重さ
とてもよい記事。心に響いた箇所をこの記事の後に抜き書きしておく。
アンネの義姉「重荷だった」 日記に書かれなかった苦難:朝日新聞デジタル(2015年6月11日05時08分)
「アンネの日記」で知られるアンネ・フランク(1929~45)の「影」と呼ばれたユダヤ人女性がいる。同い年の友人で、後に義理の姉となるエバ・シュロスさん(86)。アンネはナチスの強制収容所で命を落としたが、エバさんは生還した。戦後70年の今、義妹アンネへの複雑な思いと激動の半生を語った。以下に、印象的だった部分を抜いてみる。「アンネには、少女とは思えない、どこか近寄りがたいオーラがあった」
ロンドン市内の自宅で4月、エバさんはアンネとの数奇な縁を語り始めた。
エバさんは1929年5月、ウィーンで製靴工場を営むユダヤ人中流家庭に生まれた。両親と3歳年上の兄との穏やかな暮らしに暗雲が垂れこめたのは33年、エバさん4歳の頃。隣国ドイツにヒトラー政権が誕生し、ユダヤ人排斥のうねりは欧州に広がっていた。
10歳になった39年、第2次大戦が勃発。一家は追われるように、オランダのアムステルダムに移り住んだ。近所に住んでいたのが、同い年のアンネ・フランクだった。
「アンネはファッションやヘアスタイル、男の子にも興味があった。うぬぼれも強く、おしゃべり。私とは正反対だった」と、当時を振り返る。アンネは「友人の一人」に過ぎなかった。その後、2人の人生が複雑に絡み合うことなど予想もしなかった。
まもなく、オランダにも独軍が侵攻。エバさん一家は抵抗組織の助けで、隠れ家に潜んだ。同様に身を隠したアンネに会うこともなくなった。潜伏生活が2年余り続いたある朝、「密告」を受けたナチス親衛隊に踏み込まれる。
一家は拷問にも等しい取り調べを受け、ポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所へ。最愛の父と兄から引き離され、エバさんは母のエルフリーデさんと共に近くのビルケナウ強制収容所に入れられ、飢餓と過酷な強制労働でやせ衰えていった。シャワー室に入れられるたびに「毒ガス」におびえ続ける日々。便所はバケツ1個。5人が一つのコップで奪い合うようにスープをすすった。家畜のような扱いに何度も高熱を出し、生死の境をさまよった。
収容から約8カ月後の45年1月27日、ソ連軍が収容所を解放。エバさんは九死に一生を得た喜びをかみしめる間もなく、父と兄の悲報を知る。「兄は終戦の約1カ月前、父はわずか3日前に力尽きた。私と母が無事なことも知らずに」
アンネも独北部の収容所で命を落としたが、生き延びたアンネの父オットーさんが戦後、エルフリーデさんと再婚。エバさんはアンネと義理の姉妹となった。
「重荷だった。その後の私の人生は、まさに『アンネの影』だった」
■嫉妬を捨て「日記」の続編
「アンネの日記」がオランダで初出版されたのは終戦直後の47年。その後、世界中に広まったが、そこには父オットーさんの熱心な「宣伝」があったという。
「オットーは、アンネを救えなかった自分を責め続けた。アンネが残したメッセージに救いを求めた」と、エバさんは考える。
だが、当時のエバさんの心に、アンネの言葉は「響かなかった」。アンネが日記の中で「人間の本性は善だと信じている」と吐露するが、エバさんは「収容所での経験をする前に書かれたものだから」と思わずにはいられなかった。収容所には冷酷なナチス将校だけでなく、生き残るためには他人を顧みない収容者もいた。極限状態の「人間の本性」を見せつけられた。
エバさんの憎悪は、ナチスの残虐行為を止められなかった「世界」にも向けられた。アンネに執着する継父オットーさんへの複雑な思いもあった。心の中に渦巻くどす黒い感情。「この世にいないアンネばかり注目され、生き残った私は苦しみを抱えて生きている。それが許せなかった」
救いの手を差し伸べたのは、他ならぬオットーさん。「人を憎めば自分を惨めにするだけだ」とエバさんに諭し続けた。いてついた心はぬくもりを取り戻していった。「私はアンネに嫉妬していたのです」
