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2016/05/08

毎日新聞:シベリア抑留死者名簿の故村山常雄氏の追悼記事(栗原俊雄記者)

記者の熱意を感じる良記事。
ただ紙面ではなぜか省略されている文章がある。ネット版の方が完全だとは、なんだかなあ…。

亡くなった村山氏の偉業を伝える記事だが、村山氏が名簿作りに着手した年齢から含め、すさまじい人であったことがよく分かる。その最期の日のエピソードも驚くのみ。まさに偉人。このような人が社会を動かす石を積む人なのだと思わされた。
この栗原記者は関連著書もあるとのこと。今後の報道も期待したい。

なお、記事には写真が数点ずつ付いている。
ストーリー:シベリア抑留死「村山名簿」(その1) 4万6300人の名刻む - 毎日新聞(2016年5月8日 東京朝刊)

 火葬されたばかりの骨は、がっしりと太かった。村山常雄さん(享年88)。骨つぼに入りきらない骨は生前の巨大な功績を象徴していた。2014年5月13日、さいたま市。私は近親者で営まれた葬儀に参列させてもらった。

 第二次大戦後、ソ連は旧満州(現中国東北部)や朝鮮半島北部などにいた日本の軍人や軍属、公務員ら約60万人を連行した。酷寒と飢えの中で森林伐採や土木工事に従事させられ、「シベリア抑留」による死者は研究者の推計で6万人とされる。村山さんは抑留被害者であり、抑留研究の第一人者だった。

 1991年、ソ連はようやく死亡者名簿を提出し、厚生省(当時)が公表したが、ロシア語を音訳した名簿は「トーイヨタキ・ホンデゼロ」など、日本人とは思えない名前が並んでいた。中学校教師を退職した村山さんは、このカタカナ名簿を国内外の資料と丹念に突き合わせ、4万6300人の名簿を約10年かけて完成させた。前述の「トーイヨタキ」は「冨高平十郎」など、うち3万2324人を漢字で記した。

 本来、国がすべきことを成し遂げた通称「村山名簿」は、遺族にとって故人をしのぶ貴重な記録であり、絶望的に遅れていた抑留史研究の金字塔となった。

 11年に肺がんの手術を受けた後も精力的だった。抑留のシンポジウムなどにはたいてい、村山さんがいた。「いつも元気で、いつでも会うことができ、助言をもらえる」。抑留の取材を続ける私にとって、研究成果を惜しまずに伝えてくれる村山さんは、そんな存在だった。だから、13年12月に入院したと聞いた時も、まさか5カ月後に亡くなるとは思いもしなかった。

 「栗原さん。そんなに泣かなくていいんですよ。私はもう泣きません」。骨揚げを終えた私に、声をかけてくれたカズ夫人(84)の表情は穏やかだった。

 優れた研究者であり教育者であり、ヒューマニストだった村山さん。新聞やテレビの記者、あるいは研究者ら多くの人たちが村山さんを頼り、「村山大学」の門下生となった。その村山さんが「戦友」と呼んでいたのがカズさんだ。偉業とともに、2人の絆を振り返った。<取材・文 栗原俊雄>

ストーリー:シベリア抑留死「村山名簿」(その2止) 執念支えた夫婦の絆 - 毎日新聞
墓参、偉業の原点

 新潟県糸魚川市能生(のう)。眼下に日本海を望む故郷の山腹に村山常雄さん(享年88)は眠っている。「海が大好きでした」。4月中旬、墓参した私にカズ夫人(84)はいつもの笑顔で語った。先祖の墓碑には天保十(1839)年と刻まれている。海風と雪に耐えた堅固な墓石からして豊かな家だったのだろう。しかし、村山さんが生まれた1926年2月3日、実家は貧しかったという。

