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2017/05/13

ニッポンスゴイの浸透事例:小学校5年生社会科の授業例

大田区立入新井第一小学校 山家 哲雄「小学校における NIE の可能性」

2014年3月に東京新聞がまとめたNIEの取り組みの一つ「がんばれ先生!東京新聞教育賞」第17回受賞論文の一つらしい。
がんばれ先生!東京新聞教育賞(TOKYO Web) 第17回(平成26年) 受賞者の論文

この山家先生は小学5年生の授業で新聞を活用し、学級新聞を作るなど、授業を工夫している。その努力や成果には敬意を表する。しかし、その報告の中に一つ残念な授業があった。

③新聞ノートを使った、未来を考える社会科授業
5年生社会科の『日本の工業』単元のふかめる過程で新聞を活用した授業を行った。児童が毎週作成しているスクラップ記事から工業に関するものをまとめ、新聞ノートを完成させた。この新聞ノートの中には自動運転の車や、アメリカでの日本車の評判のよさ、曲がる耐熱ガラス、下町ボブスレー、宇宙旅行への取り組みなど様々な日本の工業製品の技術力の高さを取り扱った記事を載せた。記事を読み取った上で、日本の工業のこれからを考えていく展開である。未来を予想した後、事前に取材しておいた『外国での日本製品の現状を、海外に住む日本人に聞いたアンケート』を公開し、児童の意見を価値付けた。
単元のつかむ過程において、日本の自動車の生産台数が下がっていることを知り、危機感をもっていた子供たちだが、新聞から現状を知り、外国での日本製品の活躍を知ったことにより
『日本の技術はすごい』
『自分も将来そういう風になりたい』
『日本人でよかった』
そんなふうに明るく日本の工業を捉えなおし、未来について夢を膨らますことができた。

本質的な間違いは、日本の工業のパフォーマンス(生産量推移や製品例など)を日本(自国)への愛着や誇り、自信と関連づけていることで、「価値付け」の誤りにある。
一国の産業の盛衰は古くから愛国心と結びつけられてきたが(例えば殖産興業や植民地独立運動)、そこに経済的な合理性はない。この授業で取り上げられているトピックスで言えば、日本の自動車生産台数の減少は日本経済の危機とは関係しないし、日本製品の国際的成功や「技術力の高さ」は「日本」という国(国家にせよ地域社会にせよ)の優秀さを表すものでもない。例えば、ベトナムやバングラデシュ製のアパレル製品は世界を席巻しつつあるが、それはそれらの国々の優秀さ・素晴らしさの証拠としていいだろうか。また、1950年代の日本は例えばクリスマス電球の世界的輸出国であったが、それは「日本の技術はすごい」という「価値付け」に回収できる現象だったろうか。

一国の一産業の盛衰は、一面ではその国の産業構成や社会状況を反映しており時代によって変容する。典型的には一次産業から三次産業への「産業構造の高度化」を示すペティ・クラークの法則がある。日本は1950年代にクリスマス電球の世界的輸出国であったが、その生産と輸出は1960年代には急速に衰退した。香港などとの競争に負けたのである。だがこのことを日本の衰退や危機と見なすべきだろうか。このクリスマス電球の衰退の背景には、日本経済の成長に伴う人手不足と賃金上昇があった。クリスマス電球製造以外の産業が成長し、それらと労働力を奪い合う競争の煽りを受け、低賃金長時間労働による低価格を競争力基盤としたクリスマス電球産業は、他の低賃金国との価格競争に敗れたのである。したがって、クリスマス電球産業の衰退は日本における経済成長と賃金・所得上昇と結びついていた。このことから見れば、クリスマス電球産業の衰退を日本の危機や衰退と関連づけられないことが分かる。
これと同様に、近年の日本の自動車生産の減少もまた日本の衰退や危機とは関係ない。自動車生産はすでにグローバル産業であり、日本の国内生産は主に国内市場の状況を反映しているに過ぎない。日本の国内自動車市場はすでに飽和・成熟しており、買替え需要がその主体である。その需要は人口規模に依存している。人口成長が停滞し、高齢化に伴う労働力人口の減少傾向が続く以上、自動車生産台数が減少傾向にあることは自然である。そして、経済発展の成果として国際的に高賃金を達成した日本は工業製品の大量輸出をするのに適した国ではなくなっているし、近隣の大市場であるアジアや北米は自動車を生産できない地域であるわけでもない。要するに、日本の自動車生産台数の減少は、日本の経済社会の「成熟」と、それと関連する国際的な比較優位構造を反映しているに過ぎない。日本が「成熟した経済大国」であり、もはや「世界の工場」のような役割から解放されたことを表しているのであって、それは危機でも衰退でもないのである。自動車の生産が減れば、他の製品やサービスの生産が増えるだけのことである。

