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2016年9月の5件の記事

2016/09/28

抑圧をなくすには皆が抑圧されればいいという謎理屈

はてなブックマーク - 「性差別的」と批判を浴びた「おっぱい募金」、今年はAV男優の胸も揉める仕様に - ねとらぼ

ブコメも「良くやった、ざまあみろ!」みたいな反応がほとんどのようだ。
アホらしいので元記事は見ていない。

女をレイプするのが悪いんなら男もレイプしたらいいんだろ!

みたいな話。逆ギレっていうのかな、こういうの。

性暴力やハラスメントの話を女性差別の側面だけでしか認識できていない。
その認識自体が差別を生んでいるんだけど。

女が胸をもまれるのと男が胸をもまれるのとには社会的な文脈の非対称性があると思うんだが、そういうのもすっ飛ばしている。

*****

性的搾取批判には答えられないから女性差別の側面だけに対応したのだろうという指摘もあるが、それなら「おっぱい募金」を止めた方がよほど理屈に合うわけで。そうしないのだから、たぶん「分かっていない」んじゃないか。

それと「参加者は皆納得しているんだから」という声も結構あるのだが、これは一般社会に宣伝しているキャンペーンであって、身内や同好の士だけのこっそりした話ではない。幼稚園や小学校の正門前でアダルト作品や「おっぱい募金」参加を呼びかけるようなものだ。何でも事前登録制にしたとのことなのでゾーニングには一定の配慮をしたということらしく、それはいいのだが、コンビニのポルノ雑誌や電車内吊り広告のような状態は残っているのだろう。

あと、お金が集まって社会貢献の実績になっているという話もあるが、それは昨年も出た話で、効果があるなら手段の善悪は不問で良いという姿勢は端的にダメでしょうということでしかない。

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2016/09/25

毎日新聞が煽る嫌中意識

産経ほど露骨ではないが、産経と同じぐらい差別意識が強い。

余録:キトラ古墳(奈良県明日香村)の石室天井に描かれた… - 毎日新聞(2016年9月25日)

 キトラ古墳(奈良県明日香村)の石室天井に描かれた「天文図」が初めて一般公開された。350もの金箔(きんぱく)の星、星を朱で結んだ星座群。誰がいつ見た星空なのか。ロマンをかき立てられるが、最近の研究では古代中国で観測された星空という説が有力だそうだ▲中国では日食や流星など天体の変化は現実社会の吉凶を占う「天意」とされ、歴代王朝が天文台を置いて観測技術を向上させた。キトラ古墳に中国の天文知識が反映されているのは自然なことだ▲日食時には皇帝自ら儀式を行い、予測に失敗した役人が処罰されることもあったという。そうした伝統の影響もあるのだろうか。現代中国でも宇宙開発は政治と密接不可分な形で進められている▲「中秋の名月」の今月15日、無人宇宙実験室「天宮2号」が打ち上げられ、中国メディアは「習近平国家主席が宇宙の夢を先頭で指揮」と報じた。一方で、1日に衛星打ち上げに失敗した際、主要メディアの報道はなかった。成否が政権の権威に関わるからだろう▲「天宮2号」には今後、宇宙飛行士が乗り込んで長期滞在する予定だ。2022年には独自の宇宙ステーション完成を目指しており、日米露などが参加する国際宇宙ステーション(ISS)に代わって宇宙の主役となる可能性もある▲中国は国連を通じて国際協力を受け入れる考えを示しているが、米国などは消極的だ。国際基準と異なる中国の政治体質や閉鎖性を敬遠しているのだろう。唐代にはインド人が天文台長となり、観測の指揮を執った歴史もある。より開かれた宇宙開発で再び、知恵の伝達者となる道を目指せないものか。
何も関係ない話で、中国への警戒感を煽っている。「中国は危ない」というメッセージだけで、実質的な情報が全くない駄文。
こういう文章をさらっと書いてしまい、また、それを紙面に出してしまえるのが現在の毎日新聞でもある。

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まあ毎日新聞がこういうヘイト扇動記事を自然に書いてしまえるのには背景がある。

日中共同世論調査:対中印象悪化「良くない」91.6% - 毎日新聞(2016年9月23日 19時46分(最終更新 9月23日 21時53分))

