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2014/09/27

従軍慰安婦問題の「広義の強制」についてのメモ

ジョンお姉さん慰安婦論争と南京論争を語る - Togetterまとめ

こちらのコメント欄で「ジョンお姉さん@jpn1_rok0」氏がこのように書いている。

吉見が苦し紛れに出した「広義の強制性(たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果)」貧困とか失業とかって、世界中の普通の売春婦が売春する理由だよね。つまり、こんなものは「日本軍」に全く関係ない(ゲラゲラゲラ

日本軍が組織的に行った女性の性的搾取について、日本軍は責任がなく、恨むべきは女性らの貧困や失業であると言っているように読める。
別のところでは「違法性」はなかったと主張しているので、その面だけを論点にしているようで、この人が慰安婦問題を引き起こした責任や教訓をどう考えているのかよく分からない。このような悲劇がなぜ起きたのか、類似の悲劇を今後起こさないためには何が必要か、という観点には興味がないように見える。被害者を冷酷に嘲笑し、糾弾する人を冷笑するだけのようでもある。

ところで、この人が言う、
吉見氏による「広義の強制性」=たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果
という説明は、正当なのだろうか。

広義の強制という場合、それは、強制連行=嫌がる人を銃剣や暴力・脅迫によって拘束・拉致するというイメージに対して、「強制連行」という場合、詐欺、甘言を弄した誘引、人間関係や義理や因果を説いてあきらめさせること、金銭的・契約的な縛りなどによって、従わざるを得ない状況に追い込むことも含める方が適切だ、という意味だと私は理解していた。
また、人員の徴発や人身売買に直接関与した主体ばかりでなく、徴発や人身売買の動機を作り、督励し、あるいは便宜を図り、容認、黙認するような場合も、その強制連行の責任は免れないという趣旨も含まれるものと理解していた。

ちなみに、「強制性」についてはこのように解釈する方が、今後の人権擁護を進めるためにも有益だと私は考えている。

従って、
「一見、自由意志に見えることも環境によって支配された行動である」
ということを「広義の強制」という言葉が主張しているという説明には違和感を感じるわけである。

吉見氏が「広義の強制」について触れた著作には、1992年の『従軍慰安婦資料集』(大月書店)があるという。
Amazon.co.jp: 従軍慰安婦資料集: 吉見 義明: 本

この本を持っていないので他の人の引用を孫引きする。
例えば、小林よしのり氏のブログの2014年4月23日付けエントリ「「広義の強制連行」の発明は学者失格」によれば、

『従軍慰安婦資料集』巻頭の解説で、吉見はこう書いた。
「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは狭義の強制連行であり、詐欺なども含む広義の強制連行の問題をも深刻に考えてしかるべきであろう」(P35)
吉見はここで「狭義の強制連行」「広義の強制連行」という、これまで誰も考えたこともなかった新概念を「発明」したのである。
「捏造」と言ってもいいが。
そして、奴隷狩りのような「狭義の強制連行」がなくても、「いい仕事がある」などと騙されて連れて来られた場合でも「広義の強制連行」に当たる、と言い出したのだった。
とある(なお改行箇所を変更している)。
ここに引用された一文

「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは狭義の強制連行であり、詐欺なども含む広義の強制連行の問題をも深刻に考えてしかるべきであろう」

によれば、吉見氏の「広義の強制連行」とは、
「自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、何らかの強制の結果」なる「ジョンお姉さん@jpn1_rok0」氏の解釈は当てはまらないと言える。
すなわち、吉見氏の「広義の強制連行」とは、「人狩り」以外にも、詐欺などの一見非強圧的に見える手段を使う場合も含めようという趣旨であって、被害者の生活環境などによる制約を「強制」と呼ぼうということではないわけである。

なお、小林よしのり氏は、この吉見氏の「広義の強制連行の問題」という一文をことさらに「発明」や「ねつ造」と重大視しているが、私はそれは「発明」や「ねつ造」というほどに吉見氏の独創性があるとは思わないし、些末な論点だとも思う。というのは、詐欺や甘言、言いくるめ、金銭的拘束などをも「強制」の一手段と見なすというのは、それなりに世間に認められた観念で、別に吉見氏に由来するものでもないと思うし、この歴史的被害を今後の人権擁護に生かすという観点からは、公的権力の責任をその責任主体が直接「人狩り」に関与したときのみに認めるという考え方は適当ではないと思うからである。

なお、kmiura氏の「"狭義の強制"の発祥 (キーワード化予定) 」(2008年8月4日?)に関連のリンクがまとまっており、「狭義」と「広義」を巡る当時の状況をある程度うかがえる。

こちらにある情報によれば、小林よしのり氏が「吉見氏が言い出した」とする「広義の強制」だが、そもそもは秦郁彦氏が先に持ち出した論点ではないかということだ。つまり、秦氏が先に、

「官憲の職権を発動した『慰安婦狩』ないし『ひとさらい』的連行」=狭義の強制連行

に議論を限定しようとしていることに対応して、それは適切ではないと述べる含意があったのではないか、というのである。

この点について、こちらのリンクにある上杉聰氏の「マンガに洗脳されてしまう若者たち」の「被害者の名乗り出が与えた衝撃」、及び上記kmiura氏の記事から、吉見氏がこの一文を書いた当時の状況をまとめておく。本当ならば、典拠として示されている『従軍慰安婦資料集』の32~35ページに当たるべきだが。

