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2015/10/02

ポルポト、アパルトヘイト、アジア太平洋戦争。族社会の名誉と民主社会の倫理、加害のトラウマと責任回避

「ポル・ポト<革命>史 虐殺と破壊の四年間」山田寛 著 | Kousyoublog

こちらの記事にある次の言葉。

『名誉の精神は、基本的に民主主義と相容れない』(「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」P350)
『人は族的な集団のなかで生きている。集団に求められたことを首尾よく成し遂げたときに人は名誉を感じ、集団の期待に反したときに恥や裏切りの感情を抱く。主流の体制から排除された集団にとって、名誉や恥は生き残りのための行動原理となり、人々の関係性に規律をもたらす。他方、罪の領域は、人の社会的属性とは無関係に、一人ひとりが対等に扱われる個人の世界に属している。そこで問題になるのは善悪を区別する倫理と行為であって、観衆が人の行為をどう見なすかは関係ない。』(「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」P413)
上記Kousyoublogのブログ主さんによれば、「カントリー・オブ・マイ・スカル」の著者クロッホは、族的集団における名誉の論理と民主社会的な倫理の論理との矛盾とを前提として、
族的な名誉と倫理を規範とする社会とをどう繋ぐかという試みとして南アフリカの真実和解委員会の活動を位置づけた
のだという。

先日、「牧野雅子氏のコラムからの思いつき」と題したエントリで、マイケル・サンデルが社会の統合を目指すためには名誉の問題に取り組まねばならないと論じていることに触れた。サンデルがそこで問題視していたのは今のアメリカ社会に広がる断絶で、アパルトヘイト後の南アフリカは関係なかった。なのに、同じ問題に行き着いている。

Kousyoublogでは、この「カントリー・オブ・マイ・スカル」の書評もされている。
「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」アンキー・クロッホ 著 | Kousyoublog

こちらで紹介されている記述もなかなかすごいが、含蓄のこもった部分をいくつか抜粋しておく。

アパルトヘイトの特徴として被害者・犠牲者だけでなく加害者の側にも広く心的外傷(トラウマ)が見られるのだという。誰もが、体制の中で自らの職務として拷問・殺人・暴力の行使に手を汚し、そのゆるしを求めて心に深い傷を負っていた。

ここには国家の犯罪をどのように裁くのか、という難題が横たわっている。実行者として手を汚した多くの公務員たちが心に深い傷を負い、さらに法的な裁きにも直面させられる一方で、政治的妥協の産物として生き残ったアパルトヘイト体制を主導した国民党の中枢は、TRCにおいて切断処理を行おうとする。デクラークは公聴会で『過去になされた人権侵害は、ひどい裁判や、個々の警察官の職務にあまりにも熱心すぎるか怠慢だったことが原因だ』(P172)とのうのうと言ってのけ、激しい非難を浴びた。

加害者自身が負うトラウマ、そして指導者の責任回避という問題がここにも現れている。
そして、政治指導者へ我々「民衆」が持つべき姿勢と責任について。
『人は政治家に道徳性を期待することはできない。ただ、彼らに説明責任という倫理をまっとうさせることはできる。
意義ある変化を望むなら、政治は過去の悪弊の繰り返しを防がなければならないし、可能ならば起きてしまったことに対しては償いをしなければならない。
ときには、真実と正義を天秤にかける必要があるだろう。われわれは真実を取るべきだ、と彼は言う。真実は死者を蘇らせることはないが、死者を沈黙から解き放つ。
共同体は過去の一部を一掃すべきではない。なぜなら、嘘と矛盾によって満たされるだろう空白を残すことによって、起きたことの収支報告を混乱させることになるから。
犯罪者は、みずから行った過ちを認める必要がある。なぜ?それが、社会が共有できる出発点を作り出す。過去ときっぱり手を切るためには、道徳の道しるべが過去と未来の間に立てられる必要がある。』(P42)
このあたりの記述は、どうしても日本の戦争責任問題への姿勢への指摘のように読めてしまう。それと同時に、なぜ我々が日本の戦争責任問題に向き合うべきなのか(「保守」的に言えば、なぜ我々は謝りつづけなければならないのか)への一つの答にもなっている。

実際、クロッホはルース・ベネディクトの「菊と刀」から当時の日本社会における名誉と恥の概念を参考にしているというから、南アフリカの状況は我々にも身近な問題として迫ってくる。それどころか、ブログ主氏の議論では、それはポルポト革命にもつながっているのではないかというのだ。

これと同じ構図がクメール・ルージュにも見て取れそうな気がするのだ。すなわち「クメール・ルージュの名誉を守るためには、どんなことでも許された――たとえそれがもっとも恥ずべき政策であっても」ということなのではないか。倫理と名誉とをつなぐ社会をどう構築するか、ポル・ポトをはじめとする殺戮と革命の歴史はその問いを投げかけているように思える。
私はこれまで漠然と、民主主義や市民社会の基礎は個人の自由に依拠した社会契約で、理性に基づく個人の基本的人権の尊重を追求しさえすれば――もちろんそこには種々の利害などの調整が必要であるわけだが――個人の尊重と社会の調和とが達成されるのだろうと思っていた。
けれども、日本を含む多くの社会が経験したこの混乱と残虐、その後遺症とを見ていくと、理性に基づく自由と個人の尊厳という文脈とは異なる意味での倫理や道徳を民主主義社会に持ち込まざるをえないのではないかという気がしてくる。コミュニタリアン的な話にには危険な臭いを感じるのだが、それでもなお、その問題を考えることは民主主義の理想、即ち普遍的人権の尊重と平和で安定した社会の実現を目指す上で避けられないように思う。


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