 非営利団体「言論NPO」(工藤泰志代表)と中国国際出版集団は23日、第12回日中共同世論調査の結果を発表した。相手国の印象が「良くない」「どちらかと言えば良くない」との回答は、日本側が計91.6%で、昨年の前回調査から2.8ポイント増。2005年の調査開始後、14年の93%に次いで2番目に高い数字になった。8月上旬に沖縄県・尖閣諸島周辺で中国公船が領海侵入を繰り返したことなどが影響した。中国側は同1.6ポイント減の76.7%だった。

 調査は8月13日~9月4日、日中両国の18歳以上の男女を対象に実施。日本は1000人、中国は1587人から回答を得た。

 相手国への印象が良くない理由(複数回答)について、日本側は「尖閣諸島周辺の領海・領空をたびたび侵犯しているから」が64.6%で最多。「中国が国際社会でとっている行動が強引で違和感を覚えるから」が51.3%で続いた。中国側は「侵略した歴史をきちんと謝罪し反省していないから」が63.6%で最も多かった。

 相手国の印象が「良い」「どちらかと言えば良い」は、日本側が計8%で、こちらも過去2番目の低さ。中国側はほぼ横ばいの21.7%だった。

 現在の日中関係について「悪い」「どちらかと言えば悪い」は、日本は前回と同じ計71.9%。中国は計78.2%で前回より11ポイント悪化した。

 領土を巡る日中間の軍事紛争について「起こると思う」(「数年以内に」「将来的に」の合計)と考える人は、中国側の62.6%に対し、日本側は28.4%だった。

 工藤氏は記者会見で「安全保障面での相手政府の行動を不安視する見方が大きくなっている」と指摘した。【小田中大】

相手国の印象が「良くない」「どちらかと言えば良くない」の合計

日本側:91.6%(+2.8ポイント)
中国側:76.7%(-1.6ポイント)

相手国の印象が「良い」「どちらかと言えば良い」の合計
日本側:8%
中国側:21.7%

現在の日中関係について「悪い」「どちらかと言えば悪い」
日本側:71.9%(前回と同じ)
中国側:78.2%(-11ポイント)

領土を巡る日中間の軍事紛争について「起こると思う」(「数年以内に」「将来的に」の合計)
日本側:28.4%
中国側:62.6%

簡単にいえば、両国民共に相手のことをあまり好ましく思っていないのだが、その度合いは日本の方が激しい。日本人のほとんどが中国を嫌っているのである。(その対象が中国人なのか、中国政府なのか、中国社会なのかは曖昧で、実はこれらを区別することは非常に重要なのだが、この記事では分からない。)

他方、中国人が軍事衝突を恐れているのに対し、日本人はあまり気にしていない。中国人の対日感情が戦争への不安という内実を伴っているのに対し、日本人の対中感情は、中国の覇権主義・大国主義が気に入らないというやや漠然としたものになっているようだ。

この調査を行った言論NPOによれば、対日感情、対中感情はメディアの論調に左右されやすいことが分かるという。毎日新聞の「余録」は、この点で紛れもなくヘイト扇動記事なのである。

参考
日中関係は政府だけでは解決が難しい局面にある12回目の日中共同世論調査で分かったこと | 言論外交の挑戦 | 特定非営利活動法人 言論NPO
「第12回日中共同世論調査」結果 | 言論外交の挑戦 | 特定非営利活動法人 言論NPO

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2016/09/17

市原克也アダルトビデオ監督のインタビュー記事の感想

良く話を引き出した。インタビュアーが頑張っている。

AV問題:語り始めた業界人(2)「清く正しくは間違い」 - 毎日新聞(2016年9月17日 09時00分(最終更新 9月17日 13時06分))【魚拓】

毎日新聞の関連記事リンクも貼ってあってなかなか良い。

市原克也監督の談話がボロボロで業界の闇を露呈している。
だが、監督本人はそのボロボロぶりに気づいていない。むしろご自身の信念や正しいと思う感覚を率直に語るという意識を持っているようだ。
自らの感覚を信じ、それを率直に語ることが開かれたコミュニケーションの基礎なのだという単純な信仰。そして、自らの感覚への考察の欠如。そこに社会常識への挑戦や多少の露悪趣味が混じっている。
市原監督の談話を読んで思い出したのが百田氏のツイートや発言だ。市原監督の語り口は彼の態度と通じるものがある。

