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2015/07/19

少なくとも形式的にはまったく問題ない。

凶悪殺人犯がのうのうと大学生活だと! と吹き上がる人が多そうな件。

ノルウェー 77人殺害の受刑者が大学入学へ NHKニュース(7月18日 7時42分)

4年前、ノルウェーで銃を乱射するなどして77人を殺害した罪で実刑判決を受けた受刑者が、このほど大学への入学を認められ、今後、議論を呼びそうです。
ノルウェーでは4年前、極右的な思想を持つ男が首都オスロで爆弾テロを起こしたうえ、郊外の島で銃を乱射するなどして合わせて77人を殺害しました。
この事件で現地の裁判所は、今後も重大な犯罪を繰り返すおそれがあると裁判所が認めるかぎり、拘束を続けることができるとする判決を、アンネシュ・ブライビーク受刑者に言い渡しました。
ブライビーク受刑者は現在、服役中ですが、首都にあるオスロ大学はブライビーク受刑者から申請を受けて審査を行った結果、入学を認めたことを17日明らかにしました。
来月から服役先で政治学を学ぶということです。
オスロ大学はブライビーク受刑者が2年前に申請した際には入学を認めなかったということですが、今回は認めた理由について、オスロ大学の学長は自身のブログで「ノルウェーでは必要な条件を満たせば、受刑者も高等教育を受ける権利がある」と説明しています。
一方で学長は「大学には事件で友人や家族を失った学生もいて、倫理的に難しい問題だ」と述べているほか、事件の遺族も反発していて、ノルウェー史上、最悪とされるテロ事件の受刑者の入学を認めた大学の決定は今後、議論を呼びそうです。
更生が進んで大学進学できたのかと思ったのだけど、刑は執行中で刑務所に拘束されたまま受講することになるようだ。通信教育制度があるのかな?
「ノルウェーでは必要な条件を満たせば、受刑者も高等教育を受ける権利がある」
というのは全くすばらしい説明で、これが当然でなければならないし、ましてや学問の府がこれを守らないで何とするかというようなものだし、これで説明は十分だ。

もちろん処罰感情からすれば加害者が人並みの権利を享受することが許せないという気持ちは分かる。さらに被害者とその関係者からすれば大きな苦痛であることも容易に想像できる。実際オスロ大学の学長は「倫理的に難しい問題だ」と言っているし、ノルウェー社会でも大きな反発があるようだ。

しかし、学校というところは、どんな人間であれその人の発達・成長と人格形成の可能性は閉ざされていないという信念に支えられる存在だ。いかなる人であろうと学びによって変わりうるし、過去にどんな行いをした人であろうとも、またたとえ瀕死の人であろうとも、その人がよりよい人生を送ろうとする権利があるというのが教育や学問の良心の根幹だ。そして自ら成長を望む人であれば、いかなる人であろうともその努力を支え、実現に導くことが教育・学校の使命だというのが学校の最も基礎的な自己規定であり、教育者の職業倫理なのである。
だからこの受刑者が入学を志望してきたなら、彼への社会的な感情がどうあれ、規定の手続きに従って通常通り取り扱わなければならない。これは学校の存在意義にかかわることだからだ。教育者の見地からすれば、すべての人は教育を受ける権利があり、それはいかなる理由においても制限されるべきではない。そして教育は彼が更生し贖罪への意思を持って社会が受容できるようになるための大切な措置のひとつだと信じるわけである。そして彼を大学に受け入れることの社会的な重さを自ら引き受ける覚悟があるということもまた、オスロ大学は示したわけである。これは大学としての矜持を守ったといえるだろう。

翻って、自分が今所属している企業や地域社会で同じ問題に直面したらどういう判断を下せるかを考えてみると、そこでは非常に難しい課題があることに気づく。何よりもまず、組織内の人たちの「殺人鬼に人権などない」という処罰感情と対峙せねばならない。自分はほぼ確実に絶対少数であり、ほぼすべての人の反発を覚悟せねばならない。次に事なかれ主義との対決である。「我々はこんな人を教育できない」「こんな人格破綻者を受け入れてもし何かあったらどうするのか」「彼が仮に卒業できたとしても卒業後に彼がまた事件を起こしたら我々の組織に傷がつく」「異常者を卒業させた責任を問われる」「世間の笑いものだ」等々の問題提起を乗り越えなければならない。そしてさらには社会からのさまざまな圧力に耐える覚悟を組織全体で共有し、首脳部としては組織構成員を守る手立てを考えなければならない。
今回のケースでは、本人が服役中で実際に大学に来ることはあまりないようだからまだ少し問題が軽いが、実際に通学するケースであれば「何かあるかもしれない」という周囲の人たちの恐れに配慮して各部局が連携しあうような体制を準備しなければならないだろうし、メンタルケアや精神福祉関係の部局にも協力を仰いで刑務所との連携を密にする体制が求められるだろう。こうした対応をすべて誰が責任を持ってやれるのか、誰が皆から協力を取り付けられるのかという話になると、途方もなく問題が大きくなって「結局無理だろう」となってしまうだろう。
こうして信念や倫理は「現実」という名の社会的圧力に押しつぶされ、世の中の「分かりやすい」風潮に流されていくわけである。

今回オスロ大学でどんな議論があったかは分からない。2年前には入学申請を認めなかったということだから、内部ではかなり厳しい議論があったのかもしれない。前回は門前払いできたけれども今回は受刑者側の巧みな手続き戦術に引っかかって入学を認めざるを得ないところに追い込まれたのかもしれない。しかしながらそれでもなお最終的にこうした決定を下せたことをまずは評価したい。もちろんノルウェー社会の事情が分からない以上、この判断が果たして妥当であるのかは分からない。それにこれはノルウェー社会の問題であって日本に暮らす私の問題ではない以上、彼らの議論を軽々に評価できるようなものではない。けれども、今回の大学の決定には私たちが決してゆるがせにしてはならない重要な価値が含まれていることは軽視してはならないと思うものである。


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