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2014/09/25

堀江節子『人間であって人間でなかった』を読みました。

Amazon.co.jp: 人間であって人間でなかった―ハンセン病と玉城しげ: 堀江 節子: 本

玉城しげさんという一人の女性からの聞き取りを元にして、ハンセン病患者への差別と虐待の歴史、そしてそれと闘ってきた人たちの取り組みや思いが書かれた書。
玉城さんの暮らしや体験についての聞き取りの文章が中心で読みやすい上に、時代背景やハンセン病に関する国の制度や社会事情の解説が入っているので、理解もしやすい。玉城さんの周囲の人たちからの聞き取りもあって、玉城さんからの視点だけにとどまらず、複眼的にハンセン病国賠訴訟の運動や差別撤廃の取り組みについて考えることができます。
玉城さんの半生記とは直接関係ないものの、玉城さんと深く関わってこられた河上千鶴子さんという身体障害者の「私の体験記」と題する講演原稿も印象的です。養護教育を受けるようになってから障害者であることを意識するようになったというあたりは障害児教育のあり方について考えさせられますし、周囲の人々や社会制度との軋轢の中でも強く自立しようとする意志の強さにも多くのことを考えさせられます。しかし、障害者施設の中で面会拒否や不妊・去勢手術が行われていたという記述には衝撃を受けました。

印象的な記述は多数ありますが、そのいくつかをメモとして残しておきます。

・戦前のらい病政策の始まりが諸外国からの人権問題への批判への対応を動機とするものであったこと。
確か、明治政府の社会保障――貧困救済や障害者対策も同様の動機であったとラジオ講座で聞いたことがあります。欧米人に見られて困るもの、見苦しいものを隠すというところが日本の社会福祉政策の出発点であったという話です。確か、人身売買に関して廃娼運動にもそういう動機があったのではなかったかと。
こう考えると、今、従軍慰安婦問題が外交や国際政治という文脈でしか理解されない多くの現状を見ても、そもそも日本には人権という発想が受け入れられにくい土壌があるのかしらん、と悲観的になってしまいます。

・無らい県運動という運動が存在し、朝鮮人強制連行のような手口が横行していたこと。
1907年「らい予防に関する件」、1929年無らい県運動、1931年らい予防法という時の流れを見ると、徐々にハンセン病患者を隔離、排除、絶滅すべしという認識が深まってきたことが推測されます。それ以前からハンセン病患者は差別対象でしたが、隔離の制度化と共に排除意識も浸透・先鋭化していったのではないかと思います。その中で患者の隔離数を競う風潮が生まれていったのではないかと思います。患者は言わば犯罪者のように捜索・摘発され、甘言を弄して誘引され、周囲への迷惑を種に脅迫されていったのでした。

・「救らい思想」という道徳に基づく療養施設が実は地獄であったこと。
「沖縄ではハンセン病患者は迫害され続けており、1935年隔離小屋が焼き打ちにあう事件があった。このあと沖縄に立ち寄った林文雄は「救らい」事業の重要性を確信、自分が園長となった星塚敬愛園に沖縄・奄美大島の患者を収容することを自らの使命とした」(35ページ)
天皇皇后、戦争を理由にした権威付けや抑圧がよく行われていたことも世相を感じさせます。
患者の労働力利用が進むほど職員を減らしたこと、ずさんな胎児標本を作るというアリバイ工作から「道徳」の本音が透けて見えるようです。
鹿屋市の星塚敬愛園は地元の永田良吉代議士が誘致運動をしてできたとのこと。「みなさんは百姓をしなくても済むし、職員にも採用されるようになる。この畑を国に買い上げてもらって療養所を作ろう」(39-40ページ)、「海軍航空隊の鹿屋基地を誘致したのも永田代議士」(40ページ)という話に今も変わらない地方の哀愁を感じます。原発、廃棄物処分場、米軍基地、自衛隊……。

・戦後、治療法が明らかになった後ですら隔離政策は継続されたこと。
1948年優生保護法によるハンセン病患者への優生手術合法化。1949年の第2次無らい県運動、1953年のらい予防法。療養所長らの隔離・管理強化の主張。遺伝しない病気の患者の断種という矛盾。

・1960年に玉城さんに会いに来たお父さんの怒り。
・裁判闘争への反対者との軋轢。園の抵抗、職員の立場。
・浄土真宗の謝罪
1996年「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」

・馬場広蔵、林力という父子と玉城さんとの関わり。
Amazon.co.jp: 山中捨五郎記―宿業をこえて: 林 力: 本
Amazon.co.jp: 父からの手紙―再び「癩者」の息子として: 林 力: 本

・「強制連行した麻生炭鉱の孫が総理になったと聞くと、アジアの人たちは、日本の軍国主義が復活したと思うね」(167ページ)

・鹿屋市のNPO「ハンセン病問題の全面解決を目指して共に歩む会」の代表、松下徳二さん、倉園尚さんの存在。
講演録「人間回復への言葉」にある松下さんの言葉。「私たちはみんな加害者なんだ」「いっぱい差別問題はあるのに、『私は差別していますよ』という人は、一人もいらっしゃらない。」「自分たちが差別する側に立っているんだということを、ほとんどの人は考えていないんではないか」(199ページ)

・徳田靖之弁護士の言葉 「救済の対象から、解放の主体へ」(200ページ)
・四十物和雄さんの言葉 「障害者の家族は、障害者にとってはもっとも身近な加害者であり、家族としての負担を負う被害者でもある」(200ページ)

・運動のつながり
赤瀬範保さん(HIV訴訟)「ハンセン病患者はなぜ怒らないのか」→島比呂志さんが九州弁護士連合会に手紙を書く。
島比呂志さんの作家活動→主宰する同人誌「火山地帯」で松下徳二さんと友人に→運動支援を頼まれ1999年に会を立ち上げる

参考
「いま、なぜ、らい予防法を問うのか…語る人◆島比呂志・聞く人◆篠原睦治」社会臨床雑誌第3巻第1号1995年4月9日
松下徳二「ハンセン病問題その後の歩み」、篠原睦治「〈追悼〉島比呂志さんの「生涯人間」宣言に学ぶ」社会臨床雑誌第11巻第2号2004年1月11日

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