非モテはいつの時代でも常に現れ続けるだろう…という与太話
あと20年もすれば童貞のノーベル賞受賞者が現れる(はてな匿名ダイアリー)
恋愛至上主義は研究者を非モテ化し、研究に向いている遺伝子を途絶えさせる。
まあネタで書いているのが明らかだから、別に批判するつもりは全然ないのだが、この記述に触発されて、以前から気になっていたことをふと思い出したので書き付けておく。
さて、上に引用した一文のように、
「ある性質を持つ人々が子孫を持てない → その性質を司る遺伝子が途絶える」
というロジックは、ときどき見かけるが、いろいろと誤っている。
遺伝ってそんな単純な現象ではない。
ナチスがホロコーストによってユダヤ人や障害者などを絶滅し、ドイツを「優良な」純血のアーリア人だけの社会にしようとしたことは良く知られているが、仮に、彼らが計画通りユダヤ人や障害者を抹殺していったとしても、計画達成には途方もない年月がかかるであろうという試算をどこかで目にしたことがある。
簡単に言うと、二重劣性ホモのときしか発現しない形質については、発現した形質を見てスクリーニングしていると、何世代スクリーニングを繰り返しても、大してその劣性遺伝子の濃度は下がらないというのだ。
また、メンデルの法則に則したこの単純な仕組みとはちょっと異なったことを考えることもできる。例えば、その性質が複数の遺伝子の組み合わせによって現れる場合、特定の組み合わせパターンをもった個体をいくら削除しても、構成する個別の遺伝子の多様性自体には影響が及ばないため、その組み合わせパターンの出現を食い止めることはできないということがある。これは、おそらく前述のメカニズムよりも重要な要因だろう。というのは、話題に取り上げられるような性質は大抵は複雑なもので、複数の遺伝子が関与して生まれる総合的な性質だろうからである。
さらに、おそらくもっと重要なことは、その性質を成立させている形質が多義的であること、また、その性質の成立には環境条件をが無視できないことだろう。たとえば、「研究に向いている」という性質や「優秀な研究者である」という実現した業績(パフォーマンス)は、研究という活動と研究以外の活動の間で排他的に選択・発揮されるものではなく、研究・非研究を問わず共通に評価される要素を多数含んでいる。この場合、研究属性が優秀な個体をいくら抹殺しても、非研究属性が優秀な集団から次世代の優秀な研究者が出現する。
また、研究者としての能力の発揮が環境条件に依存するならば、たまたま環境に合致して優秀な研究者となった個体を取り除いても、たまたまその環境に巡り会わず研究者にはならなかった群の中には、その環境に巡り会えば優秀な研究者となる遺伝子群が保存されているので、次の世代においては、またその中から優秀な研究者が出現する可能性が残されることになる。さらに、その環境条件自体が時代によって変わってしまうことも十分考えられる。ある時代には、Aという環境条件が優秀な研究者を生むための主因であったが、次の時代にはそれがBに変化してしまえば、それまでの淘汰が意味をなさなくなってしまう。
例えば、時代によって美人やイケメンの基準が変わってしまうと、昔ならモテてモテて仕方なかったはずの顔立ちの人が、今やまったく疎んじられてしまうということがあるかもしれない。あ、それで思い出したが、以前NHKの「タイムスクープハンター」を見ていたら、戦国時代には毛深くひげを生やした男性が好まれたが、江戸時代の泰平の世になると毛を剃ってこざっぱりとした優男が好まれるようになったという話を紹介していた。ただ、余り毛深くないはずの私はなぜかさっぱりそういう類の経験をしたことがないので、毛が薄い方がモテると言ってもそれがどこまで有力なのかは疑わしい。
以上のようなことは集団遺伝学をしている人には当たり前のことだろうけれど、ホロコースト以外にも、優生学やハンセン病の悲劇――ハンセン病はそもそも遺伝病ではないので優生学の適用自体が間違っていたわけだが――などの例もあるので、案外見落とされがちなことなのではないかと思っている。
* * * * *
で、話はちょっと変わるのだが、以上の議論を踏まえると、「モテる人の方が子孫を残しやすいから、時代がどんどん進むにつれて、人類は徐々にハンサムと美人ばかりになっていく」という推論は単純すぎるということになる。だいたい、鮭や鱒の産卵のときみたいに、本来の夫たるオスがメスの卵に精子を掛けようとした瞬間に、素早く割り込んで自分も放精するような連中もいるのである。ヒトは別に体外受精で増える種ではないけれど、浮気や不義密通は古今東西の世の習いである。人間の好みが多義的である以上、たまには普段とは違ったタイプの異性と付き合ってみたいと思うことだってあるだろう。だから間男戦略には一定の有効性が存在するし、仮に皆がおしどりのように一生添い遂げるタイプであったとしても「蓼食う虫も好き好き」――人によって好みもまちまちである以上、性格やスタイルに一方向的な性淘汰圧が働くというのも考えにくいわけである。とどのつまり、人類がいかに進化しようとも、皆が一様にハンサムと美人ばかりに収斂するということは考えがたく、いつまで経ってもいろいろなタイプの男女が生み出され続けるということになる。結局この副産物として、モテないタイプや結婚できない人は、一定程度出現しつづけるであろう……という悲しい結論が見えてくるわけである。
で、ちょっと弁解がましい話になるが、そもそも結婚できるかできないかとか、モテ・非モテとか、いう文脈で、どういう性質や顔立ち、スタイルが望ましいかみたいな論点についていうと、その社会や時代において一定の緩い傾向はあるかもしれないけれど、個別事例にまで分解すると、ほとんどそれは関係なくて、ただ出会いやタイミングという(個人にとっては)偶然性としか言いようがないものに左右されるのではないかという気がしている。その偶然性を多数誘発するための機会作り、または環境整備の方がむしろ重要なのではないか。
そう考えると、今度はその場作りにおいて生まれるスクリーニング効果の問題が出てくるのだけれど、それはまた別の話。
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