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2015/12/26

この記事を書いた記者さんの名前がすごい

安倍龍太郎さんという。

大韓航空機撃墜、米の情報操作裏付け 外交文書公開:朝日新聞デジタル(2015年12月24日22時04分

 旧ソ連の戦闘機が韓国の旅客機を撃ち落とした1983年9月の大韓航空機撃墜事件をめぐり、米国が事件直後、「民間機と知りつつ攻撃した」とソ連を非難する一方で、実際には「ソ連機は米国の偵察機と誤認して撃墜した」とほぼ正確に把握し、日本側も情報を得ていたことが、外務省が24日に公表した外交文書から明らかになった。冷戦対立の中、米国が対外的な情報操作に躍起になっていたことを裏付けるものだ。

 「極秘」とされたメモには事件2カ月後の11月14日付で、米政府高官の話として「(ソ連機は)大韓機を偵察機と誤認し、公海上に出んとしたところを撃墜した」と記述。旅客機はきりもみ状態のまま11分間飛行を続けたことなど当時未発表の内容が記され、外務省幹部にコピーが配られた。

 メモを作成したのは当時外務省人事課長で外務審議官や最高裁判事を務めた福田博氏(80)。福田氏は朝日新聞の取材に「確かに私の記録だ。米政府の相当なレベルの高官から聞き出した内容だろうが、相手は覚えていない」と話した。当時、日本政府も民間機を意図的に狙ったとの見方を示していたが、福田氏は「民間機と分かって撃ち落とすほどソ連もバカじゃないと思っていた。核戦争になりかねない」と振り返った。

米国では当初から誤認による撃墜と指摘する報道があったが、米政府は「民間機と知っていた明白な証拠がある」と否定。ソ連は「大韓機はスパイ行為を行っていた」と主張するなど互いに虚偽情報を連発し、国際世論を味方につけようとした。米政府は88年、公的に誤認撃墜と認めた。撃墜したソ連機の操縦士は後に地元メディアの取材に「民間機とは夢にも思わなかった」と回想している。

 この文書について軍事評論家の田岡俊次さんは「情報発信を内外で使い分ける典型的な宣伝手法だ。冷戦雪解けまで米側は事実を認める必要性を感じなかったのだろう」と指摘。作家の柳田邦男さんは「米側から入手した事件の記録が公になるのは初めてでは」と興味を示す一方、「メモは無批判に外務省で閲覧され、『米国の言うことは間違いない』という日本側の追従姿勢を感じる」と話す。(安倍龍太郎)

     ◇

 《「極秘」の記録を残した福田博・元外務審議官の話》 これは私が外務省人事課長時代に残した文書に間違いない。米政府の相当な高官と懇談する中で聞き出した内容だろう。これを漏らすのは秘密の漏洩(ろうえい)にあたる。決して米側から伝えられたのではなく、私が聞き出した内容だ。

 このような情報収集は日頃から行っており、誰から聞いたのかは覚えていない。民間機と分かっていながら撃ち落とすほどソ連はバカじゃないだろうと当時も思っていた。そんなことをすれば米ソは核戦争になってしまうからだ。

 あれから長い年月が経った。このように公開されるのであれば、メモは残すべきではなかったと思う。外務省はこの内容は価値がないものとして公開したのだろうが、私のような当事者がまだ生きている。情報を入手する側、提供した側の立場を考えて欲しい。

     ◇

 《軍事ジャーナリストの田岡俊次さんの話》 大韓機撃墜事件の外交文書からは、内と外でまったく別の情報を流している典型的な情報操作の手法が見て取れる。米国は当初からソ連機が誤って撃墜していたと推定していたのだろう。戦争や冷戦では虚報や誤報、プロパガンダがもっともらしく出回るものだ。

