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2016/02/24

少しずつ組み上がっていった戦時体制

証言でつづる戦争:教育 千の証言から 第1部/13 学校を支配した将校 - 毎日新聞(2016年2月23日)

 山梨の旧制甲府中(現甲府第一高)で数学教員を務めた伊藤忠一(故人)は、学校が軍に牛耳られた戦時中の後悔を、戦後文章に残した。「軍事教練が取り入れられ、(教育は)軍隊教育の出先となった。世界の一等国と思い込ませ、世界に君臨するが如(ごと)く説き、心にない事を言わなければならなかった」

 まずは左の写真を見てほしい。

 1932(昭和7)年3月、教員たちの中央に座るのが軍服姿の配属将校である。どっしり構え、向かって左隣の校長は肩身が狭いように見える。これ以外にも多数の写真が次女楠祐子(86)=山梨県=のもとに残され、生徒たちと写る部活動の集合写真では教員を押しのけ、真ん中に座る。「校長よりも強い権限を持ち学校を支配していた」。そんな証言は数多くある。

 配属将校は、25(大正14)年に陸軍現役将校学校配属令が公布され、中学校以上の学校に配置された。軍事知識の習得や教練実施が目的とされたが、実はリストラ策の側面もある。当時、第一次大戦の反省などから世界的に軍縮が加速し、日本も師団の削減を実施する。あふれた将校たちの受け皿になったのが学校だった。

 配属将校は、軍事訓練など教練を受け持つ。それに合格しなければ進学も難しく、軍に入っても不利とされた。教員は配属将校の顔色をうかがうようになり、口出しできない存在になる。日中戦争勃発直後には増員が発表される。37年9月10日の東京日日新聞(現毎日新聞)は「配属将校召募 約百人」と報じ、現役ではない予備役将校らも受け入れる制度に変更された。

 これには、戦力となる若者をよりきめ細かく軍に送る狙いもあったのだろう。伊藤は「中学3年の少年たちに、予科練や少年航空兵に出るよう勧める役までしなくてはならない。中学教育は軍人の支配を受け変態(異常な状態)になってしまい、亡国の兆しが見えた」と言及。教師に圧力をかける配属将校の姿が浮かぶ。

 陸軍が想定する国家総動員体制は、国民学校での皇国教育や配属将校による軍事教練など、学校現場を組み込むことでより安定する。

 だが国際情勢は厳しい方向に進む。40年の日独伊三国同盟に加え、41年4月には日ソ中立条約を締結するが、米国は、在米日本資産凍結に続き、石油の対日全面禁輸に踏み切る。和平を模索するものの時間切れとなり、ついにあの日を迎える。(敬称略)<文 砂間裕之>

1925年に陸軍現役将校学校配属令が公布。中学校以上の学校に陸軍将校が配属された。

軍縮のリストラ策でもあった学校への配属が、徐々に軍による学校支配に転じていく。
そして生徒・学生が軍へ進む道の地ならしにもなっていく。

きっと、その折々には、それほど大きな変更ではないと思われていたのではないか。
小さな出発点が、時間をかけて大きな変質を生んだ一例ではなかろうか。


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