パリ新聞社銃撃事件の関係で、リンクメモ。
追記(2015年1月12日)見つけた他の記事などをリンク、若干整理した。
当然だがフランス語でのいろいろな記事や風刺画に突き当たる。ところがフランス語が読めないんだよなあ…。
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シャルリー・エブドはレイシストではない(ルモンド紙の記事の翻訳) - ふつごぽんTMBL
上記に対するはてぶの反応→はてなブックマーク - シャルリー・エブドはレイシストではない(ルモンド紙の記事の翻訳) - ふつごぽんTMBL
形式的な表現と言論の自由を主張することは、マジョリティの無自覚な差別を体現しているという指摘が多い。
マジョリティによる抑圧と言葉を放置して非抑圧者の抵抗をのみ指弾するのは公平ではないという指摘。
フランスにおける移民差別の問題と、在仏2世3世のアイデンティティとしてのイスラム問題を指摘するもの。
【イスラム・パリ銃乱射】"Je suis charlie”を掲げることは卑怯な行為だ(はてな匿名ダイアリー)
こちらのトラックバックも要参照。著者自体の追記も。
こちらで紹介されている次のtweetは重い提起を含んでいる。
Dyab Abou JahjahさんはTwitterを使っています: "I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so. #JesuisAhmed"
上記ダイアリーへのコメント。マジョリティの特権としての風刺の自由、暴力の非対称な構造を無視した対称性の要求、マイノリティのみに要求される説明責任など。
少し話が違うけれど、年末にネタのような話題があって、日本のケンタッキ..
上記のはてな匿名ダイアリーに対する批判。フランス語の解釈と、フランス社会における言論の受け止め状況を指摘。
"Je suis Charlie"を「私はシャルリーだ」と(だけ)解釈するのは変(追記あり) - みやきち日記
先日触れたこちらのリンクを再掲。
風刺週刊紙銃撃を非難=安倍首相*安倍晋三首相は8日午前、フラ... - Yahoo!知恵袋
いよいよもって「シャルリー・エブド」の内容、そのフランス社会における文脈を直接参照しなければ評価が難しくなってきた感じ。
他の社会に住む無知な人間が簡単に評論したり分かった気になったりすることができない問題だと思うけれど、ただ、人命は奪われてはならないということだけは考えておきたい。「殺さなければ、この加害を止めさせることができない」という状況下でもそう言えるのか?という問いに対しては、「一般的には論じられない」と言う以外、返す言葉を持ってはいないのだけれど。
イスラム圏での本件の取り扱い状況について、断片的な紹介。
「アラブ諸国の各新聞紙によるフランステロの風刺イラストが話題に」海外の反応|暇は無味無臭の劇薬
言論を暴力で封じることはその暴力が守ろうとしたもの自体を破壊する。そういう感じのメッセージを感じるイラスト群。
コメント群についてもかなりたくさん日本語訳している。イスラム圏の多様性、「アラブ」がヨーロッパにも多く存在することなど。
記事主が本件について結構考えているのかもしれない。
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土井敏邦Webコラム:日々の雑感 325:「表現の自由」に名を借りた“暴力”(フランス「シャルリー・エブド」襲撃事件)
しかしこの事件に関する世界中のメディア、為政者たち、そして「識者」たちの「言論の自由を守れ!」論調の嵐に、私は事件当初からずっと違和感を抱き続けている。それは今回の事件の発端となった新聞社「シャルリー・エブド」の「表現」への疑問である。事件を糾弾する声が世界中で高まる一方、「なぜその『表現』は攻撃されたのか」という疑問を深く分析し考察する報道がほとんど見当たらないからだ。いやあるのかも知れないが、「言論の自由を守れ!」の声にかき消されてしまって聞こえないのだ。「もしかしたら、欧米や日本の報道の中で、それは意図的に避けられているのでは……」といぶかってしまうほどだ。言うまでもなく、襲撃犯たちの残忍な殺害は、許せないし糾弾されなければならない。それは大前提だ。その上で、私には、どうしても消せない疑問が残るのだ。そして世界中に「言論の自由を守れ!」の声が大きくなるにつれ、私の疑問は次第に増幅していく。それはあの「シャルリー・エブド」の「表現」は、ほんとうに「守れ!」と叫ぶべき「言論」だったのかという疑問である。私は、「朝鮮人を殺せ!」と公然と叫ぶ「在特会」(在日特権を許さない市民の会)が、それを非難する声に「表現の自由だ」と反論する姿を思い起こしてしまうのである。
上記の土井氏が引用・紹介している高林氏の指摘がこちら。土井氏の記事でも読めますが、私なりに抜粋しておきます。
(2) 高林 敏之 - 1月7日にフランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」の事務所が襲撃され多数の死傷者が出た事件。この新聞社は諷刺画が売り...