エバさんは収容所体験を人前で語ろうとはしなかった。終戦直後、世間に過去を振り返る余裕はなかった。「数十年たって世間に心の準備ができた時、元収容者の多くは偏見を恐れて過去を語りたがらなかった。子どもたちに重荷を背負わせたくなかった」
転機は40年以上たった86年。ロンドンで「アンネの日記」のイベントに招かれ、促されるままに収容所体験を初めて告白した。聴衆は衝撃を受け、「アンネの続編」を書いて欲しいという依頼が殺到。迷った末、受け入れた。「アンネの日記は素晴らしいが、収容所のことは書かれていない。それだけでは真のホロコースト(ユダヤ人らの大量虐殺)を伝えることはできない」と考えたからだ。
エバさんは戦後、しばしば悪夢に襲われた。自分と母が、ガス室に送られる「死の選別」を受ける場面だが、「収容所体験の話を人前でするようになって、悪夢はとまった」と言う。
戦後70年の今年、エバさんは各地のイベントや学校で講演している。終戦記念の5月8日の前後には、ドイツのテレビ特番にも出演した。
ナチスの残虐行為について「ヒトラーの命令に逆らえなかった」と釈明する将校もいるが、エバさんは「多くの人が当時、残虐行為に喜んで手を染めていた」と憤る。一方で、ドイツ人の若い世代に、こう諭す。「祖父母のしたことに罪の意識を感じることはない。ただ歴史を学び、それを忘れないでいてほしい」(ロンドン=玉川透)
◇
〈アンネの日記〉 アンネ・フランクはナチスのユダヤ人迫害から逃れるため、アムステルダムの隠れ家に家族とともにこもった。44年に逮捕され、ドイツの強制収容所で15歳の生涯を閉じた。隠れ家での生活、戦争や家族への思いをつづった日記は世界的ベストセラーになり、60以上の言語に翻訳されている。
だが、当時のエバさんの心に、アンネの言葉は「響かなかった」。アンネが日記の中で「人間の本性は善だと信じている」と吐露するが、エバさんは「収容所での経験をする前に書かれたものだから」と思わずにはいられなかった。収容所には冷酷なナチス将校だけでなく、生き残るためには他人を顧みない収容者もいた。極限状態の「人間の本性」を見せつけられた。この段落の上に収容所生活の恐怖が少し触れられているが、そのものすごさがどれほどのものであったのか、ただただ言葉もない。
エバさんの憎悪は、ナチスの残虐行為を止められなかった「世界」にも向けられた。アンネに執着する継父オットーさんへの複雑な思いもあった。心の中に渦巻くどす黒い感情。「この世にいないアンネばかり注目され、生き残った私は苦しみを抱えて生きている。それが許せなかった」この箇所はものすごい。激烈な悲惨を経た上で、なお、複雑な愛憎の中にあり、その上で、その愛憎を引き起こした中心でもあった義父の、その呼びかけに響いていく心の動き。その多重構造の中で癒しが進んでいくというのは、エバ氏、オットー氏の双方の心情を思えば、ただ壮絶としか言いようがない。そして、そのような「ぬくもりの取り戻し方」があり得るのだということにも、ただ感嘆するしかない。救いの手を差し伸べたのは、他ならぬオットーさん。「人を憎めば自分を惨めにするだけだ」とエバさんに諭し続けた。いてついた心はぬくもりを取り戻していった。「私はアンネに嫉妬していたのです」
「数十年たって世間に心の準備ができた時、元収容者の多くは偏見を恐れて過去を語りたがらなかった。子どもたちに重荷を背負わせたくなかった」被害者、犠牲者が、声を上げられない、声を上げることとためらう心情がここにも現れている。従軍慰安婦問題などで「今頃になって糾弾し始めるとは」という非難がしばしばあるが、そのような非難が全く失当であることの傍証になっている。
エバさんは戦後、しばしば悪夢に襲われた。自分と母が、ガス室に送られる「死の選別」を受ける場面だが、「収容所体験の話を人前でするようになって、悪夢はとまった」と言う。まず、「死の選別」という言葉の恐ろしさ。
記事で「シャワー室に入れられるたびに「毒ガス」におびえ続ける日々」とあるように、収容者には、「シャワー室」が何を意味するかが知られており、その「選別」を何度も受けなければならなかったのだろう。その恐怖のすさまじさと、その後遺症の深刻さに身の毛がよだつ。
