大阪駅前の闇市と闇市研究の本
特集ワイド:闇からの胎動 大阪駅前ヤミ市史/上 焼け跡に行き場のない人々の群れ 欲望と気概のるつぼ - 毎日新聞(2015年08月31日 大阪夕刊)
特集ワイド:闇からの胎動 大阪駅前ヤミ市史/中 音楽にコーヒー「なんでもそろう」 持つ/持たぬ、格差の鏡 - 毎日新聞(2015年09月01日 大阪夕刊)
特集ワイド:闇からの胎動 大阪駅前ヤミ市史/下 朝鮮戦争特需へて経済活況 雑踏からビル群へ転生 - 毎日新聞(2015年09月02日 大阪夕刊)
こちらの連載で紹介されていたのが、こちらの本。
橋本健二, 初田香成 編著, 『盛り場はヤミ市から生まれた』青弓社, 2013年12月, ISBN978-4-7872-3364-6 C0036, 2800円+税
残念ながら品切れとのこと。良い本はすぐ品切れになってしまう…。
ただ、目次を見る限りこの本では大阪の闇市は扱われていないようだ。
この記事にもあるように、闇市など「裏側」の資料はまとまっていなくて研究は大変だと思う。時間を掛けた地道な努力が必要な領域だが、歴史認識に多角的な視野を与えてくれ、かつ社会の動き方を深く見通すためにはとても大切な仕事だと思う。なのに残念ながらこういう研究者のポストは非常に乏しいのが現状だ。
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特集ワイド:闇からの胎動 大阪駅前ヤミ市史/上 焼け跡に行き場のない人々の群れ 欲望と気概のるつぼ - 毎日新聞(2015年08月31日 大阪夕刊)
◇料理研究家・程一彦さん「私の戦後の原点」特集ワイド:闇からの胎動 大阪駅前ヤミ市史/中 音楽にコーヒー「なんでもそろう」 持つ/持たぬ、格差の鏡 - 毎日新聞(2015年09月01日 大阪夕刊)今年は太平洋戦争の終結から70年の節目だが、これまでは1945年8月15日に始まる「戦後元年」に光が当たることはあまりなかった。大阪駅前(大阪市北区)に広がっていたヤミ市から、復興への胎動を追った。【平川哲也】
持参したメモ帳に、料理研究家の程一彦さん(77)=兵庫県宝塚市=は地図を描いた。大阪駅から南に延びる御堂筋と四つ橋筋を東西の辺とし、底辺に当たる国道2号で囲うと、いびつながらも五角形の「ダイヤモンド地区」が浮かび上がる。ペンが止まったのは、その南東端に交わる梅田新道交差点の内側に、路地を1本描き足した後だった。
「この路地です。母が店を始めたのは」
現在は大阪駅前ビルが建ち並ぶ一角を指し、程さんは言った。母碧霞(かすみ)さん(故人)が起こし、後にNHK「きょうの料理」で脚光を浴びる程さんが継いだ中華料理店「龍潭(リュータン)」は、70年前にこの路地で産声を上げた。大阪大空襲の傷痕を残す店の裏手には、焼け野原が広がっていた。
市民生活の窮乏は続いていた。開戦前は主要食糧の約2割を依存した占領地からの輸入が途絶え、約660万人を数えた在外邦人の引き揚げも始まった。9月に列島を襲った枕崎台風が、崖っ縁の食糧自給に追い打ちをかけた。1・5キロ当たり50銭程度の公定価格で配給された米は遅配し、政府の経済統制は機能を失った。
ここにヤミ市は誕生した。持ち寄った食料を自由価格で売買する市で、米は公定価格の数十倍で売られた。大阪市戦災復興誌(58年)によると、大阪駅前のヤミ市は45年9月ごろにでき始める。「パンやさつまいもを売る人の群(むれ)」はその翌月、「二、三百名程度の集団」に膨らんだ。
巨大なたるに穴を開けた店では密造酒が売られ、防空壕(ごう)や駅頭では戦災で自宅を失った人々が夜露をしのいだ。大阪駅に降りた復員兵は感慨にふける暇もなく、むき出しの欲がぶつかりあう人の群れにのみ込まれた。
そんな人いきれでむせぶようなヤミ市に、龍潭はできた。バラック建ての2階を住居にし、1階に4人がけのテーブルを何組か並べた。比較的、材料が入手しやすかったぜんざいを手始めに、焼きそばや八宝菜を提供した。
