卒業式の日の丸君が代と宗教性
「国歌吹奏の時、起立して敬意を示すのは万国の常識」「その万国ってどことどこよ?」 - 法華狼の日記
こちらのやりとりを見て思ったこと。
そういえば、慰安婦問題でも強制性を認めない人たちがいるなあ。
「マナーや習慣ならそれに従うべき」という論調もそうだけど、
1.自らの「常識」の根拠を微塵も疑わず、
2.「常識」の強制には説明責任は不要だとする一方、
3.非「常識」には「常識」派を納得させるだけの説明責任が必要だとする
主張には、何というか知的柔軟さの欠如を感じるという他はない。「普通」という表現の何と頻出することよ。
あ、ちなみに日の丸君が代反対論者はとっくにその論拠を示しているんだけどねえ。
ところで、日の丸君が代(とりわけ君が代は)は天皇教への帰依を試す踏み絵の一つなんだけど、下記のコメントは象徴的だなあ、と。
冠婚葬祭などの行事では、服装などに一定のルールが存在しますが、それは厳密には強制ではありません。ただ理由もなくそのルールを破ろうとする人はいないでしょう。逆に、何故礼服の着用を強制されなければならないのかなんて問われても大抵の人は困惑するだけです。
思想の自由は無論の事重要ですが、その表現をいついかなる時でも認める事は、少なくとも現時点では世界のどこであろうと不可能だと考えています。 例えば、キリスト教徒じゃなくても教会では、あるいはイスラム教徒でなくてもモスクにおいては、それぞれの儀礼とマナーを守らなければなりませんよね。それから、このエントリへのはてブコメント
例えば基督教アンチが友達の基督教式の結婚式に参加して「全員御起立ください」「聖歌を斉唱」の時立たないとか歌わないとかどうよ。自分のマナー意識と行為が矛盾して無いか位は考えてみてもいいんじゃね?これらの論者は、自分は儀式のマナーを取り上げただけで、宗教を取り上げたのは一例に過ぎない、他の例でもかまわないというんだろうけど、主張の適切な事例を考えた時に自然に想起されたのが宗教儀式だったというあたりが、日の丸君が代の本質を表しているんじゃなかろうか。 そしてもちろん、日の丸君が代問題は単なる儀式のマナー問題ではなく、強制と権力への服従、尊厳の蹂躙の問題であるわけなのだが、もちろん自らの宗教性を自覚しない、空気を呼吸するように神に帰依し、自らを無神論者だと信じて疑わないような人々にはその論理は理解できないわけで。
げに意識の陥穽とは恐るべきものであることよ。他山の石他山の石。
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