 ここからくみ取れる教訓は他国軍の行動が意図的か過失かの判断が実に難しいということだ。日本は集団的自衛権を行使できるようになるが、事態の真偽を正確に見きわめなければ情報操作に乗せられ、関わりのないはずの戦争に巻き込まれることになりかねない。満州事変やイラク戦争の例でも分かるように、戦争時にはどこの軍も自らに好都合な情報を作り出してしまうものなのだ。

)このメモが外務省の公開文書に含まれていたというのが興味深い。日本がご主人様たるアメリカ様の捏造記録を自主的に明らかにすることがあるとは。おそらく事前調整済みではあろうから、アメリカがこのメモに価値がないと判断しているということでもあろう。

このメモを作成した福田氏が情報を流した高官名を隠したのも印象深い。いずれはどこかに残して置いてほしいものだ。

ところで、今回の事例は国家が虚偽を意図的に宣伝することの好例でもある。今回の文書公開では、沖縄返還時に日本政府が虚偽を国会等で垂れ流していた文書も示されている。
忘れてならないのは、つい先年まで、日本政府は「密約はなかった」と主張し続け、文書についても「探したが見つからなかった」と言い続けていたことだ。それが実は「あった」わけである。
かつて民主党政権に転換した時にも、こうした「探したがなかったはずの文書が出てきた」ことが何度かあった。当時はこうした情報隠しを官僚の横暴とし、だから政治のリーダーシップが必要だと言われたのだが、今回の沖縄返還の文書公開が示していることは、情報隠しは与党政治家と官僚との共謀によるもので、まさに政治のリーダーシップが情報隠しを主導するということだ。

この点で、田岡氏の

ここからくみ取れる教訓は他国軍の行動が意図的か過失かの判断が実に難しいということだ。日本は集団的自衛権を行使できるようになるが、事態の真偽を正確に見きわめなければ情報操作に乗せられ、関わりのないはずの戦争に巻き込まれることになりかねない。
という指摘は正しい。しかしその上で、自国政府もまた、国民を欺くために情報操作をするし、他国の情報操作に敢えて乗ることもする、ということを肝に銘じておかねばならない。

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外交文書公開:「秘密扱い」常態化 裏文書を多用 沖縄返還合意 - 毎日新聞(2015年12月25日 東京朝刊)

 外務省は24日、外交文書38冊を一般公開した。1972年の沖縄返還や非核兵器地帯を協議する国連会議の文書が中心だ。沖縄返還では、米軍が使用していた軍用地の原状回復に関する補償費をめぐり、日本政府が返還協定に調印する約1年前から米側の費用負担を肩代わりする方策を検討していたことが分かった。今回公開された文書にはこのほか、ソ連(現ロシア)軍による大韓航空機撃墜をめぐる日米のやりとりや中曽根康弘首相(当時)の対米外交も含まれる。

 ◆1970年

「秘密扱い」常態化 裏文書を多用 沖縄返還合意

 日米両政府の沖縄返還交渉をめぐっては、世論や国会から批判を受けかねない「合意を非公表にする手口」が多用された。24日公開の外交文書からは、密約以外にも多くの情報が国民の目から隠される「秘密扱い」の常態化がうかがえる。

 「この文言は、不適当だ。修正しなければ協議委員会には出ない」。70年11月13日、沖縄返還を担当する山中貞則総理府総務長官が担当者を怒鳴りつけた。

 山中氏が問題視したのは、沖縄の施政権を日本に返還する際の具体的な取り決めを規定した合意文書。米国の意向を優先させる合意が公になることを懸念し、大幅修正を求めたとみられる。

 合意文書を正式承認する日米協議委員会は19日に迫っていた。担当者は外務省に相談を持ち込む。愛知揆一外相も乗り出し、外務省が編み出した解決策は、問題視された一節を削除し、同じ内容を盛り込んだ新たな「了解覚書」という裏文書を作成すること。署名の代わりに愛知氏らがイニシャルを記す形を取るものだった。