1991年8月 金学順さんの告白に吉見氏が衝撃を受け、資料の再調査を決意する。
1992年1月 吉見氏が副官通牒を発見したことが新聞報道される。
1992年2月 元慰安婦による提訴。
   吉見氏、副官通牒、警保局長通牒、元慰安婦の訴状について分析を進め、以下を確認。
   ・当時日本が「婦女売買禁止に関する国際条約」の制約下にあること
   ・同条約第2条は「詐欺に依り、又は暴行、脅迫、権力濫用その他一切の強制手段」を禁止し、強制連行を「詐欺」を含むものと「広く規定している」こと
   ・訴状では9名中7名がだまされて連行されたとしていること
   ・従ってこれらの事例は当時の条約に違反していること
1992年5月?8月? 秦郁彦氏、「狭義の強制連行」という表現を使用。
   「昭和史の謎を追う-第37回:従軍慰安婦たちの春秋」『正論』1992年6月号
   (文春文庫版『昭和史の謎を追う・下』第41-42章)
   「『慰安婦狩り』証言 検証・第三弾 ドイツの従軍慰安婦問題」『諸君!』1992年9月号
1992年11月 『従軍慰安婦資料集』刊行

なお、「強制連行」の語義については、こちら
『強制連行』について整理する - Stiffmuscleの日記
が参考になるし、他の辞典的なものの記述をあれこれ見てみても、どのような手段を取ったかは基準ではなく、むしろ国家の徴発・動員を強制連行と呼ぶのが通常のようだ。この観点からすれば、「広義」とか「狭義」とかはそもそも論点でなく国家の責任を認めるべきということになるし、その方が被害回復や被害防止の観点からも適切だろう。

**************
朝日新聞の過去記事検索サービス「聞蔵II」で当時の記事を探していたところ、「広義」「狭義」に関する興味深い投書を見つけたので掲載する。

1993年01月15日朝刊「声」欄
「軍隊と性犯罪」は短絡的な論理(声)   盛岡市 工藤貴正(医師 27歳)
 十三日の本紙論壇「今も続く『軍隊と性犯罪』」で上野千鶴子氏は、国連平和維持活動(PKO)部隊周辺の歓楽街形成を軍隊の性犯罪と決めつけ、従軍慰安婦問題と同一視しているのは、行き過ぎたフェミニズムと思われ賛同できない。
 軍隊に限らず、人が集まる場所に歓楽街が形成されるのはふつうのことで、これを軍隊の性犯罪と決めつけることには無理がある。少なくとも、むき出しの暴力による強制が従軍慰安婦の最大の問題点であったと思う。
 貨幣による誘導は、軍隊自体の問題ではなく、「性の商品化」を温床とする一般社会が抱えている問題ではなかろうか。事の本質を考えないで、軍隊周辺の歓楽街を軍隊の性犯罪とする態度は短絡的であると思う。
 暴力による強制は狭義の性犯罪であり、貨幣による誘導は広義の性犯罪であることを、社会全体が本当に認識することが重要である。少なくとも、暴力による強制が完全に排除されているのなら、「今も続く軍隊と性犯罪」と題するのは見当違いであり、不毛な論理であろう。
 また、性の商品化なる問題の一翼は、女性も担ってきた。需要側と供給側、どちらにも問題があるのではないのか。

この工藤氏は、従軍慰安婦問題を軍の性犯罪と見なす一方で、基地周辺での性的搾取には軍の責任は問えないと見ているようで、興味深い。
一見、慰安婦問題へ国の責任を認める見解のようであるが、しかし考え方は、国の責任を否定する人々と同じである。すなわち、工藤氏は、慰安婦問題では狭義の強制があったが、基地周辺では広義の強制しかないと見ており、広義の強制を利潤や所得を目的とした自主的な性産業への参入と解しているわけである。こうした人は、「狭義の強制はなかった」という政府の発表によって簡単に国を免責する側に転ずるであろう。

ところで、軍の「関与」や「責任」の限界をどこに据えるかという点で、軍の関知しないところで起きていることに軍の責任はないという考え方を仮に取るにしても、どこまでを関知しない部分と見なせるかにも大きな幅がある。民間の社会経済的反応であったとしても、予見し得たことや事前の防止措置が可能であったことについては、軍にも責任を問われることはあるし、またその部分の認定には幅があるだろうからである。要するに、「それは社会が悪かったのだ」というような抽象的一般的な立論では、個々の主体の責任は問えないし、具体的・現実的な対策も打てない。確かに性的搾取を抑止するための広範な取り組みが必要であることは言うまでもないが、軍の存在を重要な媒介として性犯罪が引き起こされた場合は、その軍の存在あるいは存在のあり方自体を問題にしなければならないのもまた確かなことである。そしてその対処には、そこで誰がなぜ何をしたか(しなかったか)に分け入っていくこと、被害者の保護を最優先することがどうしても必要である。

人間を金で買えば(あるいは相手が同意すれば)その人をおもちゃにしようがすりつぶしてゴミにしようが一切問題はないとする考え方は、浅はかな契約万能主義であり、人身売買と奴隷制の肯定論者とでも言う他はないが、こういう人たちは、娼婦や貧困者、原発労働者などをも、境遇に同情はするが自分たちの謝罪や反省の対象としては捉えず、せいぜい一億総懺悔の中に回収するのだろう。


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