店を仕切ったのは、敗戦で建設技師の仕事が途絶えた父根本豊秀さん(故人)でなく、台湾出身の母だった。日本の統治領だった台湾や朝鮮の人々は終戦を境に「戦勝国人」とされ、独自の社会を形成した。母は親族のつてで借りた土地に店を構え、同郷の料理人とは台湾語で話した。所在なげな父に対し、小柄な母は強かった。
そんな環境で、当時7歳の程さんはたくましく育つ。学校から戻れば皿洗いに汗を流す一方、売り物のたばこをくすねてはよそで売りさばくしたたかさも見せた。ヤミ市は窃盗や不法占拠が横行し、民族間の対立もあった。ただ、空襲におびえた戦中を思えば、全てがまぶしかった。
程さんは「戦争が終わり、誰もが『頑張れば必ず自分のためになる』との気概にあふれていた。私の戦後は、まさにヤミ市から始まったのです」と語る。
「夜が明けるたび、バラックは増えていきました」。窓からJR大阪環状線が見える病室で、大阪市福島区の太田春子さん(91)は述懐する。終戦当時は21歳。現在の阪神百貨店南側にあった表札や印鑑を売る店で働いていたが、45年3月の空襲で焼け、新婚の夫光吉さん(92)と再興した頃だ。終戦間際まで海軍で小型特攻艇の訓練を受けていた光吉さんに商売の経験はなく、肥大化するヤミ市の中で春子さんは心細さが募るばかりだった。
売れる物はなんでも売った。キセルは長くふかすと先端が熱で溶ける粗悪品だったが、苦情はなかった。光吉さんは名古屋であめを仕入れてきた。10個売れば1個分のもうけが出る値をつけたが、店頭に並べた瞬間、あちこちから手が伸び、口に放り込んで逃げられ、大損した。だますもだまされるも自己責任。そうでないと生きていけなかった。
時を同じくして、大阪へ米兵が進駐する。新修大阪市史第8巻(92年)によると、占領軍は45年9月に和歌山へ上陸し、大阪府下に約2万8000人を駐留させた。
夫婦の店にも米兵は来た。シャーマンと名乗る白人の将校は、日本人の女性を連れていた。印鑑の材料である3センチほどの水晶を見るなりポケットに入れ、店を出た。「お代をください」。涙をためて春子さんが訴えても、将校は振り返りもせず、女性の肩を抱き雑踏に消えていった。
春子さんの心には今も悔しさが残る。「戦争に負けるとは、こういうことなのかと思い知らされました」。そんな人々の悲喜を交錯させて、焼け跡に生まれたヤミ市は膨張していった。=つづく
◇喫茶店店主・劉盛森さん「生活自体が戦い」特集ワイド:闇からの胎動 大阪駅前ヤミ市史/下 朝鮮戦争特需へて経済活況 雑踏からビル群へ転生 - 毎日新聞(2015年09月02日 大阪夕刊)大阪駅前(大阪市北区)のヤミ市は、食料配給の遅れもあって膨張した。自由価格での売買は物価高騰を招き、1946年8月、大阪府はヤミ市つぶしにかかった。対象は府内92カ所の約1万軒に及んだが、ヤミは消えなかった。自由価格で売買する小売店も現れ、大阪駅前にはすぐに喧騒(けんそう)が戻った。
にぎわうヤミ市の周辺には、戦中に抑制された娯楽が戻りつつあった。舞台劇や映画に加え、大阪駅前では蓄音機でクラシック音楽を流す喫茶店が耳目を集めた。四つ橋筋と国道2号が交わる桜橋交差点の近くに、47年にオープンした「マヅラ」。大阪駅前第1ビルで現在も営業を続ける劉盛森さん(94)=兵庫県芦屋市=が、当時好んでかけたのはウインナワルツだった。
「駅から復員兵がはき出されるたび、『ジャンジャーン』とやった。しゅんとして下を向いているのに、『戦争に負けたからってくよくよするな』と言いたかったんだよ」
劉さんと音楽には奇縁があった。台湾の商業高等学校を卒業後、戦中の43年に単身で来阪。勤めた貿易会社が倒産し、終戦間際まで大阪市内の軍需工場で鉄条網を切断する大型のハサミの鋳造に汗を流した。雑穀を炊いただけの食事では、20代の胃を満たせるはずもない。元気のないその頃、大阪からの疎開を決めた友人に言われた。「ほかすぐらいなら、やるわ」。もらったのは蓄音機と数枚のレコード。むさぼるように聴いた名曲の数々は、唯一の慰めだった。
