「リテラシーとはやる気のこと」という話から思い出して脱線する話
インターネットはテレビをこえられないか または格差を生むか - 意味をあたえる
なんだかユーモア系のエッセイに似ていて話の運び方や目の付け所が面白いのだけれど、それはこの人のパーソナリティからにじんでくる部分でもあるのかなあ。
リテラシー、とは言い換えればやる気のことで、私はそんな風に考えたから、タイトルのようにインターネットは格差を生むのか、と思った。インターネットはやる気のある人、根気のある人はどんどん貴重な情報を手にすることができる。ある意味ではフェアな世界だ。一方テレビはチャンネルを合わせるという最低限の動作で、みんな同じ情報を手に入れることができる。平等である。フェアと平等の言葉の違いを説明するのに、インターネットとテレビを用いると、わかりやすいことがわかった。私はどうしても頭が固く、きまじめで定型的な考え方しかできないからユニークなコメントができないのだけれど、これを読んで思い出したのが先日乗ったLCCの飛行機のことだ。
関西空港のLCCターミナルは、何という名前か、飛行機の搭乗口に直結する通路がない。だから乗客は歩いて飛行機の足下まで行き、階段のタラップを登って搭乗しないといけない。関西空港で飛行機を降りるときはタラップを降りなければならない。エスカレーターも昇降機もないので、足の弱い人や車いすの人は大変である。というか、乗れるのだろうか。たぶん乗れない。
それに、LCCの機内は著しく狭く、日本人の標準的体型を持っている私ですら、シートに座ると膝が前のシートの背もたれにつっかえる。足を組むことも、ましてや組み替えることなど非常に苦しい。一旦シートに座ってしまうと、上着を脱ぐために腕を回したり伸ばしたりするのもできない。とにかく飛んでいる間はパソコンを開くことはおろか、ノートに書き物をするのも狭くてできないので、私はこのLCCに乗るときはいつも四六判より小さい本を読むか寝ることに決めている。
普通の航空会社だと「エコノミー」というランクがあるが、このLCCのチケットを見たら「ノンリクライニング」と書いてあった。つまり、背もたれを倒せない、倒してはならないという意味だろう。要するに、乗客は会社が決めた姿勢を維持して、文字通りすし詰めにされたまま運ばれるという、積み荷的な扱いをうけているわけである。
余談だけど、この会社のコスト意識、というか乗客を積み荷扱いする意識はしっかりしていて、搭乗時のアナウンスでいつも言われることがなかなかマッチョだ。
・通路で立ち止まるな。時間の無駄だ。
・頭の上の荷物入れはあまり使うな。足下に入れろ。
・シートベルトの締め具合が見えるようにしておけ。時間をかけさせるな。
・他に空席があっても動くな。お前らの体重も考えて配置を決めている。そのバランスが崩れる。
・乗務員の安全ガイダンスを見ろ。このちょっとの間もちゃんと注視できない奴はクズだ。
・上着やコートは膝に置け。毛布は用意してない。上着の方が温度調整に効果的だからな。
などと事細かく注意される。特に私が好きなのは「毛布はない」という下りで、ケチりたい気持ちを糊塗する姑息さが垣間見えて、LCCを利用してしまう自分のさもしさを無理矢理味わわせてもらっているような気持ちになる。
話を元に戻すと、この窮屈な姿勢を1時間や数時間続けるのは、一応健常な成人である私ですらかなり苦痛なことで、だから何とかやり過ごすために寝てしまうのだが、これが身体に障害があったりどこか痛みを抱えている人だとどれほど大変だろうかと思う。要するにこの飛行機は、足の悪い人や体に困難を抱えた人は利用しづらいバリアフルな乗り物になっている。
LCCは安いから、乗る側は出費を節約できる、つまり生活の経済効率を上げて、その分を他の有意義な支出や貯蓄に回すことができる。それに低所得の人でも飛行機を使って行動範囲を広げることができる。そういう意味で、確かにLCCは社会が豊かになっていく流れの一つの表れである。LCCがどうしてこういう低運賃を実現できているかというと、上に述べてきたように、一つの飛行機に乗せる乗客の数を増やし、飛行機を休みなく飛ばして回転率を上げて、というふうに経営効率を上げているからだ。「運ぶ」という機能に専念して、それ以外の要素、例えば乗客のくつろぎや快適さなどという部分は大胆に切り捨てるというやり方を取ることで、コストの切り詰めを実現しているわけである。
それが上に述べたような不便さや窮屈さにつながっているのだが、それが何を生んでいるかというと、このバリアを乗り越えられる人、つまりこの会社が決めた規格に適合する人だけがこの低運賃を享受できるという状況である。たぶん、足の悪い老人や身体障害者でこのバリアを越えられない人は多いだろうが、彼らの多くはまた低所得者でもあるだろうから、せっかくの低運賃でようやく移動の自由を広げる機会が生まれたのに、それを利用することができない。逆にバリアフリーな飛行機に乗るためには従来通り高い運賃を支払わなくてはならないが、今度は経済的にそれが難しい。ここにジレンマがあるわけである。
興味深いのは、LCCの低運賃がこうした弱者切り捨て(弱者を包含するサービスのカット)で実現しているということだ。会社側がサービスや機能を細かく切り分けてモジュール化し、個別のオプションメニューとして料金設定することで、お客の側では、自分の必要な部分だけを選べば無駄なサービスなどに余計なお金を払わなくてすむ。サービスを顧客自らがカスタマイズできるので、顧客一人一人の満足も高めることができる。そういうシステムになると、苦痛に耐えられる人、余裕のある人ほど、サービスを削り込んで低料金を実現できる。そしてそういう苦痛に耐えられる人、余裕のある人は、往々にして仕事もできて社会的・経済的に成功する力を持った人である。そうすると、所得を稼げる人、経済的にゆとりを持てる人は、支出面でも効率的に生活でき、ますます豊かな人生を送れる一方、苦痛に耐えられない人、余裕のない人は、稼ぐ力も弱い一方で、余計なサービスや機能に支出をしなければならず、ますます厳しい状況に置かれる。これは、経済効率を高め、お客の選択の幅を広げるという本来なら豊かさの拡大であることが、実は豊かさや富を一方に偏らせ、格差を広げる働きをしていることになるのではないか。これに類することは、いわゆる新保守主義的な考え方と規制緩和論の浸透、例えば現実には郵政民営化の時にユニバーサルサービスの廃止という問題として、あるいは今ならコンパクトシティと集住化という問題として、現れている。LCCの参入問題も、確かにそういう規制緩和路線の一環として現れてきたものだった。
先日LCCに乗りながら、そのようなことをつらつらと考えていたのだった。とにかく、身じろぎもできないほど狭いシートに押し込められて、ろくに本を広げることもできず、ただ寝るか沈思黙考するしかなかったので、そうするしかなかったのである。
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