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2015/12/14

南京大虐殺の記念日と日本の報道

戦後70年目の12月13日はあらたな“国恥”記念日 - Apes! Not Monkeys! はてな別館(2015-12-13)

こちらに触発されて。

私自身は南京事件を問題にする際に、特に12月13日という日付にこだわるつもりはありません。「12月13日」というのが南京城内にいた人々の認識を反映したものであって、虐殺全体の広がりを認識するうえでは妨げにもなりかねないからです。
これが重要な指摘であることには重々留意した上で。

確かに、Googleのニュース検索では、南京大虐殺を我々の事件として我が身に引き受ける報道はほとんど見つからなかった。唯一、レイバーネットが気を吐いていたぐらい。だが、レイバーネットはいわゆる「マスコミ」……大手メディアではない。むしろ運動体と言うべきだから、報道としてはほぼ壊滅的だと言っていい。

だが、わずかにそれらしい報道もあった。中国の南京大虐殺記念行事を反日策動のごとく報じる記事、南京大虐殺否定を声高に論じる記事がずらりと並ぶ中に、そうした記事がわずかに残っている様子は、ブルドーザーが走り回る開発現場で最後に残った野の花の情景を思い起こさせた。記念にそっと写しておく。

南京大虐殺 | 生存者自身が語る 東京で9日、最後の証言集会 - 毎日新聞(2015年12月2日 東京夕刊)

 市民団体の連絡組織「南京大虐殺60カ年全国連絡会」が約20年にわたり毎年、中国・南京大虐殺(1937年12月)の生存者を日本へ招き、各地で証言集会を開いてきたが、今月上旬、大阪と名古屋、東京で開く3回で最後を迎える。来日に協力してきた南京大虐殺記念館(中国・南京市)が、生存者の高齢や健康不安を理由に終了を要請した。関係者は今後、現地での交流を呼び掛ける。【花岡洋二】

 今年は、陳徳寿さん(83)が5日に大阪、7日に名古屋、9日に東京で証言する。陳さんは当時、南京城内に住み、父やおばが日本兵に銃剣で刺し殺されたという。戦後の生活についても話す予定だ。

 連絡会は96年に最初の本格的な集会を開いた。以後も毎年、生存者を招いて10日間ほど各地で集会を開いた。招いた生存者は計30人以上で、川の中に隠れて生き延びた男性や性暴力を受けた女性らがさまざまな被害を語り、会場ごとに数十〜数百人が聞いた。渡航や滞在費は、日本の市民カンパと入場料でまかなった。

 連絡会共同代表の一人で「ノーモア南京名古屋の会」事務局の平山良平さん(67)によると、記念館とは「証言者が語る史実を定着させたい」との思いが一致していた。2001年に来日した女性は、平山さんら世話役にさえ笑顔を見せず、目も合わせなかった。「怒りを直接感じた。証言ビデオとは違う」と振り返り、証言集会が絶えることを惜しむ。

 生存者と事前に現地で会って招いてきた「銘心会南京」=大阪府=の松岡環代表(68)によると、年々、生存者が亡くなり、寝たきりになるなどしているが、話せる人は今も多い。01年からは会員らとともに現地で交流会を開くなど慰問に努めている。「本来は日本人が南京へ行くべきだ。つながり続けよう」と呼び掛ける。

 集会の日時と会場は次の通り。5日午後1時半、大阪市北区天神橋3のPLP会館▽7日午後6時半、名古屋市中区大井町のイーブルなごや(女性会館)▽9日午後6時半、東京都文京区本郷1の全水道会館。

この集会の様子を、同じ毎日新聞が記事にしている。ただし、愛知県版のみであったようだ。それもまた今の情勢を反映しているのかもしれない。

南京大虐殺 | 生存者証言「過去の悲惨な歴史、忘れないで」 名古屋・市民団体が招待 /愛知 - 毎日新聞(2015年12月9日 地方版)

 南京大虐殺(1937年12月)の生存者、陳徳寿さん(83)=中国・南京市=が7日、市民団体の招きで来日し、名古屋市中区で証言した。陳さんは、父とおばが日本兵に銃剣で刺し殺された体験を話し、「過去の悲惨な歴史を忘れないでください」と訴えた。約110人が聴き入った。

 陳さんは当時5歳。仕立て屋の父ら家族8人で南京城内に暮らしていた。12月13日に日本軍が入城し、炎が上がったため父は消火に走った。日本兵が家に来て26歳のおばを連れ去ろうとした。おばは抵抗し、殺された。陳さんは地面に転がる死体につまずきながら逃げた。