*******

監督の談話は、
1.アダルトビデオ業界が全体的に「食中毒ばっかり出す焼き肉屋」ばかりになっていること
2.自分の店も「食中毒」を出し続けていることを全く認識できていない
を示しているのは明らかだろう。業界の闇の深さを思い知らされる。

指摘できる点は山ほどあって到底終わらない。ちょっと唸った箇所を一つだけ挙げる。

 −−(引用者注 出演する女性自身が)AV出演で「一線を越えてしまう」「転落する」などとは思っていない?

 市原監督 そういうのは年に何人かしかいない。一つ一つの絡み(性行為)が意味を持つから、僕らはその方がありがたいんだけど……。

「絡み」がその女優の人生と紐づけられることで、その「絡み」に深みを与えられるという趣旨だと思うのだが、これって、例えば絵画や文学で破滅型の作家の作品を、作家の人生・人格と重ねて鑑賞するという方向と同様のことだろう。そして、市原監督は、その女優が破滅すれば自分の作品に深みが出ると言っているのだろう。これはなかなかすごいことではないか?

画家や作家は自分の破滅によって自分の作品に深みを与えた。本人がそうしたかったかどうかは別にして、自分の作品を自分の人生で飾ったわけである。ところが、監督は、女優の破滅を自分の作品の飾りにしたいと言っている。重ねて言うが、これはなかなかすごいことではないか?

人を道具と見ることしか知らない人が表現者として活躍すること自体はあってもいいだろう。創作活動ではそういう要素があることは否定できない。「地獄変」の良秀の陶酔は理解できる。そして、市原監督は「AVは善なるものではなく、清く正しいものにしていく方向は間違っている」と言っている。しかし、そう考えるのなら、「出演強要は考えられない」とか「一部の業者が悪質なだけだ」という言い訳はせず、「AVは闇を背負うものであり、その闇があるからこそAVは輝くのだ」と言う方がいいのではないか。

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2016/09/16

日本の排外主義ヒステリーは本当に異常

蓮舫氏、台湾籍認める=「記憶不正確」と謝罪 (時事通信) - Yahoo!ニュース(9月13日(火)10時45分配信)

はてなブックマーク - 蓮舫氏「台湾籍」認める=「混乱招きおわび」 (時事通信) - Yahoo!ニュース

時事の記事がすでに排外主義的。

蓮舫氏は旧民主党政権で、台湾籍が残ったまま閣僚を務めていたことになり、波紋が広がりそうだ。ただ、15日投開票の代表選を辞退する考えはないと強調した。
とか、
同時に、二重国籍批判に関しては「これまで政治家としては日本人という立場以外で行動したことはない。日本人として日本のために働いてきたし、これからも働いていきたい」と釈明した。
とか、日本人としての純粋性がなければ政治に携わるべきではないというような論調。気持ち悪すぎる。「グローバル人材が必要!」とかいう官製スローガン(グローバル人材!笑)があるような時代に何を言っているのだろうと時代錯誤ぶりに頭がくらくらする。

だが、この類いの論調は時事通信だけにとどまらない。どうやら一般にもそういう空気が横溢しているらしい。はてブの大多数が蓮舫氏を何らかの理由でとがめている。今回、蓮舫氏が咎められる理由は何もないし、国籍や出自などでさんざん差別的に扱われている被害者である。にもかかわらず、彼女を擁護するコメントはほとんど見られない。国籍は問題ではないという人も、彼女の言動が良くないなどと言っている。レイプ被害者を「あなたの言動が良くない」と咎めるのと何が違うのだろうか。こういうのをセカンドレイプと言う。そしてセカンドレイプはマイノリティやセックスなど、それ自体がスティグマとされる属性に絡んで行われる。蓮舫氏をセカンドレイプしている人々は心の奥で日本人の純潔性(笑)を信奉し、外国人が政治参加すると自分が蹂躙されるかのような恐怖を感じているのだろう。