高林氏が指摘する問題の風刺画はこちら。その下の引用は高林氏の論評。確かに絵そのものは非常に攻撃的な印象を受ける。
France Satirical Mag Charlie Hebdo Sued by Islamists for 'Blasphemy'
左は「エジプトの殺戮:クルアーン、それは糞」と表題に掲げ、敬虔なイスラーム教徒の姿の男性がクルアーンを盾にするも銃弾で打ち抜かれる絵に「それは銃弾を食い止めない」と記している。
この絵を表紙にした号は2013年7月に発行されている。つまりエジプトでシーシー将軍らがクーデタを起こしてムスリム同胞団系のモルシー政権を打倒、これに対するムスリム同胞団系の抗議運動が武力により一掃された時期に発行されたものだ。この絵はイスラーム教の聖典を最悪の表現で侮辱するとともに、弾圧の犠牲となったムスリム同胞団支持者の死を悼むどころか、その信仰・信念を揶揄するものとしか受け取れない、極めて挑発的な内容である。
この諷刺画をめぐって、在仏ムスリム団体が昨年、裁判所に告発するなど物議を醸したものである。
Charlie Hebdo: Oops I did it again! | Eurobeats
右は2012年9月の号に掲載され、やはり物議を醸したもの。「マホメット:星が生まれる」とあるが、これまたムスリムが信奉する預言者に対する下品極まりない侮辱である。
charlie hebdoを検索すると多数の諷刺画の画像を見ることができるのだが、諷刺対象は幅広く、必ずしもムスリムだけをターゲットにしているわけではない。 しかし、それにしてもこれは酷すぎる。ムスリムにとって精神的拠り所であり身命にも等しい聖典と預言者に対する最大級の侮辱であり、ヘイトスピーチ、イスラーモフォビアそのものだ。しかも、何度批判されても繰り返し同種の絵を掲載するのだから、明らかに確信的に挑発しているのだ。騒ぎになるたびに「表現の自由」だと擁護してくれる者たちが多く、新聞自体も注目を集めると踏んでいるから、こういう挑発を平然とできるわけである。 (中略) かつて物議を醸した、ムハンマド(マホメット)をテロリストに例えたデンマークの諷刺画事件もそうだったが、欧州ではイスラーモフォビアが「表現の自由」「言論の自由」の名のもとに擁護され野放しにされる傾向が日増しに強まっているばかりか、イスラーモフォビアを公然と掲げる右翼政党が議会で大きく躍進する例すら増えている。 キリスト教国が「神の福音」の名のもとにアメリカ大陸、アフリカ、アジアへの侵略・植民地化を進めた歴史があるからといって、例えばイラク戦争やアフガニスタン戦争の諷刺としてイエス・キリストを殺人者に例える諷刺画が作られたとしたら(実際、イエスが殺人者なのではない)、あるいはイエスが全裸で尻を突きだしている絵が描かれたとしたら、はたまた「聖書は糞」などと呼ばれたとしたら、キリスト教徒はそれを「表現の自由」だといって擁護できるのだろうか? 自らの問題に置き換えて想像することが必要ではないのだろうか(われら日本人も然り)。 「言論へのテロの問題」として単純化せず、欧州にはびこる(そして日本にも影響を与えつつある)「イスラーモフォビアの問題」として、この事件を真摯にとらえるべきだ。高林氏のコメント
高林 敏之 木村さん:おっしゃる通り、暴力ではなく議論で批判はなされるべきです。しかし植民地宗主国だったフランス社会では、多数派の価値規範に基づく議論がそのままマイノリティに対する「言論の暴力」になり得ます。この権力関係を自覚できないから、こういうイスラーモフォビアが罷り通ることになるわけです。
高林 敏之 - 死者に鞭打つのも何だとは思うが、あんなイスラーモフォビアに満ちた諷刺画を繰り返し掲載してきた人物を「タブーに果敢に挑も...
