特攻隊を賛美するのは特攻隊員を冒涜している
こちらを拝見して。
「逃れられぬ死」を与えた上層部を不問にして特攻隊員たちをドヤ顔で賛美する電波芸 - 誰かの妄想・はてな版
知覧の特攻記念館に行くといつも違和感を覚えるのが、特攻隊員を美しいものと捉えようとする雰囲気です。
愛するものを守るために…とか、従容として死に就いた…とか、死んでいった人たちは日本の礎だ…とか。
優しい人たちだったとか、ごく普通の好青年たちだったとか、立派な人たちだったとか、そういう人格のことや地域との交流のこととかはまあいいのですけど、彼らをたたえる、賛美するようなムードがどうにも腹が立ちます。
彼らは明確に犠牲者なのであって、彼らを悼みこそすれ、彼らの行動に美しさを感じること自体がそもそもごまかしだと思うわけです。我々は彼らを死に追いやった社会の末裔であって、その責任を負い、その贖罪に苦しむことこそあれ、彼らに「ありがとう」とか感謝するなど言語道断だと思うのです。
知覧の特攻記念館についていうと、そういう賛美ムードが明確なわけではないのですが、特攻という作戦の無意味さや死を強要する同調圧力、隊員らの死んで国を守るという一途さが生み出された背景など、こういう破滅的な作戦を成り立たせていった歴史を分析しようという視点が少ないのですね。特攻隊の悲劇や隊員の心情、生活などの紹介が主体で、それは一つの方法だとは思いますが、展示をじっくり見れば見るほど欲求不満がつのるというか、彼らの心情や悲劇に共感すればするほど簡単に「もののふの美学」みたいなところへ昇華してしまいかねなくなる危うさを感じるのですね。
というわけで、特攻隊員について、あるいは死傷した日本兵に対する「死んで護国の鬼となった」みたいな、あるいは戦後の復興の礎になったみたいなとらえ方には腹が立ちます。そもそも「ぼくらの楽しい生活のために死んでくれてありがとう」とか、亡くなった人に対してあまりに失礼じゃありませんかね。「なぜこの人は死ななければならなかったのか、死なせずに済む方法があったのではないか、今後こんな悲惨な死を食い止めるには何ができるのか」を問い続けるしか、彼らを弔うことはできないのではないかと思うのですけど。
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