加害経験がもたらすトラウマ
(戦後70年)封印された「戦争神経症」:朝日新聞デジタル(2015年8月18日04時56分)
包括的で考えるきっかけをもらえる良い記事。
日本軍では精神疾患にかかった傷兵はいないことになっていたという話。
だからその療養も正面から対応することはなかったという。
東京新聞:元兵員 残虐行為の悪夢 戦後70年 消えぬ心の傷:社会(TOKYO Web)(2015年8月28日 朝刊)(魚拓)
旧軍人ら精神療養、今も九州で6人 70年以上にわたって入院も (西日本新聞) - Yahoo!ニュース(8月11日(火)9時30分配信)(魚拓)
心の傷は生涯癒えず、70年以上にわたって入院し続けている人がいる。
戦後70年:豊富な資料で「戦時下の小田原」を特集 箱根療養所も紹介 市郷土文化館で展示 /神奈川 - 毎日新聞(2015年08月08日 地方版)
こちらは身体の戦傷病者の療養所だったらしいが、精神を病んだ人は入っていたのだろうか。
ストーリー:日赤救護班「熊本第六六八」(その1) 語られた戦時の看護 - 毎日新聞(2015年08月02日 東京朝刊)
ストーリー:日赤救護班「熊本第六六八」(その2止) 染めた看護服 - 毎日新聞(2015年08月02日 東京朝刊)
ここでも日本軍が精神障害の存在を認めようとしなかったという話が出てくる。
元海軍軍医が「皇軍に頭のおかしいものなどいないという信念の時代」だったと回顧している。
ただ、佐賀県の嬉野海軍病院には精神病棟があったという。だから実際には精神障害に対応せざるを得なかったのだが、その存在を隠蔽したということなのだろう。
そしてここでも戦時の事実確認が壁にぶつかっている。「終戦時、機密文書、その他重要書類は全部焼却せよとの海軍省の命により、大事なものは何も残っておりません」という。
証拠書類を隠蔽したり廃棄したりするのは今の役所や企業でもよくやることだが、この膨大な悲劇を生んだ戦争指導者たちは、今もその隠蔽を恥じてはいないらしい。
占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102 : まとめ読み「NEWS通」 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2015年08月11日 05時20分)(魚拓)
戦犯を守るために書類を焼かせたというのだが、
・これによって多くの史実が分からなくなり、今もなお歴史が伝説の域を超えず、日本の歴史観が混乱し続けている。
・多くの戦犯が裁きから逃げられた一方で、補償を受けるべき人たちが補償を受けられなくなってしまった。
・本来、責められないで良かった人たちが汚名を着せられたままになってしまった。
という副作用については、全く彼は罪の意識すらないようだ。
まあ、奥野氏は中曽根氏よりさらに過激なトンデモ右翼だからいかにも彼らしい。
ところで、産経にこの読売と類似のインタビュー記事が出ている。
戦中派から君たちへ 元法相・奥野誠亮さん、正しい歴史受け継いで (産経新聞) - Yahoo!ニュース(8月18日(火)14時49分配信)(魚拓)
奥野氏がもはや同じことしか言えなくなっているのか、それとも産経が読売のコピーをやったのか。あるいは読売・産経の合同インタビューだったのだろうか(苦笑)。
閑話休題。
上の朝日新聞記事によれば、加害がトラウマになるきっかけの一つは、自分が残虐行為をした相手が自分と同じ人間だということに気づくことだという。
日本軍は、自軍招聘には戦争神経症患者がいないと誇示していたが、実際には2000名?以上の患者がいて、病院に収容されていた。終戦時に関係書類を償却するように命令されたが、病院長の諏訪氏は密かに書類を隠し保存した。戦後20年の折りに旧厚生省の人がその書類に基づいて調査研究をし、当時の患者たちを追跡調査して論文にした。このことでこの人はひどく周囲から非難され、脅迫なども受けた。諏訪氏はそれ以上の調査を認めず、またこの調査について50年間語ることも禁じた。今回戦後70年を迎えてその期間が切れたので、この人が初めて取材に応じた。
戦争神経症を病んだ人の多くは自分が人を殺した記憶、加害の記憶に苦しみ、それは長い時を経ても癒えずに、老年期になって突然現れたりもする。トラウマが癒えていないからだという。
このことに引っかけて、日本という国と日本人には、まだ加害の記憶がトラウマのまま癒されていないのではないかとアメリカの歴史学者の人が語る。だから加害に触れられると過敏な反応が生じる。トラウマに向き合うには、そのトラウマの元になった出来事を多く語ることが大切で、それが今までなされてきていないのではないか、ということだった。
加害の記憶がトラウマになるのは、心のたがを外して「敵」や「人間以下のもの」として扱ってきた相手が実は自分たちと同じ人間であったことに思いが至り、自分がしでかしてきたことの恐ろしさに苦しめられるという形で起きるのだそうだ。ということは、いわば、敵を排除してきたと思っていたら実はそれは身内であったという、差別・迫害の対象として良いはずのものが実は保護・愛情の対象であったということの落差の衝撃として解釈できるのではないか。
