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2015/09/28

牧野雅子氏のコラムからの思いつき

穿ったコラム。

Love Piece Club - わたしたちは知っている。「マモルくん」たちが本当に恐れていることを。 / 牧野雅子

プロフィールによれば、牧野氏は「絵に描いたような関西人」でありつつ「エスカレーターは左に立つ」のだそうで、そこは素直に右に立ってほしい…ていうか、大勢に合わせてほしいなあ…。米国など車を運転するなら右側通行するでしょう?いや、私がエスカレーターを歩く(走る)ので、どいてほしいわけです(自己都合)。

まあそれはともかく。
ああそうだなあと思った箇所を引用。

男のやったことは、わたしたちの日常の細部にまで入り込んできた。
ルールを平気で破ることや、前言を翻しても平気なこと、自分に都合の悪い弱者を切り捨てること、強い相手にはおべんちゃらを言ってすり寄ること、暴力でいうことを聞かせてもいいことや、既成事実さえ作ってしまえばこちらの思い通りになると人を見下すこと、差別を放置し利用することは、公認されたも同然だった。
わたしたちがこれまで大切にしてきたもの、世界への信頼が破壊された。
どうやって、こんな世の中で自分の「良心」を大事にしていけばいいのだろう。
この男は「守る」というかけ声で、わたしたちの大事な世界を壊した。
安保法制は日本という国の方向性を大きく変えた、というより日米安保の目指す方向への動きをさらに加速した。これから日本は徐々に戦争を厭わない排外国家になっていく。
けれども、安倍政権・自民党・公明党が社会に与えた打撃としてもっと大きいのは、この牧野氏の指摘することではないか。

安倍氏が政権を取ってから、排外主義とレイシズム、市民的権利や抵抗への軽侮、言論弾圧、メディアコントロール、個人攻撃、そして権力の専横と傲慢とが一気に目立つようになったことを思い起こそう。権力者が持つムードは社会に影響し、それがまた権力者の言動を強化する。

「守る」という言葉は、敵がいることをほのめかして、この問題については自分に任せればいいと、相手の知る意欲を奪い、自分に従わせ、他に問題があっても守ってくれるんだからと欠点に目をつぶらせる、マジックワードだ。
「マモルくん」たちの常套手段、効率のいいコントロール方法は、相手が萎縮し、自分で自分の行動を制限していくように仕向けること。
恐怖で動けなくさせることもそうだし、人に任せておけばいい、やってもムダだと、諦めさせることもそう。
それは、わたしたちが本来自由なのだと気づかせないために、周到に張り巡らされた罠なのだ。
ここで言う「マモルくん」は、家族や恋人も含むあらゆる関係における権力や政治性を意味している。こうした視角はジェンダー論の人らしいなあと思うと同時に、安倍氏や自民党的な国防意識の奥底を照らし出してくれている。
わたしたちは自由だと思い出そう。
言葉を大切に使い、小さいことをないがしろにせず、知恵を出し合い、エールを送り、時に叫ぼう。
違和感を無かったことにしたり、怒りを押し殺すのはなく、語りあって、共有していこう。
出来事を冷静に見つめ、でも決して落胆するのではなく、笑い飛ばしもしながら、熱く、のびのびと毎日を送ろう。


わたしたちは知っている。
「マモルくん」たちが恐れているのは、わたしたちが「自由」だということに「気づく」ことだ、と。
わたしたちには力があることに「気づく」ことだ、と。
気づいてしまったからには、もう後戻りは出来ない。
気づくことと行動することは違う?
でも、気づいてしまったら、見える世界がかわったでしょう?
あなたはもう、前と同じじゃない。


前を歩く人たちの姿が見える。
わたしも、後に続きます。

ポエムチックではあるが共感する箇所。
理想社会の建設に参画する私たちという視点は左翼の専売特許ではなくて、右翼も宗教集団も皆持っていると思うが、何というか、因習や制約からの解放と人間本来の自由の実現というあたりが左翼っぽいなあと思う。

思えば私がそういう感覚を持つようになったのは、フェミニズムにはまだ到達しない伝統左翼的な婦人運動の影響を受けてからだった。封建的女性性からの解放と「私らしさ」の回復というテーマはそうした婦人運動の中にもあった。それと同時に「母親」や「妻」が本来的に持つ感情や家族愛という前提もまた色濃くあったけれども。
今興味深く思うことは、そうした女性性からの解放と母・妻としての願いという一見奇妙な両立から、全ての子供を本来的には自由な存在だとする意識が生まれていたことだ。そして、大上段に振りかぶらなくても、日々の生活の中に政治と運動とがあり、抵抗は密やかに、したたかにつづけることができ、それは情感豊かに彩られてよいものだということもまた、この婦人運動に関わる人たちから知ったことだ。このしたたかさ、柔軟さ、粘り強さ…というかあきらめの悪さというか?は人民主義的なものにもあるけれど、私自身の経験では、女性解放運動を知ることで学んだものだった。