だがある日、桜橋の下宿でベートーベンの交響曲第9番を聴いていた時だ。警官が土足で踏み込んできて蓄音機を指し、怒声を発した。「貴様、何を聴いているか」。劉さんは頬を拳で殴られ、警察署に連行された。「敵性音楽」とされたためだが、ベートーベンは当時、日本が軍事同盟を結んでいたドイツの音楽家。釈放されたが、怒りは収まらなかった。「学のないやつめ」。下宿に帰る道中、口の中がきりきり痛んだ。戦争が憎かった。
それから数年後、その音楽で人々を励ますことになるとは、思いもよらなかった。15坪の土地に23席で始めた喫茶店で、劉さんはウインナワルツを大音量で流した。家路に就く復員兵の背筋がぴんと伸び、帰る家を失った子どもらが振り向いた。店ではまず、人工甘味料を溶いた中に小豆をほんの少し入れたぜんざいを1杯20円で売った。コーヒーはまだ貴重品だった。
間もなく占領軍の横流し品を売る業者からドリップ済みの粉を買い取り、薄いコーヒーを出した。やがて缶詰の豆が流通し、甘酸の利いた独自のブレンドが評判になった。1杯で粘って名曲に浸る客もいたが、劉さんは追い出さなかった。「ファイトの時代だった。戦争が終わっても生活のため、みな戦っていた。そんな人たちにゆっくりしてほしかったんだ」。音楽はヤミに生きる人々の、一服の清涼剤だった。
その頃、大阪府の大号令で閉鎖されたヤミ市だったが、ヤミ値による売買は続き、ヤミ市閉鎖は物価抑制の処方箋になり得なかった。終戦時に1・5キロ当たり50銭程度の公定価格だった米のヤミ値は、時に100円を超え、市民は衣類を一枚一枚はぐようにして売り、その金で食料を買う「タケノコ生活」を強いられた。加えて大阪では、住宅難が深刻さを増していた。
新修大阪市史第8巻(92年)によると、市内には開戦前の41年11月に約64万戸の住宅があったが、空襲で焼き払われ、終戦翌年の46年5月にはその半数を割った。防空壕(ごう)などに暮らす「壕舎生活者」は、全被災者の7・5%に当たる約2万6000人に及んだ。大阪駅構内で夜露をしのぐ人たちは数千人にも及び、駅周辺で見つかった遺体も46年8月までの1年間で742人を数えた。
45年6月の大空襲で大阪市福島区の自宅を失った久保三也子さん(86)は、戦後の一時期、防空壕で生活した。勤労動員に明け暮れた末の敗戦に気力をそがれ、壕舎生活からいったんは徳島の親戚宅に身を寄せた。翌年、大阪に戻った時、大阪駅前で復員兵が、軍服を脱いで「買うとくれ」と叫ぶのを見ている。
久保さんは47年、大阪市役所へ入庁した。相次ぐ摘発を受けてなお大阪駅前は人々がうごめき、小売店の裏口ではヤミ値による売買が続いていた。市役所の同僚とどぶろくを飲んだこともあったその駅前で、久保さんはある日、雨宿りしたことを記憶している。飛び込んだ防空壕の奥に、ぴたりと動かない塊があった。遺体だった。
70年前に始まった戦後を、久保さんはこう振り返る。「戦中も遅配はあったが、戦後は配給されない欠配が起きた。ヤミ市が『なんでもそろう』とされた一方、劣悪な環境で餓死する人もいたのです」。持つ人と持たざる人が入り交じったヤミ市は、残酷な格差を映し出す鏡でもあった。【平川哲也】=つづく
◇研究者・村上しほりさん「復興の陰に役割」大阪駅前(大阪市北区)のヤミ市は、政府が価格を統制した生活必需品の遅配を尻目に、自由価格であらゆる物が売られた。物価高騰を重く見た当局は摘発を繰り返したが、露天営業が制限されれば小売店の裏口で売買する手だれが現れるなど、ヤミにうごめく人々はその都度、息を吹き返した。
料理研究家の程一彦さん(77)=兵庫県宝塚市=を育てた母碧霞(かすみ)さん(故人)が、駅前ダイヤモンド地区の一角に起こした中華料理店「龍潭(リュータン)」は繁盛した。「忙しいのに、何しとったんや」。学校から帰るたび母にせかされ、程さんは店を手伝った。ぜんざいに始まった店のメニューは新たな食材が流通するたび追加され、程さんが洗う皿は日ごとに増えていった。開店から3年後の1948年ごろには手狭となり、現在の阪神百貨店南側の御堂筋沿いに移転した。