人を人と思わず「敵」として切断処理をして相手の立場への想像を止め、攻撃対象とする。ヒトの心理特性である、敵・味方、ウチ・ソト、仲間とそうでないものとを識別して守る対象と排除する対象とを区別する機制を巧妙に利用するのが、兵隊を残虐行為に駆り立てたり、国民を戦争支持に向かわせたりする一つの方法だという話とつながっている。
二度の大戦の惨禍を経て、普遍的人権思想が20世紀後半から世界に広がってきたことを思い起こさせる話である。
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(戦後70年)封印された「戦争神経症」:朝日新聞デジタル(2015年8月18日04時56分)
■平和のすがた〈4〉トラウマ大きな音が銃声に聞こえ、戦場の光景がよみがえる。悪夢にうなされ悲鳴を上げる。
特集:戦後70年
戦場から帰った兵士らにしばしば、こんな症状が現れる。心的外傷後ストレス障害(PTSD)である。その名がつく前にも、戦争のトラウマ、つまり心の傷で苦しむ人はいた。なのに元日本兵のトラウマに目を向けた研究は少ない。
貴重な例外があった。のちに厚生省生活衛生局長を務める精神科医の目黒克己(82)が、戦後20年の時点で手がけた調査だ。
日本人の精神力を強調する軍は、日中戦争開戦の翌年には、「戦争神経症」と欧米で呼ばれる病には1人もかかっていないと誇っていた。現実には対応を迫られ、国府台(こうのだい)陸軍病院(千葉県)をその拠点とする。敗戦時、軍は資料の焼却を命ずるが、病院長の故・諏訪敬三郎はひそかに8千冊の病床日誌を倉庫に残す。
これを見つけた目黒は生存している元患者を捜し、郵送と面接で調査した。回答のあった104人のうち25%が治っていないと答え、治ったという人も神経症的傾向が続いていた。
面接した患者の話で特に目黒の印象に残ったのは、軍での扱いと、加害行為でトラウマを負った例だ。たとえばこんな話である。
「軍隊はひどいところで、まったく人間扱いされなかった。入隊9日目にひどい私的制裁(古参兵らによる暴行)を受けたのち、なにがなんだかわからなくなった」(元二等兵)
「何度も討伐に参加し、非戦闘員の殺傷などが重なった。最も打撃を受けたのは、燃えている家に、消せるはずもないのに手桶(ておけ)で水をかける中国人の老婆が母親そっくりにみえたことだ。ある討伐のあと、なにもわからなくなり、護送されるトラックの上で気がついた」(元一等兵)
戦争神経症で国府台に入院したのは2205人。ほかの元兵士の戦後のふるまいにも、トラウマの影は色濃い。悪夢で跳び起きる、ひたすら働く、妻を殴る。それらもPTSDの軍人によくみられる行動だ。
年をとってから症状が現れる人もいる。トラウマとなった記憶は、時を経ても生々しい状態のまま心の中に隠れているからだ。
当時はそんな調査をすることも、冷ややかな目でみられたと目黒は振り返る。「戦争に関することは、研究さえ悪いという風潮だった」。心を病む人への偏見も強く、諏訪は目黒に「今後50年間、論文に記した以外は口にするな」とくぎを刺す。今回取材に応じたのは50年が経ったからだ。
日本はずっと、戦争の心の傷から目を背け、封印してきたのかもしれない。
戦争は人の心をどう傷つけ、社会にどんな傷を残すのか。ヒントを求め、戦争を続ける米国で退役軍人らを訪ねた。
■軍命で殺し、兵は病む
米国の退役軍人たちに、トラウマとなった体験について聞いた。
イラクに派遣されたジェラルド・マシュー(41)の場合、彼の乗るトラックが子どもをはねたのが心の傷になり、時折よみがえる。「何があっても止まるな」という命令に従ったのだ。
ベトナム戦争で戦ったジェームズ・マーフィー(69)はベトナム人の遺体の首に、自分が身につけているのと同じ、キリストと十字架を描いたお守りをみつけて罪の意識を感じた。アジア人は敵だとたたき込まれ、ベトナム人を「グーク」という蔑称で呼んでいた、その呪縛が解けた。
話を聞いていると、根っこは戦争と心のメカニズムにあることに気づく。ふだんなら殺人など犯さない人が、なぜ戦争では殺せるのか。どのように心のたがを外すのか。彼らや心理学者によれば、たとえばこんなメカニズムが存在する。
ひとつは上官の命令だ。命令する人と手を下す人を分ければ、互いに心のハードルが下がる。
もうひとつは敵の「非人間化」。敵を「グーク」などと呼ぶことについて、退役軍人の一人は「自分たちより劣るもの、たとえばゴキブリと思えば殺せるでしょう」と説明した。
それでも、心のたがを外してした行為に苦しむ人がでてくる。相手が子どもだったり、同じ人間だと気づいたりした時だ。心の傷になるのは加害体験だけではないが、私が聞いたのはこうした例だった。
ベトナム戦争では帰還兵の自殺、薬物乱用、ホームレス化など問題が噴出。心に傷を受けた帰還兵の運動をきっかけに、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の病名が生まれた。敗北による自信喪失も含め、社会に与えた傷痕は深く、ベトナム症候群と呼ばれた。米国社会のトラウマである。
中には「非人間化」にあらがう人も出てくる。ベトナムで従軍したダグ・ローリングス(68)は「ベトナム人も人間だと確認する」ため度々基地を抜け出し、村人たちと交流した。それが上官にばれて降格されたが、軍の機関に不服を申し立てたら認められた。
「それ以来、ひどい任務を与えられたよ。たとえば汚物の焼却だ」
不利益は受けても、米軍ではぎりぎりのところで個人の判断の余地があったのか? だから苦しむのか?
