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2015/10/12

自分のフレーム(偏見)を越えるということ

他人の権利を制限するために第三者の権利を擁護する、あるいは擁護するふりをする人~補助犬の入店拒否事件 - davsの日記

こんな記述を読んだら、障害者がその障害を理由に特別扱い(特別扱いではなく、マジョリティと同じように行動できる条件整備であるが)を要求していることに憤っているとしか思えない。犬嫌い・犬アレルギーの人間のことも、マイノリティの権利の主張をくじくための手段にすぎないのだろう。
至言。

「特別扱いの要求」=「弱者の横暴」
と見えてしまうことが、すでに認識の偏りを示している。
そこには、ノーマライゼーションや福祉の概念における認識の発展が見られない。

「特別扱いの要求」が、「特別扱いではなく、マジョリティと同じように行動できる条件整備である」こと。

この考え方の存在を知っているか。この考え方が腑に落ちているか。
ここには「特別扱い」が弱者の横暴と見えてしまうフレームからの転換があるのだが、一旦この前者のフレームを定着させてしまった人にとっては、この転換を自然に行うのは難しいだろう。

マイノリティの権利獲得を「弱者の横暴」と見る人たちのフレームを「強者の偏見」と名づけると、そこには、自由人同士のフラットな権利関係が広がっており、したがって、任意の人の権利要求は他の人の権利侵害との公平な調整のもとになされなければならないわけである。
この観点が「強者の偏見」であるゆえんは、社会的不平等や権力関係、支配・被支配関係の存在を前提としていないところにある。ゆえに、障がい者であろうと被差別者であろうと、全ての人は現在容認されている権利範囲を拡張しようとするならば、それによって不利益を被る可能性がある全ての人々に対して、その権利拡張の要求の正当性を了解してもらう必要がある。そして、この利害調整が済まない間は、この権利拡張を実行してはならないと考えるわけである

したがって、このフレームを持つ人からすれば、「犬嫌い・犬アレルギーの人間」という現実的妥当性がどの程度あるか不明な存在を潜在的利害関係者として持ち出し、彼らの権利を主張することは非常に自然であり、かつ正義に適うことでもある。社会が多様である以上、およそ想像できるならばその実在は十分可能性があることであり、そして実在するのであれば、その種の人が世界にたった一人であったとしても、その人の権利は守られなければならないからである。
早い話が、全ての人は、自らの権利を主張するならば、他の全ての人の権利を尊重しなければならない。言い換えると、他の全ての人の権利を侵害しない場合に限り、自己の権利を主張することができると考えるわけである。

この倫理を主張し、盲導犬利用を要求した人の誤りを指摘するための表現として、「犬嫌い・犬アレルギーの人間」という話を出したのであるから――現実にその場で「犬嫌い・犬アレルギーの人間」が存在してその人々との利害調整の必要が生じたわけではないのだから――まさに、この主張は「マイノリティの権利の主張をくじくための手段」だと言えるわけである。

最近私が興味を惹かれているのは、この種の倫理観が理性ではなく感情と結びついていることである。
上で紹介した記事に現れる「違和感」「クレーマー」「勝手な思い込み」「勘違いも甚だしい」「脊髄反射」「人間の躾」等々の表現は、強者の偏見を持つ人々の主張が、マイノリティの要求に対する感情的反発――倫理的怒り――を原動力としていることを示している。
私には、どんなことに倫理的怒りを感じるかがその人がフレームを示しているように思われる。そして自分のその怒りの正当性を疑っても見ない人ほど、自らのフレームに無自覚であるように思われる。

店内での盲導犬利用あるいは盲導犬利用を要求する行為に倫理的怒りを覚える人たちにとって、この取り組みが「環境整備」だという考え方は理解しづらいだろう。またこの考え方に対しても同種の怒りを覚えるかもしれない。この考え方を理解するには認識上の飛躍が必要である。しかしその飛躍がないかぎり認識の矮小さと独善性とからは逃れられない。たとえ他者の権利の相互尊重と利害調整という道徳的フレームを前提するにせよ、他者の権利の概念自体が自分にとってそもそも理解可能とは限らないということを認めなければその道徳的フレームに忠実にはなれないし、フレームの多元性を認めないままにこの強者の偏見を支持するのであれば、それは結局のところ、自分の感情に沿う行為だけを正義と認めるという自己中心的立場にすぎないからである。


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