 尋常小学校を最優秀の成績で卒業し、近くの親類宅に奉公することで地元の水産学校に進学した。同じ町に住んでいたカズさんは村山さんの姿を見たことがない。後年、夜明け前から掃除や炊事に追われ、下校後も寝るまで家事をこなしていたと聞いた。43年、村山さんは17歳で旧満州(現中国東北部)の国立ハルビン水産試験場に就職した。本土より給料が高く、実家に送金できるからだ。

 45年5月に徴兵され、敗戦後はソ連に抑留された。飢えと重労働、そして極寒。日本政府は抑留全体の死者を推計5万5000人としており、村山さんも多くの戦友の死を目の当たりにした。自身は49年に肋骨(ろっこつ)カリエスを発症し、同年8月に病院船で帰国。入院治療を受け実家に戻った。だが、働き口はなく、翌50年に上京したものの、ほどなく故郷に帰っている。

 夫婦の出会いはその頃、カズさんが能生の映画館にソ連映画を見に行った時のことだ。冒頭でロシア民謡が流れ、友だちと一緒にメロディーを口ずさんでいると、前列の男性が突然振り向いた。「この歌、知ってますか!」。村山さんだった。「イケメンで、体に電流が走りました」。カズさんは映画の内容が頭に入らなくなったという。

 その後、2人は町の青年団の集まりで再会し、初めて会話らしきものを交わした。村山さんは保健所職員として働きながら、教員資格を取ろうと大学の通信教育で学んでいた。52年春、新潟県の公立中学校教員に採用され、間瀬村(現新潟市)の中学校に赴任した。

 貧困、戦争、旧満州、そして抑留。村山さんの歩みには大日本帝国の影がついて回るが、学校では「いつもニコニコしていました」と教え子の山崎春美さん(78)は言う。悪さをした生徒には厳しかった。それでも、決して手を上げなかったのは、新兵時代にさんざん殴られた自身の体験が影響していたのかもしれない。能生を離れた村山さんはカズさんに毎日のように手紙を出し、2人は54年春に結婚。間瀬での夫婦生活が始まった。

 村山さんは家族にも生徒にもほとんど抑留体験を話さなかった。しかし、ロシア語で寝言を言うほどうなされることがあり、「亡くなった人たちのご供養をしたいのでは」とカズさんは思い続けていた。後年、私の取材に「凍傷にかかった夢を見ましてね。夢の中なのに痛いんですよ」と話したことがある。

 「ソ連に行ってみたら」。旅行ツアーの新聞広告を見たカズさんが、村山さんに持ちかけたのは60年代後半。当時のソ連は外貨獲得などのため外国人観光客に門戸を開きつつあった。「お金は?」と気にする村山さんを「貯金が空っぽになっても行きましょう」と説得した。69年8月、夫婦でツアーに参加し、ハバロフスクの日本人墓地などを訪ねた。墓石に酒をかけながら、村山さんは泣いた。帰路の船でも泣いていた。

 帰国後、カズさんは人生で初めて歌を詠み、同年9月14日の朝日歌壇に掲載された。

 <「青春を埋めし土地」というハバロフスクに今われ立ちぬ嗚咽(おえつ)する夫と>

 この墓参は村山さんの心に刻み込まれ、約35年後に大成する「村山名簿」の原点となったのは間違いない。

 村山さんは八つの中学校で教師を務めて85年に退職。91年7月にはロシア・極東の墓参団に参加し、かつて自分が収容されたムーリー地区の墓地で弔辞を読んだ。その時の映像が残っている。

 「皆さんにお誓いします。今後、いわれなき戦争のために、異郷の地で眠るような歴史は二度と繰り返さない」。太く張りのある声が時折、嗚咽で途切れる。「そして、半世紀近くたたなければ墓参ができないような世の中は……二度と到来してはならない。そのことのために、私たちは努力を続けたいと思います」

 その年、ソ連のゴルバチョフ大統領が、抑留死した日本人3万8649人の名簿とともに来日した。抑留者が日本語で述べた名前を収容所の係官らがロシア語でつづっており、間違って記された名前も多い。それを基に厚生省(当時)や新聞社がカタカナに音訳したため、公表された名簿は「コ(カ)ウニヤ・シュラオ」「ホタノ・テレネダ」など、およそ日本人とは思えない名前が頻出していた。

