とりあえず積ん読。
以下のリンク間にはとくに関連はない。
キーワードの一つとして→「ノイラートの船」→参考:NEURATH'S BOAT
こちらによれば、このたとえは、Anti-Spengler という論文?にあるそうなのだが、邦訳はなさそう?
Amazon.co.jp: Otto Neurath: Empiricism and Sociology (Vienna Circle Collection): M. Neurath, Robert S. Cohen: 洋書
ただ、オットー・ノイラート - Wikipedia によれば、これは abridged translation だという。
問いとしての“正しさ”: 法哲学の挑戦 - 嶋津格 - Google ブックス
研究会の報告レジュメらしい書評。
神戸大学大学院法学研究科 安藤 馨「嶋津格『問いとしての〈正しさ〉:法哲学の挑戦』へのコメント」2011 年 12 月 17 日 @ 東京法哲学研究会
清水正義「記憶と歴史学についての断章」
ヴィダル=ナケ、歴史研究における「記憶」の取り扱いについての論考。ご自身のサイトから。
なお清水氏は白鴎大学教授で、ドイツ現代史がご専攻かな。→白鴎大学|学部・大学院|法学部|教員紹介|教員紹介 法学部専任教員|教員紹介詳細
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いかに自分の思考がナイーブなものかを痛感する。
清水氏のエッセイは2002年に書かれていて、10年以上経っているのに日本の歴史修正主義を巡る状況は状況はあまり変わっていない、というかむしろ悪化しているようにも思えて、氏がここで提示された問題群は今もなお重要な視角を与えてくれるように感じる。しかし、実際には歴史研究者の人々は遥かこの先を行っているのだろう。その到達点を垣間見てみたいものだと思う。
ところで、歴史と「記憶」の利用という点では、地域振興の世界においてはこれはもう目を覆わんばかりの状況であって、そういう意味ではどう言えばいいか、まさに善良にして真摯な努力をもって喜んで悪魔に魂を売り渡しているわけである。
そういう危うさといかがわしさを私にはっきりと気付かせてくれたのは、数人の歴史学者との対話であった。地域振興を主題にした集まりに彼らが示した明らかな違和感は、私に大いに冷や汗をかかせた。
町の歴史を資源化する取り組みは今や全国に広がっていて、それはフィールドワークやワークショップとして学校教育や生涯教育の中にも広く取り入れられている。地域振興と住民啓発に対して主体的な関与を目指す立場にとって、これはまさに「記憶」を創造し浸透させる行為に他ならない。この行為の持つ意味を未だに私は計りかねている。
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