 父はその後、遺体で発見された。別の男性の話では、父は日本兵に捕らえられ、首やこめかみを刺されたという。家族は働き手を失った。母は物乞いを強いられ、結果的に一家は離散した。辛苦の末、今は再び家族8人で暮らしているという陳さんは「平和があるから幸せに暮らせるのです」と話した。

 証言に続き、参加者が意見交換した。歴史を学ぶ女子大生は「教科書は虐殺についてごく短く記述しているが、それ以上のものがあったということを理解できた」と話した。

 市民団体の連絡組織「南京大虐殺60カ年全国連絡会」が陳さんを招き、9日に東京でも集会を開く。連絡会は約20年間、毎年12月に生存者を招き各地で集会を開いてきたが、協力してきた南京大虐殺紀念館が高齢や健康不安を理由に終了を要請。生存者の証言は今回で最後になる。【花岡洋二】

生存者の証言が今年で終わる。このことの重さをかみしめつつ、そのことを報じる記事の存在のかすかだったことを覚えておきたい。

最後は辺見庸の『1★9★3★7』の書評。南京大虐殺を正面から取り上げた記事ではないが、この時期に出た加害責任を問う記事は他に見あたらなかったので、これも取り上げておく。

「南京大虐殺」が狂わせた人生 ~日本兵が犯した「生肉の徴発」の罪はまだ消えない  | わき道をゆく~魚住昭の誌上デモ | 現代ビジネス [講談社](2015年12月06日(日))

父はすでに「死んでいた」

辺見庸さんは、私の共同通信時代の5期上の先輩だ。在籍中に言葉を交わしたことは一度もない。何しろ相手は世界に名を知られた元北京特派員で、しかも芥川賞作家である。気安く話しかけられる相手ではない。

その辺見さんが『1★9★3★7』(金曜日刊)を書きながら〈ときどき吐いた。すこし泣いた。絶句し、また吐いた。そうしながら、じぶんがなにも知らないこと、さっぱり知らなかったこと、でも、知ろうとしないでここまできてしまったことを、いたく知らされた。うちのめされてまた吐いた〉という。

そんなにしんどい思いをしてまで辺見さんは1937年の南京大虐殺になぜこだわるのか。その理由は、彼の生い立ちと深く結びついているようだ。

彼の父は華中(中国中部)に3年余り出征した。帰国して石巻新聞の記者になった。復員後の父の像は、溶けかかった鉛の立像のように、輪郭のゆらぐ、いつまでも不可解な影であった―と辺見さんは書いている。

父は無口で不気味で、時々ぞっとするほど優しく、ふとどこか遠くを眺めやった。概ねいつも神経質で発作的に激怒し、反射的にどなったり殴ったり。と思うと、ラフマニノフに聴き入り、借金までしてタマの出ない台でパチンコをつづけた。

子供心に辺見さんは、そんな父を「お化け」のようだと思った。母は「あの人はすっかり変わって帰ってきた」と言い、夫が「お化け」になったのは戦争のせいだ、中国で何かがあったのだと決めつけていたという。

私は自分の身と引き比べつつ辺見さんの文章を貪るように読んだ。私の父も若いころ神経質で怒りっぽく、パチンコ通いをした。が、暴力は振るわなかった。彼は外地に出征しなかったので心に傷を負っていない。私は恵まれていたというべきか。

ヌクヌク育った私と違って辺見さんの生い立ちは凍てついた風景の中にある。しかも彼はそれを仮借なく描く。『1★9★3★7』には思わず生唾を呑み込む場面がいくつもあるが、これもその一つだろう。

〈子どものころ、あの男を、父を、殺そうとおもったことがある〉。誰もいない入江で釣りをしていたときも一瞬〈殺意がわいた。かれもそうされるのを望むともなく望んでいたような気もする。しかし、殺さなかった。かれはすでに(少なくとも部分的には)死んでいたからだ〉

それから約半世紀、父親はがんで他界する。病状が重くなったころ「あの戦争はなんだったのだろう」と呟いた。「それをだれに訊きたいの? 昭和天皇に?」

と聞かれるとうんと肯いた。

虐殺を「なかった」ことにした自分への戒め

死の数日前、「出征してからはずっと、戦後もふくめて、すべてがダメになっていった」という意味のことをうめくように告げた。楽しかったのは学生時代、ボート部員として隅田川でボートを漕いでいたころだけ。戦後も、何も楽しくなかったという。