 「これは犠牲者名簿ではない。名前は人格であり、名前をゆがめられることは人格をゆがめられること。無名とされるのは人間としての存在を否定されることだ」。村山さんは正しい名簿を自らの手で作ることを決意した。

 70歳の誕生日を迎えた96年にパソコンを買い求め、独学で使い方を覚えながら、呪文のようなカタカナ名簿などを資料として入力を始めた。「漢字で名前が記された別の資料を集めて、カタカナの名前と突き合わせれば突破口が開けるのではないか」。戦友会の作成した名簿や抑留体験者の手記など国内外の資料を収集し、自分がシベリアの墓標から書き写してきた名前も参考にした。村山さんの熱意に厚生省も協力し、約3万人分の抑留者の名前が漢字で表記された別の資料を提供した。「プライバシー保護」にこだわる行政としては異例の対応だ。

 パソコンの扱いに慣れず、数千人分のデータをいっぺんに消去したこともある。それでも「休んだら挫折する」。高血圧の持病がありながら、名簿作りに集中すると食事も忘れた。そんな村山さんを「今倒れたら、今までの大きなお仕事がゼロになってしまいます。誰も引き継げませんよ」とカズさんは気遣った。

名前は「人格」格闘10年

 1日10時間以上を自らに課し、2日続けて休むこともなく、約10年にわたって気が遠くなる作業に没頭した結果、村山さんは「コ(カ)ウニヤ・シュラオ」は幸田操、「ホタノ・テレネダ」は浜野照太郎と一人一人の名前を突き止めていった。軍隊での階級や収容地、亡くなった日時、埋葬地なども可能な限り名簿に加え、異郷で無念の最期を迎えた犠牲者の人格を再生させようとした。

 「名簿を自費出版したい」。作業が軌道に乗ると、村山さんは教え子で親交があった本間弥太郎さん(77)に相談した。本間さんが、新聞社OBでコンピューターに詳しい同窓の本間靖夫さん(77)に話すと、インターネットでの公開を勧められた。靖夫さんは「初めはデータを貼り付ければいいと考えていました。でも、先生の熱意を思うと『少しでも見やすいように』と思って」。2003年夏から作業と修正に2年をかけ、本格的な「村山名簿」は05年8月、インターネット上に公開された。

 「シベリアに逝きし人々を刻す ソ連抑留中死亡者名簿」を自費出版したのは07年。B5判1053ページ、重さ2キロの大著には累々と犠牲者の名前が並ぶ。「死者5万5000人」という無機的な数字ではなく、それぞれにかけがえのない人生と記憶を持つ人々が死んだのだ、という重い現実が伝わってくる。

 「村山名簿」が報道などで知られるようになると、遺族からの問い合わせが相次いだ。「自分の夫や親は本当に亡くなったのか。なぜ、どこで亡くなったのか。墓地は」。村山さんは一つ一つ丁寧に答えた。カズさんは当時を思い返す。「ご遺族からお問い合わせがあると、何をも差し置いて書斎に駆け込んで、お伝えしていました。『調べてあげたら、確かにあったんだよ』と話す時、目は真っ赤でした」

 例えば、神奈川県の女性からの手紙。

 「私、主人がシベリアで死んだ者の妻です。長い間資料をあつめて名簿を造って下されたとの事、頭が下がる思いです。主人の名前が載っていればうれしいです。I・Y(手紙では実名)です」

 村山さんはすぐに返事を書いた。

 「亡きご主人様について早速調べてみた結果、私の名簿には次のようになっています。1914年生まれ。46年9月6日死亡、最期の地はチタ市南東80キロの病院。私の名簿約4万5000人のうち、『I』姓は307名ありましたが、そのうち『Y』さんはただ1名だけですので、間違いないと思います」

