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2016/07/04

不寛容の発露と原初的形態

これ何の印?世界の主要都市に張られている「結界」を示す透明なワイヤー : カラパイア

何キロにもわたってはりめぐらされたこの透明なワイヤー。実はこれ、正統派ユダヤ教信者にとって、信仰に身を捧げるための重要な結界となっているのだ。
コメント欄が異教の慣習への違和感と嘲笑に満ちている。

「人の国でまで何しとんねんこいつら」
このコメントが+53という高いポイントを集めている。
そもそも宗教は国境と関係なく、日本にある宗教もその多くが国際的な広がりを持っている。ユダヤ教は世界宗教の一つであり信者は各国の国民であり地域の住民である。そしてこの記事でもこの「エルブ」の設置には事前に「自治体や議会の許可をとりつける」と書いてある。住民たち自身の判断として、「エルブ」が許容されているのである。それにもかかわらず、このコメントが高い支持を集めているのは、自らと異質なものへの嫌悪の社会的表現の一例だと言える。

安息日は活動してはダメって教義を捨てることができず、 「なら、囲いをつくってここまでウチの中ってことにすればいいじゃん!」って発想がもう破綻してるよね。 チベット仏教とかでお経がビッシリかかれた塔みたいなのをグルっと一周回すだけで、底に書かれたお経を唱えたことになる、ってのと同じものを感じる。

なぜ、「大昔の人がその時々で都合がいい用に設定した決め事だから、現代とそぐわなくても当たり前」という考えにいたらないんだろうか。

このコメントも+96ポイント。日本でもこの種の労力節約的な宗教的慣行はたくさんあり、決して珍しい慣習ではないのだが、なぜか他の宗教の慣習には頑迷さを感じてしまうという例。
ただ、自分たちの宗教の似た便法を想起して、共通性に思いをはせているコメントもあり、少し救われる。

未知の風習に対するプリミティブな反応も見られる。

  • どうせただの抜け道なんだから、もっと簡単に小さい輪っかでも作って、輪っかの内側だけが結界外、そこ以外は地球全土が結界内ということにすればいいのに!
  • ワイヤー張る前に心の中でどうにかする問題じゃないのか
  • エルブの外側に居たとしてもワイヤーを越えなければ中にいるのといっしょでしょ。解りやすく言えば赤道上にワイヤー張ったらどっちが内か外かなんて関係なくなる。
  • 概念のための区切りとはいえ勝手に他人の『我が家の敷地』内認定されて気分が良くない人もいるだろうな。それだったら免罪符というか「これを持っていたら自宅内にいるのと同じ」効力のあるお守りでも持てばいいような
  • 国境線というものがあるので…その中は全部家と思えばいいんじゃない?線一つで心理的にokというのなら、物理的なものでなくても全然行けるデショ。有って無きが如しな気がする。それか、電車ごっこみたいに線もって歩けばいいんじゃないの。強制的に宗教的概念空間に巻き込まれるのに抵抗ある人もいるんじゃないかと思うしさ。
  • 知らないで間違って切っちゃったりしたらどうなるんでしょう。以前、工事現場でユンボのアームが架空線を引っ掛けちゃったりを見たけれども。通電とかは無いなら切断に対するアラートも無いのかしらん←まで書いて何かタイマーと電動で時間になると自動的に鐘撞くシステムを思い出してどっちもどっち感(苦笑)
私も「エルブ」なるものはこの記事で初めて知ったが、これらの多くが誤解であろうことは想像がつく。このワイヤーは複雑な境界線をいちいち覚える必要をなくすし、「エルブ」の中にいるかどうかを客観的に明示してくれる。また、エルブの意味をなくすほどに領域を広げるのはそもそも戒律として意味をなさない。したがってこれらの感想は当事者への提案としては意味を持たないだろうし、信仰が無意味だという嘲りにも受け取れてしまう。