ミイラのように小さくなった体で父親は「スヌデ、スヌデ」(=昔の石巻弁で死にたい)とかすれ声でうわごとを言った。母は「頼むからそんなこと言わないで」と涙声で懇願した。

辺見さんは〈かれはもうすぐ逝くのをわかっていて「スヌデ……」をくりかえした。病気になってからではなく、復員してきてからずっと、間欠的に「スヌデ……」をつぶやきつづけていたのかもしれない〉と語る。

ならば、彼の父は中国でどんな体験をして「お化け」になったのか。辺見さんはその謎を解こうとする。手がかりになったのは、戦中の中国にいた作家や兵士らの証言である。

たとえば1937年12月の南京について'84年8月7日の毎日新聞は元陸軍伍長の話を報じた。彼は当時のスケッチ、メモ類をもとに捕虜一万人余の虐殺を詳細に証言している。それによると、南京で捕縛された捕虜たちは後ろ手に縛られて数珠つなぎにされ、収容所から4kmの揚子江岸に連行された。

「撃て!」の命令で約1時間の一斉射撃がつづいた。捕虜たちは逃げ惑う。水平撃ちの弾を避けようと屍体の上に這い上がり、高さ3~4mの人柱ができた。

生残った者は片っ端から突き殺された。石油をかけて燃やされた。人柱は南京の空にぼうぼうと燃えた。「我部隊が殺したのは一三五〇〇であった」と元伍長はメモに記した。

南京だけではない。中国側によれば、日中戦争での軍民死傷者は3500万人以上。正確な数字かどうかはともかく、日本軍は無造作に、さしたる理由もなく、中国各地で殺人と強奪と凌辱(「生肉の徴発」とも言われた)を繰り返した。

辺見さんは〈多くのニッポン人がそうした殺人を「戦争」の名のもとに帳消しにし、きれいさっぱりと忘却している〉と述べ、亡き父に問いかける。

「あなたは中国人になにをしたのか」「気まぐれに非戦闘員を殺したことはあるか」「強姦したことはあるか」「あなたがしなくても、部下の殺人、強姦を知っていて黙認したことはないか」……。

これは辺見さん自身の罪の告白でもある。なぜなら彼は生前の父にあえて事実を糺そうとしなかったから。そのようにして〈あったこと〉は忘れられる。忘れられると〈あったこと〉は徐々に〈なかったこと〉になる。

辺見さんはさらなる問いを自らの胸に錐のように突き立てる。おい、お前、1937年の中国で、お前なら殺さなかったか。上官の命令に背けたか。多数者がリクレーションのようにやっていた強姦を、絶対にやらなかったと言い切れるのか?

私の場合で言うなら、答えはノーである。とするなら、私にできるのは1937年が20××年に再現するのを防ぐ手立てを考えるぐらいか。でも、どうやって? 答えはたぶん過去の歴史に潜んでいる。過去をないがしろにして未来は作れない。

『1★9★3★7』の最後に辺見さんも言う。〈過去の跫音に耳をすまさなければならない。あの忍び足に耳をすませ! 現在が過去に追い抜かれ、未来に過去がやってくるかもしれない〉。

『週刊現代』2015年11月28日・12月5日号より

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他方、着々と愚行は積み重ねられ、病はますます昂進していく。

自民党 | 南京大虐殺「虐殺当てはまる事実は」再検討の動き - 毎日新聞(2015年11月19日 19時13分(最終更新 11月19日 19時13分))

 自民党国際情報検討委員会の原田義昭委員長は19日の党本部の会合で、旧日本軍による「南京大虐殺」について「虐殺の概念に当てはまる事実があったのか。もう一回歴史的な事実を総合的に検討すべきだ」と述べ、政府に対し、南京大虐殺に関する見解の再検討を求める意向を示した。

 会合では、10月に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した南京大虐殺の資料が登録された問題を議論した。出席議員からは「南京事件がなかったという意見もある。歴史認識を再構築すべきではないか」「あいまいな表現をしているから国際社会からあらぬ誤解を受ける」などの意見が出た。

 政府は南京大虐殺について「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」との見解を示している。原田氏は外務省に対して、政府見解の基となる資料の提示を求める考えを示した。【小田中大】

毎日新聞は、これを論評抜きで報じている。


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