ここまでをまとめると、まず、自動車生産台数の減少に危機感を覚えた子どもたちの感覚を無批判に肯定したのは誤りであった。この自動車生産台数の減少に危機感を覚えるという感覚は、控えめに言っても、一産業・一製品の生産推移とGDPで代表される経済成長とを混同することで生じている。そしてこうした誤りは社会に流布しているから、この誤りを正すことには意義がある。だから、一産業は国民経済の一部に過ぎず経済全体への影響は限られること、自動車産業の変化は国民経済の変化を反映しており危機ではないことに気づかせるべきであった。その上で、例えば、なぜそのような誤解を持ってしまうのかについて考えを巡らせることができれば、間違いやすい数字のトリックや情報の発信・受容の歪みという論点に気づかせられたかもしれないし、「国」や「社会」という概念の曖昧さや、愛郷心や愛国心の危うさという論点にも気づけたかもしれない。

この授業の二つ目の問題は、日本製品の素晴らしさを無批判に取り上げ、しかもその肯定的評価を「日本」や「日本人」のイメージと直結させたことである。
言うまでもなく、日本製品は日本経済や日本社会の産物ではない。それらはそれらを開発し生産した人々の産物である。確かに、彼らの活動を可能にした背景には日本の経済や社会条件がある。しかしそれは「日本経済」とか「日本社会」とかいう抽象的かつ平板な概念でくくれるほど単純ではない。個別の製品開発には個別の文脈と個別の事情が強く働いている。個別の製品は第一に各企業や開発者固有の事情と物語との産物であって、仮にそこに「日本経済」とか「日本社会」とか「日本人」とかの普遍的性質を見いだせたとしても、それは非常に間接的かつ希薄な意味でしかない。例えば、世界的発明とされる紙、火薬、印刷は皆中国の発明だが、これによって古代中国の先進性を評することができるとしても、これらを当時の中国の経済社会あるいは中国人の素晴らしさを証する根拠とできるだろうか。紙を発明したことを「中国人」らしさや「中国人」が固有に持つ美徳と関係づけられるだろうか。紙は蔡倫、電球はエジソンというふうに個人に結びつけられる一方で、下町ボブスレーや下町ロケット、曲がる耐熱ガラスには個人名が結びつけられないのはなぜだろうか。個別の開発や製品の事例を安易に国や社会のイメージと結びつけるのは、社会と個人との関係への洞察を妨げる誤りであり、開発者個人の栄誉を損ねたり成功プロセスの複雑さを見失ったりする危険をはらんでいる。

この問題のもう一つの側面は、特定のユニークな製品や成功した開発事例を社会の美徳と受け取るという誤解の問題である。古代中国の発明の例で言えば、紙や火薬を発明した古代中国は素晴らしい国だとか、(当時の人が)中国人で良かっただとか言えただろうか。当たり前のことだが、立派な発明が生まれた国が社会問題を抱えていないわけではない。また、その発明と無縁な人々(例えば紙が一般社会に普及したのは蔡倫から遙か後の時代である)にとっては、自国が世界的発明の発祥であっても実際的な便益はほとんどなかっただろう。古代ギリシャは多数の学術的文化的な貢献をなしたが、そこの平民や奴隷からすればそんなモノより飯を食わせろというようなものであったろう。ピラミッドや万里の長城、東大寺の大仏が多大な犠牲を労苦を伴ったという話はよく知られている。確かにその国や地域で行われた偉業をその人々が誇らしく思う気持ちは自然である。それは所属意識や帰属意識に由来している。けれどもその感情作用はしばしばその国や地域が抱える矛盾や不満を隠すために使われる。そして、この種の感情作用は、往々にして、他人の偉業を自国のものと強調する一方で、自国で起きた(自国民が起こした)不祥事は他人の不始末として自国から切り離す傾向を持っている。従って、日本製品の素晴らしさを日本や日本人の素晴らしさと直結させる感覚を無批判に肯定することは、このようなダブルスタンダードの危険や社会の多面性に気づかせる契機を損ねるという点でも誤りである。