民族性やアイデンティティは国籍などという単純な形式で到底識別できるものではないということはさんざん明らかにされてきたと思うのだが、我が国では国家と国民は一心同体であるという観念が未だに強く信じられているようだ。

ニュース本文

民進党代表選に立候補している蓮舫代表代行は13日午前、記者会見し、父親の出身地である台湾(中華民国)籍が残っていたことを明らかにした。

蓮舫氏の会見要旨

 台北駐日経済文化代表処(大使館に相当)から12日夕に確認の連絡を受けたという。蓮舫氏は「記憶の不正確さから混乱を招き、おわびする」と謝罪した。

 蓮舫氏は旧民主党政権で、台湾籍が残ったまま閣僚を務めていたことになり、波紋が広がりそうだ。ただ、15日投開票の代表選を辞退する考えはないと強調した。

 蓮舫氏はこれまで、日本と台湾のいわゆる「二重国籍」を否定。17歳だった1985年に日本国籍を取得した際、父親とともに代表処へ出向き、台湾籍放棄の手続きを取ったと説明していた。しかし、手続きが済んでいたかは「確認中」として、6日に改めて台湾籍放棄の手続きを申請した。

 蓮舫氏は会見で「(台湾籍放棄)手続きが完了すれば、籍に関することは最終的に確定する」と述べ、手続きが終わるまでなお時間を要するとの認識を示した。

 同時に、二重国籍批判に関しては「これまで政治家としては日本人という立場以外で行動したことはない。日本人として日本のために働いてきたし、これからも働いていきたい」と釈明した。 

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2016/09/09

音で訪ねる ニッポン時空旅「あの世に歌う~なき唄」の聴取メモ

以前、与論島の洗骨の儀式についてメモしたことがあった。

土葬への嫌悪感について: 思いついたことをなんでも書いていくブログ

もともと風葬であった地域に明治政府からの圧力があり、埋葬方法が土葬に、さらに火葬に変わっていったこと、そして、風葬から土葬に変わった後、土の中で苦しい思いをした死者の霊を慰めるために生まれたのが洗骨の儀式だということであった。

今回、たまたまラジオを聴いていて、それにつながりそうな話を拾ったので、聴取記録をメモしておく。今回は徳之島の話である。

洗骨の儀式をテレビで見たときには、風葬でも土葬でも肉体を自然な腐敗に任せることには変わりがないのに、なぜ、この地域の人々が死者が土の中で朽ちていくことを耐え難く感じるのか、その感覚がよく分からなかった。だが、今回のラジオでの解説を聞いて、少しその辛さが分かったような気がする。
それと同時に、風葬のような、目につく場所に死体を放置する、言わば見苦しく不衛生な方法がなぜ大切にされてきたのかも、少し分かったような気がする。

私の肌感覚は、遺体は火葬する、しかも野焼きではなく窯で肉を完全に灰にすることこそが、あるべき弔いだというものだ。今回の番組を聴いて、改めてその自分の無意識に潜む火葬中心の感覚を自覚することができた。と同時に、他の埋葬方法、土葬や風葬や鳥葬などへの違和感も和らいだような気がする。

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NHKラジオ 音で訪ねる ニッポン時空旅「あの世に歌う~なき唄」

出演:永野宗典・本多力(ヨーロッパ企画)、サカキマンゴー(親指ピアノ演奏者)
【解説】島添貴美子(富山大学)

※「なき唄」とは葬送時の泣き歌のこと。

ストリーミングを聴く - 音で訪ねる ニッポン時空旅 - NHK

日本では葬式は静かにしめやかに行うものという感覚があり、葬儀で歌ったり踊ったりすることはマナー違反と思われがちだが、世界各地には葬儀で歌い踊る習慣がある。実は日本にも葬儀で歌う習慣はあるという話で、以下、徳之島の「なき唄」が紹介される。

(以下のメモは「こう聞こえた」という記録であり間違いがありうる。また「なきうた」の表記は番組に合わせて「なき唄」としたが、「なく」を「泣く」とするなど一部表記が揺らいでいる。そのほかの表記方法も同様である。)

