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2016/03/04

功利主義の罠かね

はてなブックマーク - この国は何も学んでいない 東京大学名誉教授 畑村洋太郎氏(元政府事故調査委員長) :日本経済新聞(2016/3/2付日本経済新聞 朝刊)

 ――福島第1原発事故は天災だったのか、人災だったのか。

 「現象をきちんとみれば人災そのもの。天災だと、本来見なければいけないものをわざとみないで通ってきたのを正当化する言葉のようにみえるので、おかしい」

 「人災という言葉は使った瞬間に誰かが悪いというところに入り込んでしまうが、我々も当事者だ。日本の社会が事故が起こる脈絡をずっと蓄積しているのを放置し、電気を使いたいだけ使う利便性を享受しながら、…
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ここについた以下のようなコメントについて。
同意なんだけど、原子力規制委員会が「これからも事故は起きる」と宣言したら世論から袋叩きにあうんじゃないかな。ことこの件については、冷静な判断ができない空気が支配している気がする

失敗学の先生は本質を分かっている。“数量的なリスクをきちんととらえていない人が多い”ことに尽きるんじゃないのかね。だから震災前には事故防止対策を軽視するし、事故後も放射線リスクを妥当に判断できない。

しばしば原発推進派・容認派の立場から出てくる声として、原発反対派(や世論・マスコミ)が極端な安全要求圧力をかけ続けてきたことが、原発の事故隠しや「絶対安全です、事故は起こるはずがない」という強弁を生んできたのだというものがある。
いかなる不安材料も、どんな小さなミスでも認めないという立場に頑固にこだわり、リスクという概念を拒絶する人たちが相手だと、トラブルや失敗があり得るという前提を取れなくなるし、コストベネフィットから見ると過剰な安全性追求をやらなければならなくなって、危険回避のためのシステムが膨大になり複雑化して余計に制御が難しくなる。さらに、組織も責任回避体質が広がって、誰が責任者なのか分からない、迅速な危機対応もできない組織になってしまう。結局、原発反対派の過激な感情的反応と無理解、妥協のない圧力とに対応させられてきた結果が現在の原発の問題を引き起こしている。こういう筋の考え方だ。
この考え方からすると、日本の社会は反原発ヒステリーが根強く存在していて、そのために、原発の是非に関する「冷静な判断ができない」。科学者や一部の政治家などがいくら理を説いても、その道理は決して聞かれることはない。このため「(本質的には)事故は防げない、だからこそ事故が起きた時にどうするか、事故の潜在的損害をどう評価するかについての合意形成が必要なのだ」という真っ当な問題提起は決して顧みられないばかりか、「世論から袋だたきに遭う」ということになる。

私はこの意見は表面的だなあと思う。簡単に言えば、ベネフィットとリスクとの受け手が異なっているからだ。損益の分配がそもそも大きくずれている。迷惑施設の立地であるわけだ。この状態で、原発立地の自治体担当者が「事故はいつか必ず起きます」と言って原発近隣の住民を納得させられるだろうか。どうやって納得させるのかやってみてほしい。

では、外部性を内部化したらいいのではないか。それで電源交付金を付けたわけである。だが、そこでも、潜在的な損害を前提とした合意形成はなされなかった。それは無理だからである。
功利的な(ミクロ経済学的な)考え方からは、原発近隣住民には次のような説得を行えばいいことになっている。

しばしば起きる放射能漏れやシステム故障による被害の期待値はこれくらい、過酷事故で転居しなければならない時の損害の期待値はこれくらい……、全部で潜在的な損失額はこれくらいになります。それに対して、補償額はこれだけ付けます、あなたの期待効用関数に従って、原発を受け入れるか拒否するか決めて下さい。必要な補償額を合計して、それが原発の社会的便益より小さいならば、原発を立地しましょう。

実際にこういう進め方は可能だろうか。私は無理だと思う。端的に言えば、そういう「説得」が失敗し続けてきたのがこの何十年かの原発の歴史だったのではないか。

時間がないので乱暴な言い方をするが、功利的な主張、特に期待効用理論のように確率や不確実性を伴った功利的主張は、個別の人間が、ただ一回限りの人生を生きていること、時間を巻き戻してやり直すことができない生を日々生きていることを理解していないのではないか。また、確率的事象というものが本質的には統計的表現であって、個別の人間にとっては、その事象は期待値のスペクトルで評価できるものでなく、不連続な「ある」か「ない」かのただ一つしかない「現実」として経験されるものでしかないということを理解していないのではないか。
仮に人間が合理的経済人であると認めたとしても、この個別性と固有性とがあるかぎり、「リスク」というものへの態度を全ての人間を期待効用論的に改めさせることはできないのではないか。

そのことが現れているのが、原発(とそれ以外の大規模開発問題)をめぐる上の人が言う「世論」なるものなのではないかと思うのである。

****************
追記(2016年8月10日)

反原発運動の人々の、わずかなリスクも許さない要求が「安全神話」を生んだのだという意見に対して、「そもそもそんなゼロリスク要求を掲げた運動があったか」という批判。
『野尻抱介(尻P)氏のブロマガ まつろわぬ人々の東京電力福島第一原発ツアー』を読んで - Togetterまとめ

合わせて、
「想定する災害が10年に一度、100年に一度、1000年に一度、と頻度が下がるほど、対策の規模とコストは指数的に大きくなる」
というコストベネフィット論に対して、そもそも必要性が指摘されていた対策はコストの「指数的増加」が問題になるようなレベルですらなかった、という指摘もされている。

単純で分かりやすい(理論上の)論理に対して、実際にはその想定が根拠を持たないことを現実の資料を用いて説明している。この論法は手間が掛かるが有効だし、こうした検証の積み重ねこそが重要だ。


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