牧野氏のコラムからもう一つ。

Love Piece Club - 第六回  「国防男子」マモルくんたちが、実際に「守る」のは、人ではなくて「命令」「指示」。 / 牧野雅子

彼らは自分の職業生活を振り返って、言う。「守れる自分が誇らしかった」。
一見、良さげな感じ。自分の仕事を誇りに思っているって素晴らしい、なんて声も聞こえてきそう。でも、ベクトルが違うのだ。彼らは、目の前の助けるべき相手ではなく、自分に目が向いている。救助のことを語る時、相手が助かったことを喜ぶのではなく、「助けたオレってすげー」という文脈で彼らは語る。「オレってすごくないっすか」「オレを認めて」「オレを褒めて」っていうオレサマ目線。被害者も被災者も、自分は人助けが出来る人間だと思わせてくれる、オレサマ物語の脇役として見ているんじゃないかと思うくらい。実際には、体力もスキルもある彼らは、現場では活躍したことだろう。感謝されもしただろう。でも……。
この指摘はいいところを付いていると思う。マッチョなヒロイズムにはこういう自己陶酔のための示威行動という側面が確かにあるように思える。

そこからの連想なのだが、職業倫理とか使命感というものが職業人の「徳」だとするなら、この「助けたオレってすげー」意識というのはそれと重なっている部分があるのではないか。自己愛や承認欲求は倫理や節制、自己犠牲に伴う徳や名誉、誇りを、少なくとも部分的に支える感情なのではないか。

正しくあること自体への喜びが原動力というよりも、正しくある自分という自己像を確認することに喜びを感じ、それが規律や忍耐の原動力となる。これは本来の道徳的要請からすれば転倒であって道徳的に正しくはない。行動や結果が同じであろうとも、動機が正しさへの希求になく、正しい自分という虚像への希求であるから。
しかし、誤りであるにもかかわらず、いやむしろ自己愛に裏打ちされているからこそ、一層強く「良い」行動へ自己を律することができるという場合があり得る。そして、「徳の高い自分」、「社会的評価の高い自分」を得たいという欲が個人の道徳性追究の原動力となる場合の方がむしろ多いのではないか。

もちろん、自己愛と名誉のための献身は、しばしば本来の人助けにならないばかりか、むしろ他人を犠牲にする悲惨を引き起こす。そしてさらに厄介なことには、その張本人たちはこの本末転倒に気づかないばかりか、その悲劇すら自己の英雄譚の中に回収して誇示してしまう。

しかし、こうした危険にもかかわらず、この自己効力感への欲望と承認欲求とが(道徳的に正しいかは別として)結果的に正しい行動へ人を駆り立てる力となるのであれば、その有効性は一定程度認めなければならないのではないか。

サンデルは『これからの「正義」の話をしよう』の中で、名誉や社会的な徳への欲求をカントやロールズの正義論では捉えられないものとし、これらを包含した正義の概念を構築しなければ政治上の対立や価値観の断絶を乗り越えられないと主張している(と思う)。そして、その可能性を「物語の中に生きる自分」というマッキンタイアの人間観を引きながら、社会(共同体)の一員として自己を規定する方向に見いだす。なるほどコミュニタリアン(コミュニストではなく)と呼ばれるゆえんだと思う。この方向性は、正直、悠久の大義に殉ずる流れにつながりかねないから私は好きではないが、しかし、彼が歩行困難なプロゴルファーや車いすのチアリーダーに対する攻撃の例を引いて、これらの攻撃者らの動機が「オレってすげー」という名誉を守ることにあった、そしてこれらの欲求を公的的に解消することが社会的に必要だという指摘はもっともだと思う。

「徳を高めたい」という動機と「徳の高い人になりたい」という動機を分離することができるのかは簡単に答えられない問題だろう。そして、もし分離できないのだとしたら、「自衛官、警察官、消防士、医師……」などの「「守る」事を仕事にしている人たち」(個人的には、税関や入国管理局なども入れてほしい)が、「守る」対象を自己愛の道具にしないような枠組みや仕組みが必要になるのではないか。仮に、彼らの存在が必要悪であるとすれば、自己肯定感を維持できるアイデンティティをどのように確保すればよいのか。邪悪も弱きものも存在しない世界で彼らが規律と誇りを持てる物語は何になるのだろうか。

9条的平和観への反感がこうした名誉欠乏のフラストレーションから来ているとしたら、結構根深いなあと思った次第である。


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