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2015/10/24

志布志、枇杷島と戦争遺跡

1945年秋、幻の南九州決戦 「一億総特攻あり得た」:朝日新聞デジタル(2015年10月24日07時31分)

 1945年11月1日、米軍は南九州への上陸を計画し、日本軍も応戦の準備をしていた――。実際には8月に降伏し、本土決戦は現実とならずにすんだが、各地の遺構は「一億総特攻」も辞さない当時の戦いのかたちを物語る。史実を語り継ごうという動きもある。

■「新兵ばかり、無知の勇」

 おだやかな海に緑の小島が浮かぶ。鹿児島県志布志市の港から約4キロ。枇榔(びろう)島には、その名の由来となったビロウ樹など亜熱帯性の植物が茂る。

 太平洋戦争末期、米軍は志布志湾、吹上浜(鹿児島県)、宮崎海岸(宮崎県)の3カ所から上陸する「オリンピック作戦」を計画。日本も本土決戦を覚悟し、志布志湾は主戦場に、枇榔島は最前線になると考えられたという。

 宮崎県えびの市出身の中原精一さん(87)=東京都=は45年7月に召集され、島に配属された。

 当時の「肉弾訓練」を振り返った。

 爆弾に見立てた木箱を抱え、草むらで息を潜める。上官の合図で浜辺へ飛び出し、敵の水陸両用戦車の下へ滑り込む――。「もっと速く低く走れ」。毎日のように怒鳴られ、「恐怖を感じる余裕もなかった」。

 戦後、沖縄戦の映像を見た。圧倒的な砲爆撃や火炎放射で焼かれる様子を見て体が震えた。「米軍が上陸したらひとたまりもない。新兵ばかりで、無知の勇。戦争を知らないまま戦わされようとしていた」

 枇榔島は1周約4キロの無人島。許可を得て上陸すると、塹壕(ざんごう)やコンクリートの建物跡が残っていた。

 市史によると、志布志湾岸に要塞(ようさい)や砲台が造られた際は旧制中学の生徒らが動員された。元志布志町議の林春義さん(83)もその一人。終戦直前、3クラスが10日ずつ交代で島に渡り、塹壕を掘ったという。「米軍の上陸予定地だったことは公然の秘密だった。口に出すのは厳禁。地元は緊張していた」と話す。

 陣地は、鹿児島県西部や宮崎県の沿岸にも構築された。福岡県で陸軍の戦車隊にいた八児(やちご)雄三郎さん(90)=東京都=は45年1月、宮崎県日南市に転属した。戦闘機の部品を盗み、操縦不能にする。敵が宿営する建物に侵入する。冷たい海に入り、敵の船に爆弾を装着する――。こうした訓練が実施された。

 9月、宮崎に講演で訪れた八児さんは「国民は竹ヤリで米軍を迎え撃つ準備をしていた。そんな『本土決戦』が間近に迫っていたことを若者に知ってほしい」と語った。

ログイン前の続き■遺構保存の動き

 本土決戦に備えた遺構を保存、活用する取り組みが各地で進んでいる。鹿児島県志布志市の埋蔵文化財センターは今夏、「オリンピック作戦と志布志」と題した戦後70年記念展を開き、米軍の侵攻計画ルートや日本陣地のパネルを示した。

 鹿児島県は、志布志湾岸の大崎町にある防御陣地の遺構に通じる道を整備し、案内板を設けた。大崎町も昨年から年配の住民に聞くなどして、砲台跡などがある場所の把握に努める。

 鹿児島湾の沿岸にある鹿屋市は、海軍砲台跡やトーチカなどの文化財指定に向けて調査している。市は今春、30~70代の住民13人を「平和学習ガイド」に認定。遺構を訪れる人に、造られた背景などを解説してもらっている。(中村光、上遠野郷、奥村智司)

■米軍、数十万人の上陸作戦

 旧防衛庁防衛研修所が戦後にまとめた「戦史叢書(そうしょ)」などによると、45年8月に終戦とならなければ、米軍は宮崎、鹿児島の3カ所から上陸し、約3千隻の艦隊、数十万人の部隊を投入して両県の大半を占領する計画(オリンピック作戦)だった。翌年3月には九十九里浜と相模湾にも上陸し、東と西から挟み撃ちにして首都をねらっていた。

 日本軍は迎撃を準備したが、戦力の差は歴然。「本土決戦幻想」の著書がある作家、保阪正康さんは日本軍の迎撃について「もはや軍事作戦と呼べるしろものではなかった」と指摘する。「米軍が来ても動くなと軍から命じられた」との住民証言もあったという。

 「『一億総特攻』は単なるスローガンではなく、十分起こりえた現実。戦争の終わり方を考えなかった当時の日本の戦争観を総括しないと、現代社会でどんな軍事的組織をもつかという議論もできないはずだ」(岩崎生之助)

■米軍、情報力でも圧倒

 手帳ほどの大きさの古びた冊子がある。鹿児島、宮崎両県の軍事施設の解説から、人口分布、畑の作物の種類まで記されている。印刷の日付は「1945年7月20日」。鹿児島県大崎町のNPO事務局長、堀之内裕行さん(52)が数年前、海外のオークションサイトから入手したものだ。

 米軍が日本占領期に作成した地図に詳しい赤木祥彦・福岡教育大名誉教授は、米軍特有の地図規格を示す記号が記されていることなどから、米軍が上陸に備えて作ったとみている。

 「情報力も戦力も圧倒されていた。本土決戦なんて勝ち目がなかった」と堀之内さん。母親は当時、女学生だった。「沖縄戦のひめゆり部隊のように母も命を落としていたかもしれない。そうなれば私もこの世にいなかったでしょう」

枇杷島行ってみたいなあ……。写真が美しい。


画像(※FreezePageでは下へスクロール)
1.枇榔島に残る旧日本軍の弾薬庫とみられる建物跡=鹿児島県志布志市、中村光撮影FreezePage
2.海上から見た枇榔島=中村光撮影FreezePage
3.米軍が1945年11月に上陸を予定していた志布志湾岸。奥に見えるのが枇榔島=鹿児島県志布志市、中村光撮影FreezePage
4.かつての武器庫だったとみられる遺構。見つかりにくいようにするためか、入り口につながる道は湾曲している=鹿児島県志布志市の枇榔島、中村光撮影FreezePage
5.枇榔島で塹壕掘りなどの作業に動員された林春義さん。「地盤が固くつらい作業だった」と振り返る=鹿児島県志布志市、奥村智司撮影FreezePage
6.霧島部隊の体験を語る八児雄三郎さん=宮崎市FreezePage
7.米軍作成とみられている冊子。「敵の手に渡りそうになったら破棄せよ」と書かれている=上遠野郷撮影FreezePage
8.堀之内さんが入手した米軍の冊子に収められた志布志市街地周辺の航空写真。日本軍の軍事施設が詳細に記載されている。FreezePage
9.南九州にある本土決戦用の遺構FreezePage


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