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2014/10/23

見知らぬ人には何語で声を掛けるべきかという問題から思うこと

なかなか考えさせられます。

在日米国人ボビーさん「 知らない外国人に『HELLO』 を辞めましょう!」|誤訳御免Δ
→ソース:知らない外国人に『HELLO』 を辞めましょう! - YouTube

英語を解さない、英語を母語としない在日外国人が、何か声を掛けられるときには決まって「ハロー」と英語ばかり。
それにイラッとさせられるという話。

日本人が欧米人(白人ぽい人)を見たら無条件に「英語の人」と思ってしまう陥穽を突いています。
「お箸を使うの、上手ですね」と何度も言われてイラッとするという話とも。

何語を話すのか分からない相手だからこそ、最も理解される可能性が高いと思われる英語を使うんだ!
という反論に対しては、

それは分かる。でも、そうされて不快な人がいるんだから(それに英語が分からない人もいるし)、まずはそれよりも無難な現地語(この場合は日本語)で話しかけてみたらどうかな?

というお答え。一理ありますな。

外国に住んでいて、いつもいつも「ニーハオ」と声を掛けられたら腹が立つだろう?
という比喩があったけれど、これはピンと来なかった。私は特に何も思わないなあ…。まあ仕方ないよねぐらい。
そして明らかに日本語が分からないだろう欧米系の人がいるとして、「こんにちは」とか「すみません」と話しかけるのには何となく勇気がいる自分がいます。……なぜだろう。

*******
たくさん付いているコメントの中には感情的に反発しているコメントも多いし、「それはどこでも使えるルールじゃないだろう」という反論も多いです。ちょっと穿っていて面白いなと思ったのは、「なぜハローと声を掛けた人間を日本人だと思うんだ、それこそ自家撞着だろ」というもの。これはディベート的になかなか楽しい。
でも、こうした反応は建設的じゃないと思いますね。

論点としては、まず、我々のステレオタイプについて反省させられるということは大事なポイントでしょう。
いわゆるガイジン扱いの問題です。これは、我々のコンプレックス、屈折した差別感情を考えざるを得ない。
時代的背景も想起してしまう。戦前だったらドイツ語やフランス語で話しかけるインテリの方が多かったかもしれない。

もう一つは、相手を良く知らないときに我々はどのように接するべきかというマナーの問題。
会話で「いつ結婚するの?」「子どもはいつ頃生むの?」と良く聞かれてイラッとするという問題。
受験先を決めあぐねている生徒、就活苦戦中の学生に、進路の話題を振ってイラッとされるという問題。
容姿を気にしている人に、その容姿について話してしまうという問題。きれいな赤毛だねとか。

自分では全く悪気なく何気ない軽い言動、場合によっては親切心や思いやりから発する言動が、実はハラスメントや差別を内包しているかもしれないということでは、マイクロアグレッションの問題にも通じているわけです。

相手の都合を考えすぎたら何もできなくなる!窮屈すぎる!被害者・弱者面した逆差別だ!
という反発は分からなくもないですが、現実的にはどこかで妥協線を引かないといけないわけだし、自分の無意識・盲点が、場合によっては人を傷つけているんだということに気付くこと自体はとても積極的な意義があることだし、その盲点を生み出している意識の構造が何かを考えることは他の差別問題にも繋がることでもあります。

国や民族、文化、アイデンティティというものは本当に厄介なものだけど、多文化共生の問題は今後避けて通れないし、個々人の意識の問題でもあるわけで、こういう問題提起は、それに対する自分の違和感、反発も含めて、自省するよいきっかけだと捉える方がいいと思うのです、精神的な健康のためにも。

…それにしても、自分なりにもうまくまとまりませんな、まだ…。とりあえず母語や現地語(日本語)で話しかけることが無難なのかなあ。

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