そして、その体験を話すようになって悪夢が止まったということの意味。PTSDの癒し方の典型でもあるが、心の苦しみ、抱え込んだものの吐露がいかに大切かを改めて考えさせられる。そのような場を周囲の人に自分が作ってやれているのかということも思わされる。
ナチスの残虐行為について「ヒトラーの命令に逆らえなかった」と釈明する将校もいるが、エバさんは「多くの人が当時、残虐行為に喜んで手を染めていた」と憤る。一方で、ドイツ人の若い世代に、こう諭す。「祖父母のしたことに罪の意識を感じることはない。ただ歴史を学び、それを忘れないでいてほしい」「残虐行為に喜んで手を染めていた」という言葉は、非常に重い。自分がそうならないとも限らない、いや、もうそうなっているかもしれないと気づかされるから。もちろん、この「手を染める」という言葉は、直接に手を下すという意味にとどまらず、構造的暴力の一端を担っているという意味をも含むと解釈すべきだろう。
また、「罪の意識を感じることはない……忘れないでいてほしい」の下りには、複雑なものを感じる。確かに我々は、直接、当時の社会の犯罪に責任はない。しかし、その社会を引き継いでいるものとして、その犯罪への反省と償いを、その教訓の継承を、どれほどまともに行えているだろうか。当時の行為への直接的な罪は感じなくてもいいかもしれない。だが、その行為が残した課題をろくに果たせていないことへの罪の意識は持たざるを得ないのではないか。エバさんのこの言葉は、日本が引き起こした戦争の被害者たちの言葉と共通しているのだが、当事者であるエバさんからこのような言葉をかけてもらうことが、やはりとても切なく、かえって苦しい。
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この記事の関連としてリンクされていた記事を貼っておく。
「傍観者になるな」記憶の継承訴え アウシュビッツ式典:朝日新聞デジタル(2015年1月28日12時09分)
ポーランド南部オシフィエンチムで27日開かれたアウシュビッツ強制収容所の解放から70年を記念する式典で、元収容者らがスピーチし、広がる過激主義や反ユダヤ主義への危機感と、ナチス・ドイツの残虐行為をめぐる記憶の継承を訴えた。「傍観者になるな」とは、本当に重い言葉。式典は、ガス室で大量虐殺があったオシフィエンチム郊外のビルケナウ収容所跡で行われ、元収容者300人のほか大統領、国王らを中心に40カ国以上の代表団が出席。しかし、主催のポーランド国立アウシュビッツ博物館は元収容者の高齢化から「直接の記憶を引き継ぎ、証言を新しい世代へとつなぐ節目の式典」と位置づけ、各国代表団のスピーチは行われなかった。
収容所ゲートを覆うテント内の会場で、演壇は鉄道の引き込み線がガス室施設へと続いた「死の門」の建物に設けられた。米国在住の元収容者ロマン・ケントさん(85)は、「今も恐怖は私の心にある。ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)も、現代の虐殺やテロ事件も伝えなくてはならない。偏見と憎しみが広がったときに何が起きたかを、次世代に伝えなくてはならない」と涙ながらに語り、「傍観者になるな」と訴えた。
元収容者によるユダヤ教の鎮魂歌の独唱に涙する出席者も多かった。(オシフィエンチム=喜田尚)
戦争や虐殺ではもちろんだが、日常であっても「傍観者になるかどうか」が問われる様々な場面がある。仲間の嫌な言動に異を唱えられるか、友達のいじめを見て見ぬふりをするか、会議で少数意見を述べられるか、不当な賃金や待遇面での違法行為を告発できるか、「空気」を読まない発言をできるか、日の丸君が代の強制に反対できるか、政治的意見を表明できるか、目の前の差別を止められるか。
こうした小さな事々の積み重ねが、私たちの社会の「空気」を作り、時代を作っていく。その重さをどこまで引き受けられるのか。自己保身と家族を言い訳にした「傍観者」への強い誘惑にどこまであらがえるのか。
上の記事でエバ氏が述べた「残虐行為に喜んで手を染めていた」人々に自分がつながっていることを改めて思う。
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