存続し、今後も資料や証言の収集を続け後世に伝えていくことにしています。

戦傷病者の資料相次ぎ発見
「日本傷痍軍人会」の解散をきっかけに、元兵士を対象に昭和30年代に行われた実態調査の資料などが相次いで見つかり、戦争による負傷や病気の実態を伝える貴重な資料として注目されています。
日本傷痍軍人会の解散に伴い、都道府県ごとに作られた組織の多くでは、事務所の整理が進められていて、こうしたなか、倉庫などに眠っていた古い資料が見つかるケースが相次いでいるということです。
こうした資料は、東京都内にある元兵士の体験を伝える史料館「しょうけい館」に届けられ、学芸員が分析に当たっています。
このうち、大阪で見つかったのは、元兵士を対象に昭和30年代に行われた実態調査の調査票で、負傷や病気をした時期や場所、それに後遺症の状況が詳細に書き込まれています。
史料館によりますと、戦争による傷病者は、戦死者と比べると詳しい記録が残っていないため、全体の人数が把握できていないほか、負傷と後遺症の関係なども明らかになっていないということです。
資料の分析に当たっている「しょうけい館」の植野真澄学芸員は、「戦後何十年もたってから後遺症が出るなど、戦争が人間の体に与える影響は分かっていないことが多い。当事者が少なくなるなか、戦争に動員された方々が、どういうけがや病気をしたのかを伝える貴重な資料で、今後の研究に生かしていきたい」と話しています。

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