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2014/04/03

「しなさい」と「してもいい」の間

歌わない権利を守ること~カナダ国歌についての思い出(長谷川澄)

「国歌を歌わない子がいるんだね、どうしたんだろう?」
「国歌を歌う歌わないは完全に個人の自由なんだから、そんなことで、何か言うのはとても失礼なんだよ!」
「いや、何か言ったんじゃなくて、どうしたのかなと聞いただけよ」
「聞くだけでも駄目なの!どうしてなんて、理由を聞く必要も、理由を説明する必要もないの!」

ということで、長谷川氏は
「一番大事なことは歌いたくない人、敬意を表したくない人の権利を守ることだと思います。」
と述べていますが、私も同感です。

もちろん、歌いたい人、敬意を表したい人はそうすればよいと思います。
しかし、そのものに嫌悪を覚える人、不快を感じる人の存在は忘れてほしくありません。
理屈はちょっとタバコに似ているかもしれません。吸わない人、煙が苦手な人にとって、間近で喫煙されるのはとてもつらいことです。全面禁煙とは言わずとも、せめて分煙や、分煙できない場合・場所は禁煙する。そういうことと似ているかもしれません。

上記の記事について、よくあるパターンの反論的な感想が上がっています。
はてなブックマーク - 歌わない権利を守ること〜カナダ国歌についての思い出(長谷川澄)

・日本の場合は子供側じゃなくて教員側の問題だと思うのだが
・で、カナダには「国家を歌ってはいけない」と子供に教える教師はいるのかね。
・うん、子供の権利を守る必要がある。だから、子供に影響を与える教師が自分の個人的思想を大っぴらに喧伝することが批判されてるんですよ。

つまり、日本では(1)子どもの歌わない自由は守られているし、(2)教師が「歌わない」という個人的信条を主張してはいけないという批判です。
でも、私はいずれもおかしいところがあると思います。
(1)については、式典で生徒が着席したままでももちろん法的に処分することはできないでしょう。しかし現状の式典運営においては、「歌いたくない」「歌わない」と教師に伝え、式の練習中も座り続けることは、異端者のように見られるのではないでしょうか。あるいは、「私は日の丸が掲げられているのを見たくない」と言い、「それを取り払うか、せめて目に入らないようにしてほしい」と先生達に伝え、配慮してもらうことができるでしょうか。君が代については、周囲からは歌わない理由を問われ、説明し、それが「なるほど」と思われないと認めてもらいにくいのではないでしょうか。日の丸については、式の運営上日の丸を正面に掲げることは絶対に変更できないと拒否されるのではないでしょうか。そしてこの様な生徒は式典の正常な運営を妨害する厄介者のように思われないでしょうか。この様な状況のもとで、自らが異端者だと「カミングアウト」する道を敢えて選ぶためにはそれなりの勇気や強い気持ちが必要なのではないでしょうか。この状態では子どもは自由だと言えるのでしょうか。

(2)については、教師が特定の信条を主張することを認めないというならば、学校が「歌う」あるいは「歌わせる」という特定の信条を組織的に主張していることも容認すべきではないでしょう。
そもそも、「歌わない」という主張は「歌うことを禁じる」という主張ではなく、「歌わせる」あるいは「歌う場に同席させる」という働きかけに対して、「歌わなくてもよいのではないか」、「全員出席が求められる場所を皆が歌う場のようにしなくてもよいのではないか」という異議申し立てであるわけで、主張としては特定の行動を求める働きかけ(歌う)に比べると要求が弱いものです。
特定の信条を押しつけるべきではないというのであれば、本来は「歌っても歌わなくても構わない」であるべきで、その観点からは、歌わないと居心地が悪いような場を設定したり、そういうムードを醸し出したりすること自体も避けなければなりません。この立場からは、あたかもファミレスで何を食べるかを選ぶぐらいの気軽さで、歌うか歌わないかを選べる場を保障することこそが、あるべき式典運営だということになるはずです。
そしてまた、中立的でなければならないというのであれば、「歌うべきではない」とする見解について生徒によく考えさせる必要があります。日の丸君が代を嫌悪し不快に思う人がいること、なぜその人達はそう思うのかについても知らせ、そしてその上で自分はどうするかを考えてもらうべきでしょう。なぜならば、日の丸君が代があるのが当然であり、また少なくとも日本国民はそれらを尊重すべきだと思っている(信じている)人たちが大多数――マジョリティ――であり、その人達にとっては、この観念はことさらに理由を考える必要もない空気のように当たり前の「常識」のようになっているからです。
さらに、生徒に歌わない自由を保障するのであれば、教師にも自由を保障すべきではないでしょうか。先生達は斉唱が義務づけられていて全員が歌っているのに(しかも罰則付き)、生徒達は歌ったり歌わなかったり自由にしているというのは、ちょっと変な式典にならないでしょうか。やっぱり、生徒に対して「歌わなくてもいいよ」とか「別に起立とかしてもしなくてもいいから」みたいな場をちゃんと保障するのであれば、周りにいる先生達だって、全員がぐわっと一斉に起立して朗々と君が代を斉唱する……みたいな雰囲気よりも、熱唱する先生もいれば、そうでない先生もいる、というような状況の方が、生徒にも「あ、本当に自分の思うようにできるんだ」ということが伝わるし、式典の上でもしっくり来ると思うのですが。

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このほかに日本の卒業式での斉唱拒否については、公務員(従業員)は所属組織の職務命令に従わねばならないから、歌うと決まった場所で歌わないのは服務規律違反だ、ということが言われることもあります。今回はそれほど関係ない論点ですけれど。

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思いがけず長くなってしまいましたが、いろいろ考えてくると、
「そもそも、卒業式や入学式に、なんでここまでして日の丸君が代を出さなければならないんだ」
と思うのです。
そうでなくても、学校では国家の働きについていろいろと学ぶわけです。日常生活でも、祝日に日の丸を掲げる家はあちこちにあるし、国際的なスポーツ大会の中継では日の丸君が代に触れます。日の丸も君が代も、そうやって既に日常生活に浸透して、折に触れて出てくるわけです。
で、学校の入学式や卒業式は、その学校と自分たち(生徒や先生達)との関係にけじめを付ける式典であるわけで、学校の旗や歌は意義があるかもしれませんが、日の丸や君が代はあまり本筋ではありません。国家は全く無関係ではないので、まああっても悪くないかもしれません(私は嫌だし本当は置くべきではないと思いますけど)。でも、日の丸を見たくない、君が代を歌いたくないという人を「許さない」「処分する」という強硬手段に出てまで、守るほどに、式典に必要なものですかね。「そんなに嫌な人がいるのなら、まあいろいろややこしいことでもあるし、とりあえず外しておきましょうかね」ってしておくぐらいのものではないかと思うのですが。私からしてみると、「口が動いているかをチェックする」など、戯画的ですらあるほどに強硬な態度で日の丸君が代を卒業式や入学式に持ち込もうとするのか、その方が不思議なぐらいです。


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