 米側は当初、公開を前提にしていたとみられるが、日本側の覚書作成の提案を了承。19日の委員会では公表する合意文書、秘匿する了解覚書がそれぞれ交わされた。

 了解覚書は極秘指定され、議事録や報告書を含めて45年間、国民に知らされなかった。政府関係者は「一度何かを極秘扱いにすると、関連の文書も秘匿せざるを得ない」と指摘する。

 有事での核の再持ち込み、米軍用地の原状回復補償費の400万ドル、短波放送中継局「ボイス・オブ・アメリカ」の移転費1600万ドルの肩代わり−−。これまで明らかになった沖縄密約でも、ひそかに「合意議事録」「議論の要約」という裏文書がつくられ、重要な事実が隠された。

 我部政明琉球大教授(国際政治学)は、秘密裏の日米合意は安全保障条約改定などに際しても散見されていると指摘。「堂々と国民や議会に是非を問うのが本来の姿。秘匿が必要だったとしても、一定期間が経過したら公開し、歴史的な検証が行えるようにすべきだ」と話している。

 ◆75年

矛盾抱え「非核外交」 対処方針、メモに 国連専門家会議

 40年前の非核兵器地帯に関する国連の専門家会議で日本がたどった軌跡は、国是の非核三原則と米国の冷戦戦略のはざまでジレンマに陥る苦しい内情を映し出している。被爆国として核廃絶を唱える一方、「核の傘」に依存し北東アジアの非核地帯化に消極的な姿は、今の日本の「非核外交」と相似形を描く。

 「非核地帯は日本の基本的な安全保障を損ね、米国の極東戦略を不安定化させるものであってはならない。日本に敵対的な動きを除去していく」

 75年に開かれた専門家会議に際し、日本政府内ではこう記された英文メモが作られた。会議に参加した戦略家の桃井真氏らが用意した対処方針とみられる。

 核兵器の使用や配備を条約で禁じる非核地帯は核戦争の手前まで行った62年のキューバ危機を受け、68年に中南米に創設された。70年発効の核拡散防止条約(NPT)もその意義を認める中、75年の会議は国際社会が非核地帯を集中的に議論する初の機会だった。

 しかし、米国の核の傘に国防の根幹を委ねる日本にとって、会議は難局そのものだった。

 非核地帯を北東アジアに拡大する方向で議論が進めば、「持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を掲げながら核搭載艦船の寄港を黙認する矛盾が表面化し、日米安保体制にも影響が出る恐れがあったからだ。前年に当たる74年には、米退役軍人が米議会で核搭載艦船の寄港実態を証言し、日本国内が騒然となった経緯もあり、日本政府は慎重な態度で会議に臨んだ。

 桃井氏らは英文メモの線に沿って、非核地帯設置の動きが既存の安全保障体制に支障を与えてはならないと強調。一定の原則で対象地域が拡大していく「非核地帯の普遍化」を阻止する交渉戦術を取った。

 そして75年8月、約60回の会合を重ねた会議は(1)非核地帯は核不拡散に資する(2)安全保障は各国の判断に依拠するため、非核地帯設置に関する一般的な指針策定は不可能−−との点で一致。核艦船を運用する米国が重視した「航行の自由」も担保されたことから、ジュネーブの日本政府代表部は「所期の目的は達し得た」と会議を総括した。

 ◆79年

大平氏、何度も抵抗 石油輸入量巡り 東京サミット

 日本初開催だった79年6月の主要国首脳会議(東京サミット)で、大平正芳首相が日本の石油輸入抑制をめぐり包囲網を敷く欧米各国に目標値を示すよう迫られたのに対し何度も抵抗した実態が24日公開の外交文書で浮かび上がった。数値を出せば「内閣がつぶれる」との危機感が背景にあった。大平氏は最後には折れた。

 従来、フランスのジスカールデスタン大統領がひそかに多数派工作し、大平氏を譲歩に追い込んだとされていたが、議事録から生々しいやりとりが明らかになるのは、一連の外交文書公開で初めて。石油価格が急騰した第2次石油危機に結束して対処できるかが中心課題だった。