ダグの話を聞いて、私は精神科医、目黒克己の話を思い出した。
戦後20年の調査の際、目黒は元国府台陸軍病院長、諏訪敬三郎に相談した。
戦争神経症で戦地から国府台に送られたのは下士官と兵ばかり。将校では発症した人が少ないようだ。なぜなのか。
2人はそんな議論を交わし、「日本は『天皇の軍隊』だからではないか」という見方で一致する。米軍より「絶対服従」の度合いが強く、自分の責任でやったという意識を持ちにくいという意味だ。将校なら兵士に比べ、軍内で暴行を受けたりみずから手を下したりすることも少ない。
「天皇の軍隊」の象徴の一つが、上官の命令を天皇の命令と心得よという軍人勅諭だ。一橋大教授の吉田裕(60)の研究によれば、それでもかつては処分への異議申し立ての権利が定められていたが、軍は1930年代から40年代にかけて逆らう余地をなくしていく。同時期に「国軍」と称していた陸軍は「皇軍」を名乗るようになる。
それも、心のたがを外す日本なりの手法の一つだったのだろうか。
防衛大教授、河野仁(54)の研究によれば、道徳的葛藤から逃れられないのは「戦えない軍隊」。非人間的な軍隊こそ「精強な軍隊」。「この論理を究極的に推し進めたのが日本軍だった」(著書「〈玉砕〉の軍隊、〈生還〉の軍隊」から)
特攻、玉砕、様々な加害行為。味方の命も敵の命も軽んじたのは、その結末だったのだろうか。
■傷残る日本、加害なお論争
その問いを、軍事心理学を研究するドレクセル大学教授、エリック・ジルマー(59)にぶつけた。ナチスや、グアンタナモ収容所での米兵による捕虜虐待、テロリストの行動などに潜む心理を調べてきた人物だ。
「人は集団になれば、個人ではできないことをするものです。結びつきが強ければ、仲間のために死ぬ。非人道的なこともする」
「集団が結束するのは、その集団に愛情を、外部に憎しみをもつ時。戦わなければ殺されると思う時。だからヒトラーはユダヤ人を、米国は共産主義やテロリストを利用して国民をまとめたでしょう。人間の心理は同じです。日本は島国で歴史が長く、まとまりやすい条件はあるけれど」
ジルマーは、日本社会を一人の人間にたとえて話し出した。「日本はまだ、戦争のトラウマを癒やすプロセスを終えていない」というのである。米国も奴隷制のトラウマが癒えないままだと、日本が特殊ではないことを強調しながら。
言わんとするのは、こういうことだ。
日本軍の加害に触れた時、日本では激しい論争が起きる。いまだに過去のこととして、冷静に議論するのが難しい。それは心の傷が、触れれば痛い状態のまま残っているからだ――。
心に傷を負った人はしばしば、その体験を思い出すのを避けようとする。PTSDの治療では、あえて体験に向き合い、話す手法が用いられる。言葉にすることで気持ちが整理され、癒やしにつながる。
それと同じように、気持ちを整理する作業が要るとジルマーは説く。
「戦地での体験を語り、聞く。戦争とは何かを研究する。『先祖は悪いことをした。けれど先祖が悪い人なのではない。どの国でもいつの時代でも、同じ条件がそろえば同じことが起こりうる』。そう整理がつけば、過去を受け入れ、将来へと歩むことができる」
そうしてトラウマを癒やさなければ、戦争から平和への移行は完了しないとジルマーは言った。=敬称略
■取材後記
個人のトラウマを癒やすのに、言葉にして気持ちを整理する必要があるのはわかる。社会のトラウマを癒やすため、何をすれば「気持ち」の整理につながるのか。
しつこく聞いていたら、ジルマー教授が例を挙げた。「あなたが書こうとしている記事をきちんと書くことが、癒やしになるんです」
励ましてくれたのだけれど、それは問いでもあったのだろう。これまで私たちはきちんと書いてきたのか、と。(編集委員・松下秀雄)
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まつした・ひでお 1964年生まれ。論説委員などを経て政治担当編集委員
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次回は「平和」のイメージについて考えます
東京新聞:元兵員 残虐行為の悪夢 戦後70年 消えぬ心の傷:社会(TOKYO Web)(2015年8月28日 朝刊)
アジア太平洋戦争の軍隊生活や軍務時に精神障害を負った元兵員のうち、今年七月末時点で少なくとも十人が入通院を続けていることが分かった。戦争、軍隊と障害者の問題を研究する埼玉大の清水寛(ひろし)名誉教授(障害児教育学)は「彼らは戦争がいかに人間の心身を深く長く傷つけるかの生き証人」と指摘している。 (辻渕智之)
本紙は、戦傷病者特別援護法に基づき、精神障害で療養費給付を受けている元軍人軍属の有無を四十七都道府県に問い合わせた。確認分だけで、入院中の元兵員は福岡など四道県の四人。いずれも八十歳代後半以上で、多くは約七十年間にわたり入院を続けてきたとみられる。通院は東京と島根など六都県の六人。
療養費給付を受ける元兵員は一九八〇年代には入通院各五百人以上いたが、年々減少。入院者は今春段階で長野、鹿児島両県にも一人ずついたが五、六月に死亡している。
清水氏によると、戦時中に精神障害と診断された兵員は、精神障害に対応する基幹病院だった国府台(こうのだい)陸軍病院(千葉県市川市)に収容され、三八~四五年で一万四百人余に上った。この数は陸軍の一部にすぎず、症状が出ても臆病者や詐病扱いで制裁を浴びて収容されなかった場合も多いとみられる。
清水氏は同病院の「病床日誌(カルテ)」約八千人分を分析。発症や変調の要因として戦闘行動での恐怖や不安、疲労のほか、絶対服従が求められる軍隊生活への不適応、加害の罪責感などを挙げる。
