歴史修正主義とナショナリズムの種は誰でも持っている。
中井貴一 海外の仕事で「俺たち下劣な民族じゃないよ」と思う│NEWSポストセブン
歴史というのは、次の世代の者が塗り替えていくものだと思うんですね。たとえば、豊臣から徳川の時代に変わったときには、徳川から見て都合のいい歴史観に、変えられているはずなんです。だから、史実としてはどこが正しくてどこが正しくないのか、そのあたりのうそはかまわないと思うんです。
それから、海外で思うのは、日本って恵まれた国だということ。そして日本人って、いつの時代でも、品格を持って常に先を見て生きてきた民族じゃなかったのかな、ということです。そうだよね、おれたちって下劣な民族じゃないよ、そういう日本人の心を思い出そうぜ、って今、思いますね。皮肉な言い方で申し訳ないですが、中井さんのこれらの発言は「善良な人」の素朴さが現れた一典型みたいな気がします。
上記は二つとも、まあ論外な認識なのですが、今はこれが「いい人」的な発言として通ってしまっているように思います。
私が思うダメなところをメモしておきます。
1.史実のウソは構わないという点。
歴史でも社会現象でも、解釈に幅が出るのは当たり前ですが、何が事実であったかを追究すること無しに、それらの解釈の正当さを評価することはできませんし、異なる解釈を比較対照することもできません。歴史の学習を支配者による歴史観の押しつけにのみ単純化することは、結局、歴史そのものを軽視することに他ならないわけで、「歴史が大事」といいつつ、実は歴史を愚弄しているわけです。
2.「下劣な民族」と「日本人の心」というナショナリズムに堕ちてしまっている点。
我々の祖先の苦労や、その築き上げてきたものを誇りに思うのは構わないのですが、それを「日本人」とか「民族」とかいうあやふやな集団意識に投射してしまうところが根本的な間違いです。いつだって、どこだって、人間は様々です。立派な行いも恥ずかしい・無残な行いも同時に存在していたはず。我々の祖先の何かを批判されたことをもって存在の全否定だと思う必要はないわけです。民族浄化的な迫害や差別を受けているというわけでもない文脈で、素朴に「日本人」にアイデンティティを回収するあたりに危うさを感じます。
中井さんは「日本人は下劣な民族」だという認識が広がっていると考え、それを正さなければならないと考えているわけですが、どうしてそのように考えるようになったのか。そこには、いわゆる「自虐史観」とか「戦後民主主義の誤り」を強調する保守系の宣伝の影を落としているのではないか。自国の過ちや自国民の恥ずかしい振る舞いを告発する報道や論説を、日本と日本人という存在全体を侮辱し、否定する攻撃だと捉えるヒステリーに巻き込まれているのではないか。
海外では自らの「日本」を感じる機会は多いし、また日本のことが話題になることもあるでしょうが、そのことが、「日本っていい国だよね」的な全肯定である必要はないし、むしろ日本の多面性や複雑さを知る機会を逸してしまうことになります。個別の誤りや偏見には個別に対応すれば良いだけのことで、それが「下劣な民族」観の是正というふうに飛躍してしまうあたりがもう危ういわけです。外国の人から日本の問題点を指摘されるとつい防衛的に構えてしまう(日本批判にまず反論したくなってしまう)心情が自分にあるということの奇異さについて自省すること……自分は何に拘泥しているのかと考えること……が大切なわけです。
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