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2016/07/10

偏向教育とはなぜか反戦、脱原発、反天皇制、日帝批判のことらしい。

自民党がつくった教育現場の密告サイトが炎上、その煽りを受けて香ばしい授業風景の暴露大会に : 市況かぶ全力2階建

ツイッターで「#密告したかった授業」というタグが盛り上がっているらしいので、ツイッターを眺めてみたら、タイトルに書いたみたいな感じ。

政治的な話題以外のツイートも結構多く、たぶん、だんだんとタグ作成本来の意図が薄まりつつあるんじゃないかと思うのだけど、「偏向」を告発するツイートも変わらず投稿されている。

で、「偏向」なんだから逆があってもいいんだけど、日の丸や君が代が卒業式に出てきてイヤだったとか、慰安婦問題への言及がないとか、侵略を進出と言い換えてるとか、天皇を呼び捨てにしたり敬語を付けなかったりしたら咎められたとか、高校生の政治活動には許可が必要だとか、まあその手の話は全然出てこないわけで。
どうやらそういうものは偏向ではないらしい。

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しかし、このタグのツイートを見ていると、教師の理不尽な対応の思い出発表会とでもいうようなものが多い。
言ってみれば一方の当事者からの告発(しかも幼少期の体験談)でしかないわけだけれど、学校や先生への恨みを抱えて生きている人って沢山いるのだなあ。
で、ほとんどの話の類型が権力者の横暴の告発またはそれへの抵抗・反逆という形になっている。
そもそも、教育、とりわけ学校教育というもの自体がそういう権力関係を内包しているものではあるのだけれど、いろいろと考えさせられる。指導の趣旨が生徒の腑に落ちていないという段階で、そもそもその指導が失敗しているということもあるが、現場での対応には限界があるというのもあるし。

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これ以降は思いつきのだらだら書き。

こういう恨みを澱のように溜めた人々が沢山いれば、確かに教師は聖職者たれ、霞を喰って生きろ、全ての矛盾を一身に引き受けよ、学校教育のトラブルは全て教師の責任という方向のイメージは浸透しやすくなるよなあと思う。
実際、この権力者の横暴譚という類型がツイートの連鎖の中で再生産されているようにも見える。言わば言葉遊びの連鎖というか連歌というか、そんな構造があるようにも見える。これが学校・教師の「真実の姿」というイメージと不信感を強化することになるのだろう。都市伝説とはこうした構造の中で生まれるのかもしれない。

これらのツイートはほぼ全て当該教師が誰かなど詳細がない。だからこそ流言飛語としての力を持ちうるのだろうけれど、同時に告発者は自ら当事者になりたくないという気持ちもあるのだろうか。あるいは共感や連帯の表明としての自分語りということだろうか。

ところで、「密告したかった授業」というタグは自民党の狙いをよく表したネーミングだなあと思う。
そして、「密告」の例に違わず、このタグ付きで投稿されているツイートが流言飛語とほとんど差がないことにも感心させられる。関東大震災後の朝鮮人虐殺を彷彿とさせる。
安倍氏のフェイスブックもそうだが、自民党は(ついでに言うと入管の通報制度も)ヘイトを煽ることについては本当に上手だと感心させられる。
ツイッターの投稿と異なり、今回の自民党の「調査」は通報者に教師と事例の特定化を求めている。自ら責任を負うリスクがあるから通報には一定のハードルがあるが、そのハードルを自発的に越える人は一定数いるだろう。自民党は本当に全体主義国家が好きなんだなあと改めて思わされる。「自由民主党」なのに。


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