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前略

本多:女性達が歌っておりますが…。

島添:はい。「くや」と言います。集落によっては「うもい」「おもり」「うやむい」などと言われる歌なんですが、短い節で死者への呼びかけを繰り返します。で、遺族の方が、「うもりさーれ」うもりをしてくださいとか、あるいは、声を掛けてくださいというふうな形で所望しますと、亡骸に向かってその場の女性達が声をそろえて歌いかけるわけです。
で、徳之島の郷土史家松山光秀氏によりますと、近親の女性達が亡骸を囲んで「くや」を歌い、歌いながら亡骸の顔をのぞき込んだり、死後の硬直を防ぐために手足を曲げたり揉んだりするそうなんです。
で、この「くや」なんですけれども、臨終の直後から始まって、途切れさせてはいけないと言われまして、「くや」の呼びかけというのは何度も何度も繰り返されるわけなんです。
で、この呼びかけの言葉なんですけれども、亡くなった人の年齢によって変わるそうでして、(今)聞いている「くや」は「うやまなし」、親のことですね。

島添:で、実はこうやって「くや」が繰り返される中で、遺族の方々は「いぎゃねい」、これはしのび(忍び?偲び?)ごとと訳されるものなんですけれども、この「いぎゃねい」を死者に対して語りかけたりもしているんです。で、この「いぎゃねい」というのは、死者に対して何を話しても良いけれども、例えば、また戻っておいでという類の言葉は慎むようにしなければいけない。それで、あなたはもう何一つ思い残すことはないから、どうかまっすぐ先島(さきしま)に行ってください、先島というのはあの世のことなんですけれども、どうかあの世へ行ってくださいとか、どうか後ろは振り向かないでくださいといった暇乞いの言葉を死者に言いかけるわけなんです。
で、「くや」というのは「どうして亡くなってしまったの」っていうような思いが詰まる言葉があるんですけれども、その一方で「いぎゃねい」によって、使者が戻ってこないように、ちゃんと無事にあの世に行ってくれるように細心の注意を払うんですね。

サカキ:仏教的に言えば成仏してくださいっていう……。

島添:そうそう。無事にあの世に行ってくださいということですよね。

本田:そうか。悲しんでいるだけやとね、行きづらいですもんね。

島添:そうです。逆に、身が引かれるような思いでこの世に留まり続けるっていうのはやっぱり良くないことだ、と。

永野:送る側も気持ちをそうやって整理するということなんですかねえ。

島添:そうですよね。で、その一方で「くや」はもうどうして亡くなってしまったのっていうふうな思いがあふれ出るような言葉が出てくると。そのバランスって絶妙ですよね。
島添:ところがですね、文化人類学者の酒井正子が書かれた『哭きうたの民族誌』という本によりますと、この島のほとんどの集落にこうした泣き歌、あったようなんですけれども、お坊さんがいなかったので、結局「くや」、こういう歌を歌って死者を送ったというふうに…。

本多:あ、さっき言っていたみたいに、自分らで送っていたということなんですね。

島添:ところが、1960年代くらいから徐々に歌われなくなったといいます。お坊さんがお経を唱えるのがお弔いという形になっていたということだと思いますが。

本多:なるほど。で、そうしてですね、葬儀が終わった後も別の歌がまたあるんですって。残された遺族の方々が寂しさを紛らわすために口ずさんだ歌なんですけれども、手々集落の「やがま節」というそうです。先生、この「やがま節」の内容というのは?

島添:はい。歌の内容を訳しますと、「幼子を亡くしたら、あぜ道を踏み外すほど、夫を亡くしたら、死ぬほどの苦しみだ。」で、これが一節目で、二節目が「愛しい兄さん、どこに行ったの。いくさき浜の真ん中に。」このいくさき浜ってお墓があった浜と言われていますね。だから亡くなったらお墓の真ん中に行っちゃった、という話ですよね。で三節目なんですが、亡くなった人が戻ってくるのではないかと思いながら、「北の戸口も恋しい、南の戸口も恋しい。で、恋しい人の声を待っている」という内容の歌です。