そしてまた、次のような第三者的な物言いも、自分の宗教や慣習への批判的視座なしになされれば、それはヘイトと地続きになる。

教義ってのは制定されるに至る歴史性、それから多分に地域性に左右されるから
制定当時の状況を鑑みれば合理性を持っていたりもするんだけど
時代も地域も変わると全く意味の無い不合理な物になって、更には不磨の大典と化して人間を縛る
宗教儀式や戒律を「合理性」で評価するという視線そのものが、すでにそれを異物と見なして批判する意図を含んでいる。自分の内心の自由を侵害されているわけでもないのに、遠い国の地域社会の風習を「不磨の大典と化して人間を縛る」などと評してみせる態度は、それが自省につながらない限りは排外主義の原初的形態であろうと思う。
私からすれば、卒業式などに日の丸君が代を持ち込むのも相当に「不合理なもの」なのだが、持ち込む側からすれば日の丸君が代には相当の「合理性」があるわけである。(というか、日の丸君が代を持ち込む理由を「合理性」に沿って説明されているのを見たことがない、実は。「国の支援を受けたのだから感謝して当然」とか「厳粛な式だから」とか「愛国心・愛郷心を養うことは大切」とかいう、礼節や道徳の観点からの説明はよく聞くが、これらは「合理性」というよりも社会倫理や美意識の範疇である。)
また、上に引用した例にある
「強制的に宗教的概念空間に巻き込まれるのに抵抗ある人もいるんじゃないかと思うしさ」
というのは、エルブとワイヤーなどよりも卒業式の日の丸君が代の方が、よほど当てはまっていると思うのだが。

本題に戻すと、こういう感じでユダヤ教やエルブへの素朴な違和感と嫌悪が次々と表明されている。あからさまな差別意識の表明やユダヤ陰謀論に毒されたコメントもある。日本ではアジア人差別ほど公然化していないが、ユダヤ教への差別意識が広く浸透していることをうかがわせる。そしてユダヤ教や戒律の厳格な宗教への無知が排外主義と結びつきやすいことも。だが、少数だがこの状況への違和感を表明するコメントもある。

盆と正月とクリスマスを祝う「宗教に寛容な日本」を自負するなら尚の事、こういう宗教形態こそ自然に尊重するようでありたい。

宗教と共に生きてる人々の大多数は基本的に、こういう戒律と日常とがせめぎ合った世界の中で生きてる。
自分たちとは違う他の宗教(文化)だから奇妙に映るというだけで、カッチリ決められた規律をグレーに再解釈して生きやすいように生きる、というのはどのような民族にも見られる当たり前の実践の姿なんだよ。

規範がないと共同体は維持できないから、蔑ろにするわけにはいかない。かといってそれガチガチだと生きづらくってしょうがない。だからこういう一種の妥協の実践が、宗教(文化)のある所には必ず見られる。
宗教人類学的にはこういう姿こそ興味深い。

このコメントはプラスの評価が勝っているが、
なんで日本人ってさ、「自分たちは宗教に慣用ですよう」って
いつも偉そうな顔をして言いまくるくせに、
こういうのには気持ち悪いとか言っちゃうんだろうね?
他の宗教を認めてないじゃん
八百万どころか、ただ一つの宗教すら寛容に見てやれない(しかも外国のことなの)にミジンコみたいな器じゃん
という、同じ視座からのコメントはマイナスの評価が勝っており、批判的なレスポンスも付いている。日本人批判が中心になっているからだろうが、我が身を振り返ることの難しさを感じさせられる。

この「日本人は不寛容だ」という指摘への反論としては、

記事にあるようにユダヤ人でも疑問を呈する人がいる話らしいから
私たちが諸手を挙げて尊重すべきってのはいささか思考停止なんじゃないか
教えの形骸化につながると考える人が現実に存在して、そもそも教えの本質がどこにあるのかは信者同士でも意見が分かれるんじゃないかな

「他宗教のやり方を取り入れる」日本のゆるさと「自宗教のやり方を変える」この記事のゆるさを一緒にするのも違うと思う
前者は近年取り入れたものは形をなぞっただけで本質なんて元からなく(クリスマスでケンタとか)自宗教の本質とは別の話(もちろん「日本人は本質を大事にしてるキリッ」と言いたいわけじゃない)し
後者は自宗教の本質が直接かかわってくる話だから

こういう文化もあるんだなーくらいで

という、他者の尊重という概念を0か1かで捉えて「不寛容」を正当化したり、不寛容なコメントへの個別的批判を日本社会論に一般化して否定したりする意見や、
寛容だからこそ
傍目からは迷信じみたように見えることを
一生懸命守ることが理解できないんだよ。
え~いいじゃんねそれくらい、なんかちょっとこわーいって
思うんだよ。
宗教に寛容というより自分の環境に適応しているものを取り入れやすいってだけ。
他宗教の行事でもお祭りとかなんか楽しそうな事しか受け入れてないでしょ?

カーストやイスラム法だの現代の倫理観から言えば異質なものだってあるんだし、宗教の全部を受け入れるなんて無理な話。それをミジンコの器とか言われたらたまったもんじゃない。

といった、そもそも不寛容であることを自ら暴露するようなコメントがあり、これらはいずれもプラスの評価が勝っている。

そして最後にこのコメントを。

こういうのがおかしいと素直に思えて肯定される、今の日本に生まれる事が出来て本当に良かった。
このコメントの評価は現時点でプラスマイナスゼロなのだが、さすがにこれがプラス評価を稼いでほしくはないなあ。


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