診療記録で、兵士の一人は、中国で子どもも含めて住民を虐殺した罪責感や症状をこう語っている。「住民ヲ七人殺シタ」「ソノ後恐ロシイ夢ヲ見」「又殺シタ良民ガウラメシソウニ見タリスル」「風呂ニ入ッテ居テモ廊下ヲ歩イテイテモ皆ガ叩(たた)キカカッテキハシナイカトイフヨウナ気ガスル」
残虐行為が不意に思い出され、悪夢で現れる状態について、埼玉大の細渕富夫教授(障害児教育学)は「ベトナム、イラク戦争の帰還米兵で注目された心的外傷後ストレス障害(PTSD)に類似する症状」とみる。
清水氏は「症状が落ち着いて入院治療までは必要のない元兵員が、偏見や家族の協力不足などで入院を強いられてきた面もある」と説明。また今後、安全保障関連法案が成立して米国の軍事行動に協力すると、「自衛隊でもおびただしい精神障害者が生じる」と懸念する。(写真キャプション:「自殺したい」「人の顔を見るのが嫌だ」など元兵員の訴えが記録された国府台陸軍病院の病床日誌(コピー)=「資料集成戦争と障害者」(清水寛編)から)
旧軍人ら精神療養、今も九州で6人 70年以上にわたって入院も (西日本新聞) - Yahoo!ニュース(8月11日(火)9時30分配信)
太平洋戦争中、過酷な戦場体験や軍隊生活の影響で精神障害を患い、戦後70年を迎えてなお療養中の旧軍人・軍属が、今年3月末現在で九州7県に6人おり、うち3人が入院中であることが、西日本新聞の取材で分かった。福岡県の98歳の男性など、70年以上にわたって入院生活を続けてきたとみられる人もいる。戦地での結核や外傷などの治療を続けている戦傷病者も7県で計43人に上る。戦争がもたらす心身の傷の深さが、あらためて浮き彫りになった。
一定程度以上の障害や療養の必要がある旧軍人・軍属には、戦傷病者特別援護法に基づいて戦傷病者手帳が交付され、医療費給付などの援護が受けられる。
九州各県によると、3月末現在で戦傷病者手帳を持っている人は、福岡392人▽佐賀95人▽長崎382人▽熊本270人▽大分137人▽宮崎167人▽鹿児島421人-の計1864人。このうち、医療費給付を受けている療養患者は7県で49人。精神障害で入院中の人は福岡、宮崎、鹿児島3県にそれぞれ1人ずつおり、通院中の人も3県に1人ずつ確認されているという。
福岡県保護・援護課によると、同県内では戦地での精神障害のため98歳の男性が入院しており、90歳の男性が通院治療中。98歳の男性については「県には2000年以降の記録しか残っていないが、70年以上入院生活を続けてきたとみられる」(援護恩給係)という。
研究者は宮崎、鹿児島の入院者も、数十年間にわたって入院生活を送ってきた可能性が高いとみる。戦後、出身地の近くにある病院などに転院したものの、精神障害に対する社会の偏見から、家族にも見放されて入院生活を余儀なくされ、一度も退院せずに亡くなった人が多いという。
関係者によると、福岡県の98歳の男性は、戦場での体験から精神疾患を発症。国立病院などを経て、現在は筑後地区の病院に入院し、親族が看病をしている。
■奪われた社会復帰 清水寛・埼玉大名誉教授の話
「戦時中、精神に障害を負った軍人・軍属の多くは、千葉県市川市の旧国府台陸軍病院に送られた。その数は約1万450人に上るとされる。2013年3月末時点で、全国では7人が入院中と確認されており、いずれも70年近く入院したままとみられる。身体障害を負った兵士は名誉の負傷とたたえられたが、精神障害は恥とされた。国の施設で終生保護する政府方針もあり、家族とも縁が切れ、社会復帰の可能性が奪われた。社会的入院の最もひどい例だ。現在の米軍もそうだが、戦争が起きると軍隊には自殺者や精神障害者が大量に発生する。同じ過ちを繰り返さないため、忘れられている彼らの存在を掘り起こすべきだ」
九州7県で療養中の戦傷病者 県 精神疾患 結核 その他 計 福岡 2 6 6 14 佐賀 0 1 2 3 長崎 0 1 4 5 熊本 0 3 4 7 大分 0 0 5 5 宮崎 2 3 7 12 鹿児島 2 0 1 3 計 6 14 29 49
戦後70年:豊富な資料で「戦時下の小田原」を特集 箱根療養所も紹介 市郷土文化館で展示 /神奈川 - 毎日新聞(2015年08月08日 地方版)
戦後70年特集展示「戦時下の小田原と箱根療養所」が小田原市城内の市郷土文化館で開かれている。戦争中の小田原について振り返るとともに、戦傷病者の療養所だった同市風祭の箱根療養所(現・国立病院機構箱根病院)についても紹介している。箱根療養所は戦争で手足を失うなどした傷病兵のための施設。日露戦争後に東京で開院した「廃兵院」が、1936(昭和11)年に「傷兵院」として風祭に移転、2008年まで戦傷病者が入所していた。小田原市内に残る数少ない「戦争遺跡」の一つで、市民でも存在を知る人は少なくなっているという。
会場には焼夷(しょうい)弾の弾頭や金属不足から竹で作った防空用竹かぶと、出征旗などを展示。小田原駅頭で出征兵士を送る人たちや小田原空襲で焼け落ちた市内の様子を収めた写真パネルも並べられている。
他にも療養所の入所者のインタビュー映像や、戦後にクッションや背もたれなどを改良した「箱根式車椅子」の実物などを見ることができる。
8日と9月6日午前11時から担当学芸員による展示解説(20人・当日先着順)▽15日午後1時半から小田原市民会館(同市本町)で特別講演会「終戦当日の小田原空襲」(60人・当日先着順)▽29日午前10時から市立三の丸小学校(同市本町)で「終戦から70年 地域の人々と観る記録映像『戦時下の防空訓練』」−−も開かれる。
同展は10月4日まで。無料。問い合わせは郷土文化館(0465・23・1377)。【澤晴夫】
ストーリー:日赤救護班「熊本第六六八」(その1) 語られた戦時の看護 - 毎日新聞(2015年08月02日 東京朝刊)