本多:なるほど。じゃあそれをイメージしながら聴いていただきましょう。「やがま節」、山田ときさんの演唱です。

島添:で、「やがま節」の「やがま」なのですけれども、「とぅるばか」と言いまして、洞窟をお墓に利用したり、あるいは岩に穴を開けてそれをお墓にしたりするようなお墓のことを「とぅるばか」と言うんですけれども、結局この歌というのは、お墓の前での死者の別れの歌遊びに歌われた歌というような説があったり、あるいはその「やがま」っていうのは、腹立ちとかわだかまりなど鬱積した思いを吐き出すこととも言われていまして、だからその、亡くなった人に対する思いを吐き出すっていうところで「やがま」というふうに言うという説もあるというものなんです。大体四十九日ごろまで残された家族が寂しさを紛らわすために口ずさんだ歌なんだそうです。
まあ、いくさき浜、お墓のある浜とか、「とぅーるばか」みたいないろいろ…?…に入ってくるんですけれども、これ、かつて南西諸島では風葬の習慣があったんです。で、風葬というのは洞窟に亡骸を置きまして風化させるという埋葬の方法なんですけれども、四十九日といいますとちょうどその亡骸の肉が落ちて骨になっていく頃が大体四十九日なんですね。南の島ってやっぱり気温が高くて湿度があるので、まあ肉体の腐敗はやっぱり早いと思うんです。で、この亡骸が腐敗して骨になっていく最中というのは、まあ死者にとっては非常に苦しい時期だと考えられておりまして、それで、死者を慰め励ますために、残された家族や友人達が墓参りを繰り返すわけなんですね。で、こうやって「やがま節」とかを歌うわけなんですけれども、で、逆にこれが生きている人たちにとっても、時間をかけてその亡くなった人とお別れをし、それで気持ちの整理をしていく時間にもなっていたわけなんです。

サカキ:これは、見に行くんですか。腐敗して骨になるまで。

島添:そうなんです、毎日お墓を見に行くんですね。で、そうすると一日一日亡骸の状態が変わっていくのを毎日見に行くわけなんです。

本多:えぇーっ。何とも言えない気持ちになりそうですね。

島添:で、たぶんなんですが、ものすごい臭いもしてくるはずで、そこでその、本当に亡くなったということをここでたぶん実感していくんだと思うんですね、日に日に。

サカキ:今と比べると考えられないくらい死が身近ですよね。

島添:そう思います。

サカキ:そこにちっちゃいときから例えば一緒に通っていたら……。

島添:そうですよね。

本多:死ぬっていうことはこういうことかってね。

サカキ:自分もこうなるのか。

島添:そうですね。まあ沖縄の文献を読んでいますと、だからその、毎日見に行きますよね。それでお棺から亡骸を取り出して、腰を掛けさせて一緒に歌遊びをしたりとかっていうような習慣がある地域とかもあったそうなんですが。ところが腐敗が進んでくると、もう腰掛けさせることができなくなるんですよね。で、そこで本当にこの人は亡くなったんだってことをここで確認できる、実感するわけなんですね。

本多:えぇーっ。そうかあ。

永野:本当に現代とは死との向き合い方が全く違いますよね。

島添:で、あとやっぱり、亡くなる人にとっても、火葬は熱くて、灰になるというのは、もうあの世に行けないっていうふうに考えているわけで、かといって、土葬だと冷たい地面の下に置かれるのはやはり辛いだろうということで、だからやっぱり、風葬の習慣があったところっていうのはそうやって埋葬されることがあの世に行く正しい方法なわけなんです。

本多・永野:なるほどね。

永野:まあ自然な発想だったんですかね。ずっと寄り添って。

島添:そうですね。

本多:で、これまで徳之島の「泣き歌」で時空旅して参りましたが、最後にもう一曲ですね、今度は日本最西端の島、与那国島の泣き歌を聴いてみたいなと思います。葬儀のときに残された人々が故人をなくした悲しみを歌に託したという「みらぬ歌」です。先生、こちらの歌の内容を。

島添:はい。「見ない仲なら見ないでよかったのに。知らない仲なら知らないで済んだのに」という。で、「かわいそうな奴、切ないなあ」っていうふうな歌詞が一節目にあり、で、二節目。「見ないうちはともかく、見れば抱きたくなる。抱けば恋しくなり、思えばたまらない。」で、「かわいそうな奴、切ないなあ」という、ちょっと切ない内容で。では行きましょうか。