悪性インフレはこの年、小休止の様相を見せていた。終戦直後には1・5キロ当たり50銭程度だった米の公定価格は、100倍を超えていたが、豊作に加えて大阪へは輸入船が相次いで到着し、配給の大半は予定通り、十分に配られた。市場にだぶついたことで米の需要は落ち込み、公定価格とヤミ値の開きは小さくなっていた。
50年に朝鮮戦争が起きると、戦争特需で復興は加速した。この頃、程さんは1人の男性に出会っている。移転した龍潭が軒を並べた店の片隅を借り、その男性は商売を始めた。畳1枚分に満たない店で、男性が商ったのは化粧品の量り売りだった。「不思議なものを売ると思いましたけど、世の中を敏感に感じ取っていたのでしょうね」
化粧品が売れたのは、空腹を満たすことに精魂を傾けてきた女性が一つ上の豊かさを求めた証左だった。男性はのち、同所でバーを始め、それを足がかりに外食チェーンを展開し、経済人へと上り詰めていった。
龍潭も飛躍の時を迎えていた。大阪駅前では戦後初の本格的なビルとして53年に完成した「新阪神ビル」に出店、高級志向へとかじを切った。「もはや戦後ではない」。56年に経済白書がそう結ぶに至って、程さんが「戦後の出発点」と語るヤミ市は忘れられた。段階的な価格統制の廃止もあって、ダイヤモンド地区は繊維街へと姿を変え、60年代に始まる市街地改造事業でビルが建ち並んだ。
大学を卒業後、貿易会社勤務を経て24歳で龍潭の包丁を握った程さんは「寂しい」と言う。「民族対立や刃傷ざたが絶えなかったヤミ市を、思い出したくもない人はいるでしょう。けれど日本経済の胎動期に、ヤミ市が私たちを育ててくれたのも事実です。なのにヤミ市の記録はあまりにも少ない」
程さんが言う通り、正史にはヤミ市の記録が少ない。戦後の混乱期を示す例に挙げられても、人々の熱気と肉声を伝える記述はごくわずかだ。
「残念ですが、必然でしょう。取り締まる側、行政の視点で書かれた歴史ですから」。人と防災未来センター(神戸市中央区)の震災資料専門員、村上しほりさん(28)はそう話す。母校の神戸大学でヤミ市の研究を続けており、神戸の繁華街の成り立ちをヤミ市からひもといた論文が、一昨年末に出版された「盛り場はヤミ市から生まれた」(青弓社)に収録された。
95年の阪神大震災で街並みが一変した神戸市は、官民の別なく、被災前の地域を記録する取り組みが盛んだ。村上さんはさらに、三宮がにぎわっていく過程に注目した。それまでは、新開地に代わって三宮が神戸の代表的な繁華街になるのは、近くに市役所が移転した57年ごろとされていた。
終戦間際からの新聞を読み込み、年配の関係者を訪ねた。意外にも新聞は、早くから三宮の出来事に紙面を割いていた。商店主らは戦後すぐ、駅前に現れたバラック群を記憶していた。テキ屋組織や在留外国人が始めたヤミ市だった。「神戸の商業空間構造の形成に向け、初速を与えた存在だった」。村上さんは、論文でこう評した。
「ヤミという言葉は誤解されやすい」と言う。「統制経済の対語ととらえれば、正史と異なり、庶民が必要としたヤミ市が見えてくる」とも。ヤミ市に絡んでは全国100都市に対象を広げ、戦後に街が形成されていく過程をたどる研究を進めている。「その街にヤミ市がどんな役割を果たし、影響を及ぼしたのか。現在の地域社会を顧みることにもつながるのではないか」と考えている。
いま、大阪駅前。戦後70年を経て、なお変容し続けるダイヤモンド地区にヤミ市の面影はなく、往事を知る人も数えるほどになった。程さんは「幸せでしたね」と語る。「マイナスから始まった戦後のスタートを、あのヤミ市で切れたのですから」。林立するビル群の中でも、目をつぶればよみがえる。人いきれにむせぶ路地、いびつに並ぶバラックの群れ。そして、躍動する人々の姿が。【平川哲也】
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