 議事録によると、サミット最終日の79年6月29日午前の会議で口火が切られる。カーター米大統領が「85年の(輸入量の)国別目標の数字を出したい」と発言。フランス大統領が呼応し、参加7カ国が輸入抑制目標を表明するよう提案した。

 大平氏は「(経済)成長が急速な日本は、85年の目標を定めるのは不可能に近い」と反論。だが、欧米勢に続きカナダも目標値を示すと一転、「(議論の中で)日本が孤立したことは申し訳ない」として中期目標の検討をいったんは約束した。

 しかし、首脳昼食会の終了後に大平氏は「(目標値を示せば)日本の政局が揺さぶられかねない」と議論を蒸し返す。目標を提示すると、大平政権が崩壊しかねないと訴えた。

 同時に公開された当時の外務省幹部の「東京サミット回想」にも「通産相(現経済産業相)は数字を出したら内閣がつぶれると言った」と記されていた。

 それでも、フランス大統領は「義務ではなく、目標として数字を出せばどうか」と譲らない。大平氏はついに、午後の会議で日量630万〜690万バレルとする85年の日本の輸入目標を示し「東京宣言」に盛り込まれた。

 ◆82年

中曽根氏、就任前に訪米打診 「ロン・ヤス」原点

 82年11月、自民党の総裁予備選挙に出馬していた中曽根康弘氏が米政府高官と会い、新首相に選出された場合は翌年1月にも訪米したいと伝えていたことが、24日公開された外交文書で明らかになった。経済摩擦で両国関係が悪化する中、外務省は入念な準備が必要として春ごろを想定していた。就任直後の訪米という中曽根氏の強いこだわりが、後にレーガン大統領と愛称で呼び合う「ロン・ヤス関係」の原点となった形だ。

 82年11月24日付の極秘文書によると、中曽根氏は総裁選中の11月18日、来日した米国家安全保障会議(NSC)のシグール・アジア部長と接触し、訪米時期の意向を伝えた。外務省が中曽根氏に意向を確認したのは、その数日後だった。11月27日に中曽根内閣が発足すると、レーガン政権は直ちに83年1月18日にワシントンで首脳会談を開く案を決めた。

 別の文書によると、中曽根氏は訪米前、大河原良雄駐米大使に「大所高所の議論をし、レーガン大統領と『レッツゴー』の精神で意気投合したい。個別の問題は外相会談で」と指示した。大局的な議論を好むレーガン氏の性格を下調べした上で、個人的関係の構築を狙った。

 当時、対米課題だった日本からの武器技術供与に関しても「国会が止まることも覚悟して対処」するとの決意を示し、1月の初訪米に臨んだ。

 その後、11月にはレーガン氏が来日。この際の少人数の首脳会談で、レーガン氏が次期大統領選への自らの対応に触れると、中曽根氏は衆院選に関し「来月か、正月にあるかもしれない」と応じた。実際に衆院選は12月に実施された。記録では、レーガン氏がジョークを話し「一同、笑いながら会談を(終)了した」という。

 ◆83年

「ソ連側、米機と誤認」 米、早期に情報伝達 大韓機撃墜

 83年9月のソ連(現ロシア)による大韓航空機撃墜から2カ月後、米政府高官から「ソ連側が米偵察機の航跡に15分後に入った大韓航空機を米機と誤認した」とする情報が日本側にもたらされていたことが24日公開の外交文書で分かった。冷戦下で重大事故をめぐる情報が限られる中、比較的に早い段階から米国が日本に秘密情報を伝えていたことになる。

 事件は83年9月1日に発生。米国からソウルに向かっていた大韓航空007便が本来の飛行コースを大きく外れてソ連領空に入り、戦闘機ミサイルで撃墜された。

 11月14日付極秘文書によると、米高官は誤認の背景に関し「ソ連のレーダーは3台のうち1台しか作動せず、(大韓機が)サハリンから公海上に出ようとしたところを撃墜した」と語った。さらに「ミサイルは2発発射された。同機は11分間、きりもみの後、墜落した」と述べた。