 村山さんと、その功績に報道機関も動かされた。東京新聞の瀬口晴義社会部長(52)は名簿が公表されて間もない05年10月、初対面で5時間を超すインタビューを行い、その後も取材を続けた。「国がすべきことを執念で仕上げた。圧倒的な仕事でした。謙虚な人で、我々記者に『世に知らせなければ』と思わせる人でした」と振り返る。

 私もその一人だ。08年9月に能生の自宅で夕方から深夜、さらに翌早朝から夕方まで話をうかがったのが最初だった。「村山名簿」の出版には約1000万円と10年以上の歳月が費やされている。「何が支えだったのですか」と尋ねると、村山さんは死んでいった戦友への悼み、彼らを助けられなかった無念を語った。

 敗戦で武装解除された部隊は歩いてソ連領に向かい、飢えと疲れで落後者が続出した。「待ってくれ」という戦友の声が聞こえたが、「自分が歩くだけで精いっぱい。何もできませんでした」。靴が壊れると、道端の死体から取って履いた。「たくさんの人たちが若くしてバサッと命を奪われた。国のせいでそうなったのに、『無名戦士』とひとくくりにするのは許せない」と村山さんは話した。

 「泊まっていってください」と村山さんは私に言った。短時間の取材では語り尽くせぬ、今も続く抑留の悲劇を知ってほしい。そして、それを知らせてほしいという思いだったはずだ。「80歳を過ぎた村山さんが、こんなに頑張っている。抑留の悲劇を、遺族の苦しみを広く伝えたい」。そう思った。国家による未完の戦後補償の問題を十分に報道してこなかったマスメディアの怠慢を思い知らされた。それと同時に、国策としての戦争の後始末を個人の善意と努力に頼る政府の実情を記録しなければと思った。

 村山さん夫婦は13年1月、娘夫婦の家に近い、さいたま市に引っ越した。その頃、定期健診で間質性肺炎が見つかり、村山さんは12月に入院。翌14年2月に退院したが、体力は衰えていった。

 同年5月6日夜。「今日が俺の最期の日だ」と村山さんは言いだし、カズさんは「ゆっくりお話ししましょう」と応じて、狭い介護ベッドに2人で横たわったという。夫婦は手をつなぎ、60年前の能生時代の出来事から語り合った。

 「初恋の人は誰ですか?」。カズさんが聞くと、力強く愛称で答えた。

 「カズ子さん!」

 「どこがよかったんですか?」

 「笑顔。あんたがいたから、仕事ができたんだ」

 翌日。村山さんは容体が急変し、緊急入院した。カズさんは意識が戻らない夫に何度も話しかけた。「いい人生をありがとうございます」。息を引き取るまでに涙が枯れるほど泣いた。だから葬儀では泣かなかった。「優しい人でした。何も知らない私を育ててくれました」

 村山さんは09年の著書「シベリアに逝きし46300名を刻む」の中で、カズさんへの思いを記している。

 <この相方は……終生シベリアとは別れがたい私の立ち位置を理解し、ただその場に寄り添い続けてくれました。茫々(ぼうぼう)50年。今にして私はこの天の配剤と天与の共生に、この相方とともに深く叩頭(こうとう)するほかありません>

 互いに感謝し合う夫婦の絆があればこそ偉業は成ったのだろう。シベリア抑留に関しては正確な抑留者数や死者数、ソ連の目的など解明すべき不明点は多い。「日本人」として抑留された朝鮮、台湾出身者のうち日本国籍を持たない人には国家補償もされていない。こうした課題の克服につながる報道を地道に続けることが、2人への恩返しになると思う。

 ◆今回のストーリーの取材は

栗原俊雄(くりはらとしお)(東京学芸部)
 1996年入社、横浜支局などを経て2003年から現職。本欄では12年8月12日に「硫黄島の遺骨収容」、13年9月15日に「10万人が犠牲 東京大空襲」を執筆。著書に「シベリア抑留 未完の悲劇」(岩波新書)、「特攻 戦争と日本人」(中公新書)など。


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