死者に鞭打つのも何だとは思うが、あんなイスラーモフォビアに満ちた諷刺画を繰り返し掲載してきた人物を「タブーに果敢に挑もうとする姿勢」だと評価するのなら、在特会前会長の桜井誠だって「在日特権」なる「タブーに果敢に挑んだ」と賞賛されてしまうことになる。敵意を煽る悪質な煽動者だというのが公平な見方だろう。
フランスでは10万人もの人々が「表現の自由を」と抗議デモをしたという。非道なテロの帰結とはいえ、イスラームに対するヘイトスピーチの自由を10万人もの人々が公然と要求したと思うと、目眩がしそうだ。
板挟みの立場に置かれたフランス在住ムスリムらの恐怖はいかばかりだろうか?
「拉致」「核実験」「ミサイル発射」を行う「北朝鮮」は許せないとの世論に乗っかって、在日朝鮮人や朝鮮学校に向けられた激しいバッシングと、まさしく相似形というべき現象だ。
東京新聞:犠牲の編集長 挑発姿勢の画家 賛否も:国際(TOKYO Web)(2015年1月8日 夕刊)
「シャルブ」という愛称で呼ばれていたシャルボニエ氏は二〇〇九年から同紙の編集長に。一一年十一月には火炎瓶を投げ込まれ編集部が全焼したものの、一年もたたない一二年九月にはフランス政府の自粛要請を振り切ってイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画掲載に踏み切る。
シャルボニエ氏を古くから知る人物はフランスのメディアに「非礼であるということにおいて、彼には限界がなかった。何も恐れるものがなく、時としてブレーキが必要なほどだった」と振り返った。
タブーに果敢に挑もうとするそうした姿勢に、言論の自由を体現する存在とみて称賛の声があった一方、不必要に敵意をあおっているとの批判も出ていた。
土井氏の指摘の中からいくつかを抜粋。
「朝日新聞」の冨永格・特別編集員は1月9日朝刊に「フランスのカリカチュール(風刺)は、17世紀の喜劇作家モリエール以来の伝統といえる。19世紀以降は活字メディアを中心に、常に文化の一角を占めてきた」と書き、パリ大学の教授に「風刺はフランス大衆に受け入れられてきた。あらゆる権力や不寛容と闘い、表現の自由の限界に挑み続けてきたジャーナリズムなのだ」と語らせている。この記事の魚拓→(cache) 極右・カトリックも風刺の的 奔放な漫画、仏の伝統:朝日新聞デジタルパリ=特別編集委員・冨永格2015年1月9日09時44分
・「一般受けするメディアではないが、奔放な姿勢はフランス社会でおおむね支持されてきた。」
・犯行の背景や容疑者の素性はさておき、仏社会は表現の自由を譲らない一点で結束している。」
※「犯行の背景や容疑者の素性はさておき」というエクスキューズが気になる。
・「他方、同性愛者やマイノリティーへの差別や憎悪をあおる表現は法律が禁じている。一般的な宗教批判と、信者への侮辱を分ける考えが定着しつつある。」
※宗教への「批判」と信者への「侮辱」を分ける……この線引きは難しいと思うのだが。
イスラムへの憎悪を煽る口実にされるという点で。イスラエルのネタニヤフ首相の発言
「急進的なイスラム教徒による攻撃には国境などない。テロリストは私たちの自由と文明を破壊したがっている」
「ISIS(イスラム国)とハマスは同じ狂信者たちだ。ハマスはISIS(イスラム国)。ISIS(イスラム国)はハマス。(ハマスを擁護する)国連人権理事会はテロリスト理事会となった」
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