阿蘇山の南に位置する熊本県の農村で、赤紙が来るのを待ちわびていた。戦死、戦傷した4人の兄を思うと、戦地へ赴くことは怖くなかった。「私もお国のために」。少女の心に迷いはなかった。福岡市で暮らす津村ミトメさん(93)が、心に深く刻み込まれた記憶の糸をゆっくりとたぐる。「さっき食べたご飯は忘れても、あの日々は覚えてるんですよ」。戦時下、海軍病院に派遣された日本赤十字社の看護婦だった。
陸軍大臣や海軍大臣は日赤に要請し、看護婦は赤紙で召集された。1937年の日中戦争開戦から太平洋戦争にかけて、組織された救護班は計960班。延べ約3万3000人が戦地や、国内にある陸海軍の病院へ「出征」し、主に兵士の看護という任務に就いた。日赤の記録では、殉職者は1000人を超える。
44年夏に召集された津村さんの初任地は長崎県の佐世保海軍病院。その後、長崎原爆の被爆者、精神を病んで前線から戻された兵士をみた。「治療じゃないの、何もできない。慰めるしかできなかった」
戦時下の医療に関する公的記録は少ない。日本軍は戦後、多くの重要書類を処分した。軍医や看護婦ら個人の手記や証言が貴重な手がかりだ。津村さんは戦後、看護婦を続けようとしたが「女は家庭」の時代、思うように歩めなかった。3人の子を育て、夫の転勤で故郷を離れた。看護婦だった頃を話すことも書き残すこともなく、時は流れた。
「私も昔、看護婦だったのよ」。病院に通ったり、訪問看護を受けたりするようになり、若い看護師を相手に昔話をし始めたのは最近のこと。点滴が終わるまで、マッサージ治療が終わるまで、少しずつ打ち明けていった。
津村さんの話に驚いた医療関係者から、記者の元に連絡が来たのは今年初め。自宅を訪ねると、津村さんは訪問看護師と共に迎えてくれた。語られることがなかった日赤救護班「熊本第六六八」の看護婦が見た戦争である。
(写真キャプション:佐世保海軍病院の「第十一病舎」前で看護婦仲間らと撮った写真。当時、外地へ行けなかったことは「悔しかった」と言う。白い看護衣を染めていた。中列左端が津村ミトメさん=津村さん提供)
ストーリー:日赤救護班「熊本第六六八」(その2止) 染めた看護服 - 毎日新聞(2015年08月02日 東京朝刊)
<1面からつづく>(写真キャプション:日本赤十字社(東京都港区)にほぼ同じ時期の赤紙が保管されている。「大東亜戦争救護班要員トシテ召集ス」。約15センチ四方の小さな紙=日赤提供(画像を一部加工しています))
◆太平洋戦争下、国内医療の現実
◇届いた赤紙「よし!」
兄たちの敵をとりたい。兄たちが不幸な思いをしているのを見ていたからですね。5人の兄のうち4人が軍隊に召されていましたからですね。
津村ミトメさん(93)=福岡市=は、右頬を隠すように体を斜めにした長兄の写真を見つめた。20歳ほど年の離れた長兄は旧満州(現中国東北部)に出征し、凍りつくほどの寒さで固まった右頬を上官に殴られた。大きな傷痕が消えなかった。
可哀そうでたまりません。傷のせいでいつも居心地が悪そうで。四つ年上の兄は名誉の甲種合格。万歳、万歳って送り出して、生きて帰れませんでした。「霧島」だったと思います。南方の海に軍艦と沈みました。機関兵で肺浸潤(結核)になり、治療途中で帰された兄もおります。炭鉱で勤労奉仕をしていた兄もいます。
私は女学校を卒業して、進路を決めかねていた時に、日赤が看護婦を募集しているというのを新聞で見て。16、17の頃だったと思います。私もお国のためにって受験したんです。
京都市の日赤看護婦養成所で3年ほど学んだという。養成所を終えた津村さんは故郷の熊本へ帰り、召集を待つ。知らせが来たのは22歳の1944年6月ごろ。米軍がサイパンに上陸し、7月にはインパール作戦が中止される。だが、戦況の厳しさは国民に知らされていなかった。
赤紙です。本当に赤い紙。よし、よし!って思いました。それはもう、うれしくて。どこへ出征するかは分からない。怖くなんかない。病気になってけがした兵隊さんが可哀そうで。慰めてあげたいというのが一番の思い。(私のことを)親戚中、喜んで送ってくれて。村中の婦人会や在郷軍人会の皆さんに送られて。万歳、万歳で。沖縄に行く準備をしておくように言われたと記憶しております。
今は米軍施設となった長崎県の佐世保海軍病院が最初の任地だった。津村さんは熊本県出身者が多い「熊本第六六八」に所属。約20人の看護婦がいた。
いくつも病舎があって。私は第11病舎。結核病棟でした。すぐそばにオペができるほど大きな防空壕(ごう)があって、空襲警報の度に患者さんを運ぶ。裏は兵舎。この頃は(空襲で狙われるため)白い看護衣を染めて。グレーというか緑みたいな色に。
そのうち、どんどん患者さんが増えて。それで、熊本班は武雄温泉(佐賀県)に移りました。終戦の1年ほど前。武雄の女郎屋さんを全部、海軍が借り上げて病舎にしていましたですね。私の病舎は「満州楼」っていう女郎屋さん。3階建てで、部屋に2人ずつ兵隊さんを寝かせていました。毎朝が起床ラッパ。「総員起こし、5分前」の号令で。朝6時前にね。
帰りたがっていた兵隊さんもいましたよ。胃が痛くてたまらないって言うから、手術して開けてみたら、きれいだったんです。軍医さんが怒って、縫合もしないで行ってしまった。だから私たちが見よう見まねで縫合したんです。兵隊さんには家族がいますからね。病気ということにして帰りたかったんでしょう。
(写真キャプション:旅館「白さぎ荘」の太鼓橋は遊郭だった頃の名残。武雄温泉の一角にはかつて十数軒の遊郭が並んでいた。戦時中、海軍病院が接収した記録は市史など公的史料に見当たらない。当時を知る人は少なくなった=佐賀県武雄市で)
「日本海軍史」(海軍歴史保存会発行)によると、海軍は入院患者の激増で病院を次々と新設。武雄の他に、湯河原、雲仙、熱海、城崎など温泉地が記されている。武雄に残る記録は少ないが、ラッパの音を覚えているお年寄りに会えた。「遊郭は10軒以上ありましたな。ガリガリの兵隊さんが哀れでねえ」
