「とりあえず厄介ごとを避けたい」という私たちの姿勢が抑圧を生んでいるという話
当事者の一方からの伝聞情報という形なので留保は必要ですが、この種の萎縮って実は我々の社会の根深い問題なのではないかと思ったのでメモ。
「境界のないセカイ」マンガボックス連載終了のお知らせ: 幾屋大黒堂Web支店 @SakuraBlog(2015年03月15日)
講談社さんが危惧した部分は作中で"男女の性にもとづく役割を強調している"部分で、「男は男らしく女は女らしくするべき」というメッセージが断定的に読み取れることだと伺っています。ここで説明されている経緯は、
(私への窓口はマンガボックスさんの担当編集氏なので、伝聞になっています)
これに対して起こるかもしれない性的マイノリティの個人・団体からのクレームを回避したい、とのことでした。
1.マンガ単行本を出す予定で作業が進んでいた。
2.その出版社が出版取りやめを決定。
3.その理由の一つが上記、「クレームを回避したい」ということだった。
ということです。
この方の抱えた問題から逸脱しますが、以下、思いついたことをメモします。
事の是非・善悪は別にして、とにかくクレームが来そうなことにはタッチしない、たとえ、そのクレームの内容が全く正当ではなくても、とにかくクレームが来るという事態そのものを回避したい。
こういう姿勢がすごく強い、ある意味、クレーム・アレルギーとでも言える拒絶反応は、学校や役所と関係するとしばしば実感します。
何かを提案すると、
1.まず「クレームが来ないか」を警戒
2.クレームを極力出づらくなるように内容を変えさせる
3.万一クレームが来たら逃げられる工夫(典型的なのはクレーム対応と責任との回避)を要求
という三つのハードルを(提案内容の善し悪しとはまた別に)越えなければならない。
そういう経験を何回かしました。
企業さんと仕事をしてもやっぱりそういうことはよくあるし、そもそも組織内でもここをクリアするのが大変なことがあります。
……まあ、こういう「クレームを理由にした拒否」は得てして「取って付けた理由」にすぎなくて、本当は別の理由で「やりたくない」ということも、しばしばあるんですけどね。
で、一度、そういう警戒モードになっちゃうと、正面からの説明や説得では事態はなかなか動かないですね。
「クレームなど来ませんよ」といくら言葉を尽くしても、クレームへの不安がもう頭にあるので、
「絶対ないとは言い切れない」「世間には予測不能な変人がいる」という部分でアウトになってしまいます。
ある種、「安心安全」とか「防犯」とかをすごく気にする人たちが不審者を強く警戒する感覚と似ているのじゃないかと思います。
上記の事例では、誤読によるクレームであっても出版社は逃げるということで、
「私(我々)もクレームの主張は間違っていると思うが、クレームにまつわるトラブルは避けたいので」
という、私もしばしば直面するモードを思い出しました。
こういうタイプの拒否を受けると、腹が立つやら情けないやら、そのくせ交渉や調整、妥協はほとんど不可能というわけで、社会の抑圧に負けたみたいな気がして、なんだか屈辱すら感じます。その都度、もっとしたたかにならないと、と提案を練り直したり別の方向から攻めてみたりということになるわけですが。
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別の方面から考えてみると、こういう「クレームの主張に同調しないが、トラブル回避のために」というパターンって、とても深刻な問題です。
例えば、もと朝日新聞記者の植村さんをクビにしろ、と北海学園大学に脅迫が続いた事件。
クビにしないと事件を起こすぞ、学生や職員を襲うぞ、というタイプの脅迫がたくさんあったわけです。
要求が不当なことは誰もが認めていたにもかかわらず、大学当局は非常に苦悩して、一度は脅迫に屈しかけるところまで行きました。「学生が襲われるリスクを冒せない、学生を守るのが最優先」ということが理由でした。
こういう点で、「クレームがありそうだから止める」というのは、脅迫、嫌がらせ、テロリズムに屈してもいいのかという問題と同種の課題を抱えています。
この課題の難しさの一つは、社会性を持つ問題について、弱点を持つ組織・個人に負担がかかるという点です。
そしてもう一つの深刻な問題は、クレームや異議申し立てという意思表示・行動全体への嫌悪感が広がることです。
例えば、上記の記事へ「プロ市民」という言葉でクレームを批判するコメントが付いています。
しかし自治会にせよ、学校にせよ、役所にせよ、提案や要求やを真面目に実現しようとしたら、行政手続きや政治過程に詳しくなるのは当然なので、そもそも「プロ市民」という言い方自体が意味をなさないわけですが、とにかく、不当な要求を強圧的に通そうとすることで飯を食う連中、というような嫌悪感が表明されているわけです。
実際、役所や公共機関に行くとしばしば、そして民間企業でも時折、「集団で押しかけるな」とか「敷地内で宣伝するな」などの文言を見ることがあります。こうしたことは、「クレームを付けるにも正しい方法がある」という意識が社会的に成立していることを示しています。つまり、クレームの作法が間違っていると、それはクレームの内容がどれほど正しく価値があっても考慮対象外とすべきだという考え方が社会にあるということです。
ところが、このクレームの作法の線引きが実ははなはだ曖昧で、人によって異なるばかりか、実は問題の領域やクレームの内容とによってその基準が大きく変わるようなところがあるわけです。要するにご都合主義になりやすい。
しかももっと面倒なのは、自分が考える妥当な作法の基準を逸脱したクレームをニュースなどで見て、「ああ、○○を主張するのはクレーマーだ、プロ市民だ」と、内容と作法を結びつけて切断処理を行ってしまうケースが少なくないようだ、というところです。
実は、「正しい異議申立の方法」があるかというのは結構難しい問題です。
長崎市長に銃弾を送りつけたりするのが論外なのは当然としても、正当な窓口も言論も事実上機能しない場合や暴力的に抑圧されている場合にも、穏健な方法でしかクレームを認めないと言えるのか。もしそうなら、百姓一揆や人民蜂起、植民地での独立運動、パルチザン、公民権運動などはほぼ不可能だったでしょう。部落解放同盟の闘争はその方法でいろいろな批判がありますが、しかし全国水平社からの強い運動がなければ曲がりなりにも今日の生活水準は得られなかったのではないか。そして、公害反対などの住民運動が当初役所でも門前払いで相手にされず集団交渉や示威運動へ発展したこと、各国の労働運動が激しい闘争を経て団結権や争議権、団体交渉権を勝ち取ったことを考えると、「良いクレームの付け方」の範囲内なら認めても良いという考え方には、結局、現在の体制からはみ出すものを排除する危険が潜んでいることが分かります。
しかし、ではどんな方法でも良いのかというとそうではないわけで、ここをどう考えるのかは結構難しいわけです。
そして、この線引きが、実は相当に自己(組織)防衛的、言い換えるとクレーム内容への是非判断を避けて作法問題に逃げるという反応が、私たちの社会の一つの特徴ではないかな?というふうに感じています。
中途半端ですが擱筆。
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