世の中を信じられない人々:自己実現するもの悲しい期待あるいは利他主義に寄生する利己主義の無自覚について
誘拐されそうになった時の話と、岡山の事件について
重い指摘。体にしみ込ませておくべき大切な指摘。絶対に忘れてはならない指摘。
これに対して、
「夜の八時に一人で外に出たのが全ての間違い」
「親や社会が子供を二十四時間絶え間なく監視するわけにはいかない」
「被害に遭いやすい側が自衛するのは当たり前」
「高学年なら夜中一人で出歩かないぐらいの自衛はしても当然」
「夜中に家出する子どもまでは社会じゃ面倒見られない」
などという人たち。
生還者を慰藉するよりもまず、その人の落ち度をあげつらわずにはいられない人たち。
どこまでが自己責任かの線引きを自分の都合で自由にできると思っている人たち。
被害者や被害防止を願う人たちが、社会=自分たちに100%の安全保障と責任を負えと主張していると思ってしまう人たち。
自分の思いや願いはアナログ的に無段階に調整可能だが、他人の願いはゼロか1しかないと思っている人たち。
この人たちはきっと、誰かからお願いをされると、自分に何か重いものが降りかかってくる、自分の大切な部分が侵されると思ってしまうのだろう。
この人たちは、いつ自分が攻撃されるか分からないといつも不安に思っているのだろう。
ほんのわずかな隙でも見せれば、他の人々はその隙に果てしなくつけ込んでくる、それが社会だと思っているのだろう。
そして自分が今まで大過なく過ごせてきたのは、自分がこの乱世をうまく生き残る術を駆使してきたからだと思っているのだろう。
この人たちは要するに、こんな恐ろしい社会に対して貢献などはしたくないのだ。
「自分は損をしたくない」「1円たりとも1秒たりとも他人に出したくない」と言っているのだ。
社会から利益を得ることがあっても、社会には一切のお返しをしたくないのだ。
なぜならそれは、悪辣でずるがしこい他者を自らの才覚でうまく出し抜けたことへの報酬であって、正当な権利だからだ。
自分が安全に暮らせているのは目に見えない他者の貢献や偶然の巡り合わせなどではなく、自分が努力で勝ち取ってきた成果なのだ。
弱者は愚か者であるゆえ、被害者は哀れむ対象ではあっても、庇護するなど社会悪でしかないのだ。
それが彼らの倫理であり、社会正義なのだ。
だから、隠してきた苦悩を吐露せざるを得なくなった犠牲者の声は、彼らの逆鱗に触れざるを得ないのだ。
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追記(2014年7月23日)
被害者への「寄り添い」とは何かを理解するための貴重な声。
今回は、被害者の方の機転で、命が守られましたが、この幸運が、次もあるとは限りませんし、今まではそうでした。ネット上では、彼女がなぜ逃げなかったのか、理解できないという声があることを上記のリンクで知りました。
それらの疑問を発するひとは、加害者と同じ発想をしています。犯人は殺しさえしなければ、彼女の人生を奪いさっても、罪はないと考えたのでしょう。それどころか、救ってやるとすら思っていたのでしょう。
これほど身勝手で恥ずべき発想はありません。彼女の人生は彼女のものです。
それをはき違えるひとたちは、すべて、加害者サイドにいます。
それは恥ずべきことです。
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