 また「フライトレコーダー(飛行記録装置)はソ連領海内にあるもようだが、極秘の手段で回収を試みる」と説明した。実際は既にソ連が回収済みとされ、日米が捜索でソ連に翻弄(ほんろう)されていたようだ。

 極秘文書は、当時の外務省人事課長、福田博氏(80)が作成した。福田氏は共同通信の取材に「正式なルートの情報ではなく、知り合いのホワイトハウス関係者から聞いた」と話した。

 93年、国際民間航空機関(ICAO)が「大韓機は航法ミスに気付かないままスパイ機と誤認された」とする再調査結果を公表した。なぜ操縦士らが長時間ミスに気付かなかったかなど詳細は判明していない。

外交文書:政府、沖縄返還密約 調印前年に負担検討 - 毎日新聞(2015年12月24日 東京夕刊)

 1972年5月の沖縄返還に伴い、米軍が使用していた軍用地の原状回復に関する補償費をめぐり、日本政府が返還協定に調印する約1年前から米側の費用負担を肩代わりする方策を検討していたことが24日公開の外交文書で分かった。対米交渉が本格化する前で、のちに表向き米側が支払う形にし、実際は日本が負担する日米密約に発展する対応方針が早い時期から議論されていた。

 沖縄の施政権返還に関する日米合意の一部を非公表としていたことも判明した。沖縄返還では複数の密約が交わされており、世論の反発を恐れ、合意内容を秘密扱いにする手法が繰り返された実態が明らかになった。

 沖縄返還交渉は、70年11月ごろから軍用地の補償問題の議論が本格化。これに先立つ7月の外務省の内部資料によると、大幅な土地の形質変更などが加えられた軍用地の復元補償について、米国が土地所有者への債務履行に応じないことを想定した。その上で「返還後も米国に履行させるか、わが国が肩代わりするか、いずれかの措置が必要」と、外務省は費用引き受けを当初から考えていた。

 検討から約1年後の71年6月に調印された沖縄返還協定には、米国が自発的に支払うと明記。原状回復の補償費400万ドルを日本が負担する密約は調印直前に交わされた。密約の存在は毎日新聞記者だった西山太吉氏が直後に暴露した。

 日米協議内容を記録した極秘文書によると、沖縄の施政権移行を取り決めた70年11月の日米合意文書の一部記述に対し、山中貞則総理府総務長官が「不適当だ」と指摘。米側の同意を得て削除した。記述は、日本政府の沖縄援助計画を「米国が承認する」との内容で、返還前の政府の政策に米国が関与することを明示する一節。削除された記述は非公表扱いの「了解覚書」にそのまま盛り込まれ、愛知揆一外相、マイヤー駐日米大使らは正式署名せずイニシャルを記した。

 ■ことば

日米密約

 1971年の沖縄返還協定は、米国資産の移転費用などとして日本側の3億2000万ドルの支払いを規定したが、日本側の説明にない(1)米軍用地の原状回復補償費400万ドル(2)米国の短波放送中継局の解体移転費用1600万ドル−−を含む極秘の財政負担が発覚した。この他にも、60年の日米安全保障条約改定時に米軍核搭載艦船の通過・寄港を事前協議の対象外とした核密約などがある。

沖縄返還「密約」 2年前に肩代わり含め検討 NHKニュース(12月24日 11時28分)