遊郭があったという場所に建つ旅館「白さぎ荘」を訪ねると、オーナー夫妻が館内を案内してくれた。武雄で唯一、中庭に架かる太鼓橋や急な階段など遊郭の特徴的な構造を残しており、偶然にもこの旅館がかつての満州楼だった。「兵隊さんがお礼に毎朝、太鼓橋を拭き掃除してくれて、お陰で漆がはげた」という話が旅館に伝わる。
特攻に行く兵隊さんもお見舞いに来ましたですよ。佐世保から出撃前の。入院してる兵隊さん、耳なくしたり、手なくしたり、そういう人がいっぱいいましたからね。「行くから」って。特攻の兵隊さんをよく見かけました。戦況は悪くなっていたんでしょうけど、「敵の損害は甚大なり。我が方の損失は僅少なり」って、終戦直前まで新聞は書いてました。アメリカに負けるなんて思いません。いつか神風が吹くって思ってましたから……、バカみたいね。
◇「治療じゃない。何もできない」
45年8月6日、広島に「新型爆弾が使われた」ことを津村さんは新聞で知る。そして9日、原爆は長崎に投下された。戦後30年近くたって取得した津村さんの被爆者手帳には「12日入市」とある。
計り知れない爆弾が広島に落とされた、長崎にも落とされたと聞いたように思います。「長崎へ救護に向かえ」という命令が下されたんでしょうか。婦長から青酸カリを渡されたのも、この頃だったと思います。覚悟しました。アメリカ兵は何やるか分からんって言われて。
トラックや汽車を乗り継いで、焼け野原を歩いたはずなんですけど、どうやって着いたのか覚えていません。諫早から入ったと記憶しますが、これは、何なんだと。もう、何もない。緑がない。建物がない。山の上から谷底まで何もない。
爆心地から約3キロ。津村さんたちは救護所となっていた新興善(しんこうぜん)国民学校に入った。医療なき救護現場だった。
窓がたくさん割れていて、ガラスをいっぱいよけて。ベッドなんてない。兵隊さんが次々と患者さんを運んできて、床に寝かせていく。ひどいやけどの部分は化膿(かのう)して、びっしりうじ虫がわく。やってあげることは、体拭くなんてどころじゃない。うじ虫取って。消毒薬もなくて、海水くんできて、じょうろで(かける)。でないとガーゼが離れない。ぴたっとくっついてしまう。しばらくしてガーゼを取り換えて。その人は明くる日は死体となっていたり。薬もないし、私たちがしたことは治療じゃない。つらい……つらかったです。さっき水をくださいって言った人が、あっという間に事切れる。亡くなるとうじ虫が生きてる人に移動していく。「うじ虫が……」ってどこからか聞こえてくる。
夕方になると、お医者さんが回ってきて、死んだ人に印をつける。夜勤の時は、その人を死体が山積みになった校庭に運ぶ。あの光景を見て、あきらめました。もうだめだって。怖かったです。まっ暗闇の中、2人でちょうちん一つ持って担架で死体を運んで、山と積まれたその脇に置いてくる。上には乗せられない。それから兵隊さんが油をかけて焼く。最初に置かれた死体は最後まで残るから、体から脂が出てくる。その臭いと死体を焼く臭い。玉音放送なんて聞いていません。そういう中での終戦でした。
(写真キャプション:戦後も任務が続いた「熊本第六六八」の看護婦たち。嬉野海軍病院にいた頃に撮った写真には笑顔がある。看護衣は白に戻った。後列左から2人目が津村さん=津村さん提供)
熊本班の任務は解かれず、やがて全員の体に異変が起きた。40度近い高熱に激しい頭痛、倦怠(けんたい)感。被爆した可能性があったが、当時はデング熱などと言われた。9月初旬、熊本班は「療養のため」に佐賀県の嬉野(うれしの)海軍病院へ送られ、伝染病棟に隔離された。熱も下がり、任務に戻った場所は敷地内にある精神病棟だった。心を病み、戦地から戻された兵士たちが入院していた。
精神病棟はね、奥の方。敷地の一番奥の方でしたよ。窓には格子。2階が病棟で、3階が電気ショックの部屋。普通に平凡に暮らしていた人が戦地に行って、殺したり殺されそうになったり。発狂しますね、それは。怖かったんだろうなって思いますよ。床屋さんだった人はカミソリを持たせるとおとなしい。刃物は怖かったけど、うなじをそってくださいよって明るくお願いするの。(自分が)安心して、してもらわないと本人に伝わるから。踊りの先生は踊らせれば落ち着く。
海軍病院跡地には今、国立病院機構嬉野医療センターが建つ。当時の資料が残っていないか訪ねると、唯一、廊下の壁に掛けられた古い配置図があった。2000年ごろに記念誌をまとめた海軍病院の元職員を捜した。既に亡くなっていたが、直筆のメモが記念誌に貼られていた。「終戦時、機密文書、その他重要書類は全部焼却せよとの海軍省の命により、大事なものは何も残っておりません」
当時、精神を病んだ帰還兵の治療方針は、どういうものだったか。97年発行の専門誌「精神医療」に元海軍軍医の回顧が掲載されている。「海軍には精神病患者やその治療についての関心、配慮は全くありませんでした。皇軍に頭のおかしいものなどいないという信念の時代であったし……」
治療という治療はありませんでした。暴れる人もいましたけど、いつも電気ショック。昔の治療はそれだけ。(患者は)嫌がって。3階へ上るのにだましてだまして。楽しいことしましょうねって手拍子したりとか。私は患者さんを横にして部屋を出る。通電の時以外、軍医さんの姿はほとんど見なかったですね。看護婦としての役目を果たせない。笑顔でいること以外、慰めるすべがないんです。優しくするしかなかった。
拭いても拭いても、自分の排せつ物を壁に投げる人がいました。精いっぱいの抵抗だったんでしょう。何だ、こんちくしょう!って。普通に暮らしていたのに、いきなり召集令状で呼び出して、たたかれてたたかれて、殺し合いをさせられて。だからもう、自分の排せつ物を壁にぶっかけて。精神病棟にいたのは2カ月ぐらいです。あの人たちはどうなったのか。みんな戦争から帰ってきた20代ぐらいの若い兵隊さんです。