以上で述べてきたように、経済学をやっている人間からすれば、経済統計や開発成功事例などを日本や日本人の素晴らしさという分脈に使うこと自体が不適切にしか思えない。日本とか日本人とかの概念はあまりに茫漠としていて、何かの製品の統計や事例で語れるほど具体的な内実があるように思えないし、また具体的な事物を数点並べただけで「日本」とか「日本人」とかの本質を語れるとも思えない。それに、統計にせよ開発事例にせよ、それ自体が豊富な情報と含意を持っているので、「日本」や「日本人」の美徳みたいな話に使うのは正直もったいない、ある意味で無礼だとすら思えてしまう。経済統計や経済の事例はあくまで経済や社会の事実に関する授業で使うべきである。けれども、あえてこれらを教材として、「日本」を考える「価値付け」授業を行うとすれば、自分なら次のようなことを考える。

ところでこの先生はこの授業を社会科で行っているようなのだが、そもそも「価値付け」は道徳の「内容項目」の一貫であり、社会科の学習指導要領では出てこない観点だと思う。小学5年生の社会科の授業で生産統計や開発事例を使うなら、指導要領で言う「様々な工業製品が国民生活を支えていること」や「工業生産に従事している人々の工夫や努力」に焦点を当て「産業と国民生活との関連」への理解を深めるようにする。ここでは「価値付け」の話にはあまりならない。だから、以下では道徳の授業として考えてみる。

まず統計について言えば、そもそもどうして国内自動車産業が衰退することを「危機」と感じてしまうのだろうか。上で述べたとおり、一産業の盛衰と一国経済の盛衰は直結していないし、実際には自動車会社はグローバル化しているので国内生産が減っても企業が困るわけではないのに、である。そこから、子どもたちがなぜ危機感を抱いたのか、その危機感の内実は何なのかについて考えていきたい。そこからはメディア論のような視点、すなわち情報の伝え方・受け取り方と心理的バイアスへの気づきが得られるかもしれないし、愛郷心や集団帰属意識が与える社会認知のバイアスへの気づきが得られるかもしれない。こうしたことは、道徳の内容項目のうち「自主、自律、自由と責任」にある「自律的に判断」に関わることになるし、「真理の探究、創造」の「真理を大切にし,物事を探究しようとする心をもつこと。」につながるだろう。

次に、開発事例を「価値付け」に使うなら、「ニッポンスゴイ」ではなく、開発の背景や開発を可能にした条件、開発者の苦労、そしてそれが経済的成功に結びついた条件や人々の努力について考えたい。安易に社会一般の美徳のような解釈をさせないことが大切である。そこからは「希望と優樹、克己と強い意志」の「より高い目標を立て,希望と勇気をもち,困難があってもくじけずに努力して物事をやり抜くこと」や「思いやり,感謝
」の「日々の生活が家族や過去からの多くの人々の支え合いや助け合いで成り立っていることに感謝し」の大切さを考えることができる。ほかにも「相互理解、寛容」や「国際理解、国際貢献」とも関連づけることができるだろう。

簡単なまとめ

社会科の授業で「価値付け」が行われ、それがニッポンスゴイ的認識を強化する方向に作用している事例を検討した。

統計や事例(エピソード)は社会の一側面が表れる貴重な情報であるが、それをニッポンスゴイのような本質論の根拠に使うと、社会を詳細に考察する視点を失わせる危険がある。これらの資料はあくまで複雑な社会の複雑さに分け入るための契機とするべきである。
教師は、生徒が「日本とは」「日本人とは」のような安易な本質論に陥らないように戒めるためにこそ、このような資料を使うべきである。そのためには教師自らが資料の意味や使い方をよく理解する必要がある。社会科に道徳科のような視点を持ち込むことには十分慎重であるべきだろう。

参考
小学校学習指導要領「生きる力」第2章 各教科 第2節 社会:文部科学省

「小学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編」平成27年7月文部科学省(PDF)24ページ「内容項目の指導の観点」


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