1972年の沖縄返還の際、本来アメリカが負担すべき基地を撤去したあとの原状回復の費用を、日本が代わりに支払ったとする「密約」を巡って、返還の2年前に、外務省が日本が肩代わりすることも含めて検討していたことが、24日に公開された外交文書で明らかになりました。日米の「密約」につながる議論が、沖縄返還前の早い段階から行われていたことがうかがえます。
24日公開された、沖縄返還の2年前の1970年7月に当時の外務省条約局が作成した「勉強会用メモ」は、沖縄のアメリカ軍基地を撤去したあとの原状回復の費用400万ドルを巡る問題について記述があります。
この中では、「アメリカ側が、返還の際に負担すべき債務を、完全に支払わないまま、沖縄の復帰が実現する場合を想定すれば」という記述があり、その後に続けて、カッコ書きで「実際の問題として、そうなると思われる」と記されています。
そのうえで、「日本としては、アメリカに、残りの債務を負担させる道を復帰後にわたって維持するか、あるいは、アメリカの残りの債務を免除して、日本がこれを肩代わりするかのいずれかの措置を講じる必要がある」として、費用の肩代わりも含めて検討していたことが明らかになりました。
この「密約」を巡っては、ことし3月に亡くなった外務省の元アメリカ局長の吉野文六氏が、当時の政府関係者として初めて認めており、その後の日米の「密約」につながる議論が、外務省で沖縄返還前の早い段階から行われていたことがうかがえます。
外交史が専門の国立公文書館アジア歴史資料センターの波多野澄雄センター長は、「沖縄返還の交渉の過程では、いくつかの密約の存在が指摘されており、その1つが基地の原状回復に伴う補償をどうするかだった。日本側は当然、アメリカが負担すべきと考えていたが、1972年の沖縄返還を実現するためには負担を肩代わりする方法もやむをえないと、かなり前から考えていたことが分かり、極めて困難な交渉を行っていたことがうかがえる」と話しています。

一方、かつて沖縄返還を巡る日米の密約の存在を報道し機密文書を違法に入手したとして逮捕された、北九州市に住む元毎日新聞記者の西山太吉さんは、「今回外務省が出した情報はすでにアメリカが公表しているもので、たいした情報ではない」と話していました。そのうえで「アメリカが沖縄に置いていた放送局『ボイス・オブ・アメリカ』の撤去費用などもっと大きな密約があった」として、「外務省は国民に本当に知らせるつもりなら、密約の情報をすべて出すべきだ。今回のようなものを公開とは呼べない」と指摘しました。

元外務省局長の吉野文六さん死去 沖縄密約の存在認める:朝日新聞デジタル(2015年3月31日11時27分)

 沖縄返還交渉をめぐる日米間の「密約」の存在を認めた元外務省アメリカ局長の吉野文六(よしの・ぶんろく)さんが3月29日、横浜市の自宅で肺炎のため死去した。96歳だった。通夜・葬儀は近親者のみで行う。喪主は長男豊(ゆたか)さん。

 1941年に外務省に入省。アメリカ局長として沖縄返還の日米交渉を担当していた72年、米側が負担すべき米軍用地の原状回復補償費を日本側が肩代わりする密約があったとする機密電文の存在が国会で問題化した。その後、電文の写しを持ち出した女性事務官と、持ち出しを依頼した毎日新聞記者だった西山太吉さんが国家公務員法違反容疑で逮捕された。

 2000年に密約の存在を裏付ける米公文書が明らかになったが、外務省は一貫して密約を否定。しかし吉野氏は06年、朝日新聞などの取材に対し密約の存在を認めた。09年には密約文書をめぐる情報公開訴訟で証人として法廷に立った。

 13年には国会審議中だった特定秘密保護法案について朝日新聞記者の取材に応じ、「秘密が拡大すれば、国民の不利益になる」と話していた。

文書公開を求めた裁判は敗訴し、西山太吉氏の名誉回復は未だなされず、そして西山事件が問題化した当時、毎日新聞は記者をかばうどころか国に謝罪した。


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コメント

密約の中身は別にあるのでそれを公表すべきだという
西山太吉さんのお話はほとんどで無視されていますね。
秘密保護法反対派もそこを強く言わない。

投稿: 秘密保護法 | 2016/04/27 04:04

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