心に傷を負って帰る場所を失い、病院や療養所で生涯を閉じた「未復員」の兵士は少なくないという。厚生労働省の最新の統計(13年度)では、戦傷病者手帳を交付された精神を病む7人が施設に入院している。
熊本第六六八は嬉野海軍病院での任務を終了。46年6月に「召集解除」となり、それぞれの故郷へ帰っていった。津村さんは古い写真を大切にしまっている。仲間たちとの楽しい思い出もある看護婦時代の2年間。武雄では兵隊さんから自転車の乗り方を教わり、仕事のない日は麦畑に出かけておにぎりをほおばった。
だが、体験を手記にした元看護婦がいる一方、六六八は何も残さなかった。日赤熊本支部が発行した支部史の記録からも、新興善国民学校で活動した事実は抜け落ちている。六六八と行動を共にした軍医の子を取材すると、「大変だったとしか聞いていません」という答えが返ってきた。
誰にも話せなかったんです。話したい話じゃないでしょう。私たち熊本班は戦後、集まることは、ほとんどありませんでした。何も残さない、話さないまま、ほとんど死んでしまいました。
感謝してるんです、今こうして生きていて、子供も育って、孫もいて。でもね……、悔しかったです。「原爆菌を持って帰ってきた」って言われて。
最後のインタビューは7月中旬だった。別れ際、どちらからともなく手を伸ばした。「あなたは幸せになってね」。ベッドから身を起こした津村さんが、細い手で私の手を握った時、その強さにはっとした。津村さんには言葉にできない体験がまだあるのだろう。そんな思いが頭をよぎり、心が乱れた。
「今まで話せなかった、つらくて。でも、もうこれ以上、私の体ももたない。この国は昔、お国のために頑張った若い子たちをぼろぼろにして、捨てたんです。戦争は誰も幸せにならない。この国がどういうふうになっていくのか、私には分かりません。でも、嫌なんです、戦争は。また苦しむ人が、きっと出るから」
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◆今回のストーリーの取材は
◇山田奈緒(やまだ・なお)(東京社会部)
2005年入社。京都支局、阪神支局を経て10年から東京社会部。司法を担当した後、13年春から遊軍で平和取材に携わる。昨夏からはTBSテレビとの共同プロジェクト「千の証言」を担当している。今回は写真も担当した。
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占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102 : まとめ読み「NEWS通」 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2015年08月11日 05時20分)
「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。
ポツダム宣言受諾について、9日深夜から御前会議をやったが、内閣としては閣議で決定できていなかった。内務大臣(内相)の安倍源基さんは「日本の国体はどうなるのか」と執拗に迫り、受諾を承知しなかった。「国体護持」の考えが皆にしみこんでいたからね。内相が頑張っている中、我々は作業を進めた。
官房長たちとの会議の主な議題は、軍の物資の処理だった。「軍が持っている物資は膨大だが、このままでは没収される恐れがある。だが国民に行き渡っていれば、その恐れはないだろう」と判断し、占領前に、軍が保有する食糧や衣料品などの物資を困窮する国民に早く分けようという方針を決めた。
もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。
会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。
問題は、軍隊をどう収めるか。下手な収め方をしたら軍が決起するからね。大変な状況だった。
◇
役所一転「上司」はGHQ
1945年3月、東京大空襲を経験した。翌日、私は霞が関から内務省の職員50人を連れ、下谷(現・台東区)の区役所の応援に行った。広場にたくさんの人が荷物をリヤカーに積んで逃げてきて、焼夷しょうい弾で焼け死んでいた。どぶ川をさらうたびに死体が上がった。
あんな場所にリヤカーで集まったら、焼夷弾に焼かれるのは当たり前だよ。住民への避難指導が十分に行われていなかった。「こんなことでは戦争にならない」という感じを強く持った。
5月の「山の手大空襲」では、今の渋谷区にあった自宅がやられかけた。近くまで焼夷弾が落ちてきたので雨戸を閉め、家内は荷物を防空壕ごうへ放り込み、子どもを背負ってどこにでも逃げられるようにした。
焼夷弾がどこに落ちるか見定めようと空を見上げていると風向きが変わり、焼けずにすんだ。運だよ。
翌朝は歩いて内務省に向かった。表参道まで来ると、熱風を避けようとしたのか、鉄筋の建物の脇で人が重なり合って死んでいた。赤坂の辺りでも人間が燃え、黒い小さな塊になっていた。
4月初めだったか、陸軍省から内務省に、「沖縄は放棄せざるをえないが、降伏はしない。敵を本土に迎え撃って必ず最後の勝利を収めるから、敵が上陸してきても各行政組織が統一的に運営されるようにしてほしい」と連絡してきた。もう一つ、「国民も軍に協力してほしい」とも言ってきた。この時、次官の灘尾さんが私の耳元でささやいた言葉を今でも覚えている。
「軍は国民を道連れにしようとしている。けしからん」「国民に協力を、と言われても、竹やりぐらいしかないじゃないか」
それが灘尾さんの気持ちだったが、内務省に戦争を終わらせる力はなかった。私は軍の要請を受け、敵の本土上陸後も行政を維持できるよう、地方総監府(※)の官制原案を書いた。