本多:はい。では宮良保全さん、富里康子さんの演唱で「みらぬ歌」、三線の伴奏付きで1978年の録音です。

永野:じっと身を預けて聴いてしまいましたけれども。

島添:南の島の歌ですよねえ。

永野:風景もなんか目に浮かぶような。

島添:ゆたーっときますね。

一同:うーん…。

島添:まあ、先ほども引用してきました酒井先生の『哭きうたの民族誌』によりますと、この歌、お通夜で夜通し歌った歌だそうでして、亡くなった方の思い出などを即興で掛け合ったそうなんです。今も一応掛け合いにはなっていましたよね。ただですね、与那国では歌が崩れて伝承を危ぶむような声が挙がったこともありまして、10年掛けて楽譜化して、1970年に「民謡工工四(くんくんしー)」という楽譜集を出しているんですけれども、その影響だと思うのですが、この「みらぬ歌」も現在ではこの「民謡工工四」バージョンがステージなどで歌われるようになっているそうなんです。

サカキ:こうしないと残んないですけど、譜面化しないと残らないけれども、メロディーの多様性だったり歌詞の即興性ってのは損なわれてはいきますよね。固定化されちゃうから。この節で歌わないといけないっていうふうにはなっちゃいますね。

島添:そうですね。なのでたぶん「みらぬ歌」のバージョンも人によってずいぶんいろいろあったと思われるのですが、今は民謡工工四バージョン…。

サカキ:習慣が一緒に残っていないと残りようがないですよね。

島添:そう思います。

本多:そうか…。一個できちゃったらみんなそれで学んじゃうから…。

島添:そうですね。

後略

************

メモの後書き

この番組で風葬の儀式について知り、思い出したのが「もがり(殯)」のことである。

今年8月に天皇が生前退位を望む談話をテレビで公表し、そこで「重い殯」が嫌だという話をした。

これに気づいたのは下記のブログの指摘による。
現天皇を「非常に厳しい状況下に置」いた「重い殯(もがり)」とは - kojitakenの日記

「殯」とは天皇の葬儀の一環で、遺体を即座に荼毘に付さず、一定期間そのまま安置し、その遺体と遺族などが対面し続けることを指すようだ。

殯(モガリ)とは - コトバンク

この解説によれば、どうやら「殯」の習俗はアジア一帯にあり、日本古来の葬式にもあったらしい。どうも大王や皇室の儀礼であったような印象を受ける記述である。

現代の日本では通夜後早々に火葬するのが当然になっているが、実は風葬のエッセンスは、現代の皇室儀礼に(それが明治以降に再構成されたものであるにせよ)残っているのである。これを日本文化の古層だというつもりはないが、しかし皇室を奉ることで出発した近代日本が弾圧した習俗の本質が、実は皇室の儀礼にも含まれていたのは何とも皮肉というか、興味深い。

そしてもう一つ面白いことがある。天皇談話によれば、現在の天皇はどうやらその習俗を受け入れがたく苦痛に思っているらしいということである。彼は現代日本では殯の儀式を引き継ぐ唯一の男という役を背負わされているが、その古い儀式に馴染めない。火葬を当然とする現代日本の感覚に影響されているのである。その意味では彼も殯という弔い方を理解できない普通の現代日本の男性なのだ。

良くも悪くも現天皇は戦後日本の感覚を持った人なのだなあとは、折々に出される安倍政権を牽制するような発言でも感じていたことだった。日本国憲法にある象徴天皇制という原則、次第に拡張される「公式行事」による国民への浸透政策、そして戦争責任。日本の戦後民主主義とバランスを取りつつ天皇制を維持しようとしてきた人のように見える。そして、その戦後感覚から出られない人なのではないか。殯という弔い方を忌まわしいもの、ケガレのように思い、そこから逃れようとする彼の心情から、殯を時空を越えた連続性の中に位置づけ、弔いの奥深さを理解しようとする様子はうかがえない。自分の体験の中で培った天皇制理解に基づいて、その理想像を誠実に演じようとするが、その理解の枠からは一歩も出ようとすることがない。そのような人のように思えるのである。

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