6、7月に灘尾さんと一緒に九州を一回りした。国民に全く戦意がないことがよくわかった。とにかく受け身だった。
7月26日、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、陸軍は最後まで強硬だった。8月10日には受諾の聖断が下るが、陸軍は徹底抗戦を訴えていて内情は大変だった。
15日未明には、天皇陛下が事前収録した玉音ぎょくおん放送の録音盤を奪おうと、反乱軍が探し回るんだよ。見つからなかったのは幸いだった。そして最後は阿南惟幾これちか陸相が腹をかききって……。天皇陛下に謝って自殺することで、軍は収まったんだと思うなあ。
15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。
占領下の日本 改めて実感
玉音放送の内容は聞き取りにくかったな。でも事前に大体分かっていたからね。みんな宮城きゅうじょうの前に行って頭を下げ、泣いたもんだよ。
軍隊を収めるのは大変だったと思うな。最後はやっぱり、天皇陛下の力だな。天皇の力なくしては戦争を終結できなかったね。それは事実だと思うよ。
玉音放送の後、私は愛知県庁に置かれていた地方総監府を訪れ、古井喜実知事(戦後、厚相など歴任)に、指令書と灘尾さんの「後は頼む」と書いた手紙を渡した。古井さんは私の媒酌人で、灘尾さんが辞めた後の内務次官になった。
名古屋からは15日夜のうちに帰京した。ところが翌日だったか、高熱が出た。パラチフスだった。それから長く仕事を休んだ。
出勤は約3か月後。連合国軍総司令部(GHQ)から最初に命じられたのは、「内務省が地方に対して持っている権限を洗いざらい書いて出せ」という仕事だった。
日本が占領下にあることを改めて実感したな。
(聞き手 編集委員 福元竜哉 撮影 鈴木竜三)
※地方総監府 連合国軍の本土上陸で国土が分断される事態に備え、1945年6月、内務省が全国8区域(北海、東北、関東信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州)に設置した地方行政機関。地方総監には、管内の知事への指揮権など強力な権限が与えられた。同年11月に廃止された。
◇
「日本再起のきっかけに」…天皇の地方巡幸
内務官僚だった奥野さんは、静岡、山梨両県に続く3か所目の地方赴任として、1941年4月、鹿児島県庁に配属された。その8か月後、太平洋戦争に突入し、奥野さんは戦時下で役人生活を送った。
この年、鹿児島県庁を視察に訪れた東条英機首相(当時)と県職員たちとの記念写真に納まっている。東条首相に対しては、「家々のゴミ箱をのぞいて回り、国民に食料が行き渡っているかどうか調べた、と言われたが、あれはパフォーマンスだった」と冷ややかだ。
奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。
強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。
「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」
戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。
(福元)
戦中派から君たちへ 元法相・奥野誠亮さん、正しい歴史受け継いで (産経新聞) - Yahoo!ニュース(8月18日(火)14時49分配信)
昭和20年、内務省に新しくできた戦時業務課の事務官となり、地方財政の仕事と兼務した。「油をもっと」「米が足りない」…。軍部や各省からこういった要請を受け、知事たちに供出を頼む通達を出した。次第に東京の空襲もひどくなっていた。3月の東京大空襲では職員50人をつれて、遺体収容の応援にいった。竹やりに針金をつけて川に入れると必ず遺体が引っかかり、本当に痛ましかった。5月の空襲では渋谷区の自宅近くに焼夷(しょうい)弾が落ちた。恐怖心なんてなかった。いつ死んでもやむを得ないという覚悟だった。
翌朝、歩いて内務省まで向かったが、道の両側にぽつんぽつんと人がうずくまってまだ燃えていた。体は小さく、赤銅(しゃくどう)色になっていて。表参道にある銀行のビルの裏側には熱風を避けようとした20~30人が固まって死んでいた。いまもその光景は焼き付いている。
われわれ内務官僚の間ではもうこの戦争は負けると思っていた。でも、陸軍を抑えきれないんだよ。当時陸軍は内務省に2つの注文をしてきた。
1つは「いずれ沖縄は放棄せざるを得ないが、降伏はしない。本土で必ず勝利を収めるから、それに対応した行政組織を作ってほしい」。2つ目は「国民も軍に協力して戦えるようにしてほしい」ということだった。
そのとき、内務省の灘尾弘吉事務次官が私の耳元でささやいた言葉が忘れられない。「軍が国民を道連れにしようとしている。けしからん」と。戦争を終結しなきゃならんときになお無理な戦争をやっている。灘尾さんは「国民が協力しろといってもなんの武器もない。あるのは竹やりだけじゃないか」と捨てぜりふを吐いていた。全く同じ気持ちだった。
戦争終結は天皇陛下の言葉がなければ陸軍が収まらず、日本は滅びていただろう。戦略なきまま戦争に突入してしまった。思い上がっちゃったんだ。日本全部が。
ただあの戦争で日本だけが悪者になるのはおかしい。いいところもあれば悪いところもあった。正しい歴史を伝えて、この国のよさはしっかりと受け継いでいってほしい。
戦前は「強きをくじき、弱きを助ける」という精神があった。いまの日本はそういう古きよきものを取り返すことが必要だ。そして自由と平等を大事にする。国民みんなで決めていく。それが理想のあるべき姿だと思う。
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