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2017年5月の4件の記事

2017/05/28

ヘイト扇動記事のはずが。

韓国人飼い主のマナーの悪さに日本人が怒り「韓国にはもう犬を送らない」=「犬を食べようが食べまいが、韓国は犬が暮らしにくい国」―韓国ネット- Record China(配信日時:2017年5月27日(土) 12時0分)

1.韓国人客のモラルの低さに憤った日本の店が「韓国には売らない」と。
2.それらの客のモラルの低さを批判し、韓国社会の未熟さを嘆く韓国人たちの声が高まる
という記事。

中国や韓国へのヘイトが目立つレコードチャイナ。
今回も韓国への悪印象を狙ったとおぼしき記事だが、むしろ韓国社会の正常さを浮き彫りにすることになっている。

むしろ際立つのは、この日本の店のずさんで差別的な対応。質の悪い客を「韓国人」というラベルでくくり、「韓国には売らない」とするのは明確に差別だからだ。この記事の「韓国」を例えば「北海道」とか「東京」とかの別の地名(何なら自分の故郷や愛着のある土地の名前)に置き換えてみれば問題は明らかだろう。

店側のこうした差別的対応に対して怒りもせず、店側の心情を思いやったり、悪質な飼い主らの問題を自分たちの問題として引き受けようとする韓国人らの姿勢は公平で建設的だ。

もちろん韓国内の意見もこうした建設的なものばかりであったはずはないだろう。レコードチャイナが一面的な声だけを紹介している可能性は大いにある。
でもまあ、もし立場を入れ替えて、日本と韓国が入れ替わって韓国の店が「もう日本には売らない」とブログに書き込んだとしたら日本国内でどんな反響があるかなあと思うと、ちょっと彼の国がうらやましくなったりもする。

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2017/05/23

時効完成後の逮捕?

共謀罪がらみの民心操作の一環だろうという推測は措いておいて。

「中核派」捜索で逮捕の男 渋谷の警察官殺害の指名手配犯か | NHKニュース(5月22日 23時19分)

大阪府警が先週、広島県内で過激派「中核派」の関係先を捜索して男2人を公務執行妨害などの疑いで逮捕し、警察はこのうちの1人が、顔や体の特徴などから昭和46年に東京・渋谷で、警察官を殺害したとして指名手配されている男と見て、確認を進めています。
捜査関係者によりますと、大阪府警は今月18日に過激派「中核派」の広島県内の関係先を捜索し、部屋にいた男2人を公務執行妨害などの疑いで逮捕しました。

警察は、このうちの1人が顔や体の特徴などから、昭和46年11月、暴徒化した仲間らと東京・渋谷区の派出所などを襲い新潟県警から応援に来ていた当時21歳の警察官を鉄パイプで殴ったり、火炎瓶を投げつけたりして殺害したなどとして、警視庁に殺人などの疑いで指名手配されている大坂正明容疑者(67)と見ているということです。

警視庁は、大坂容疑者が組織的な支援を受けながら逃亡を続けていると見て全国に指名手配するとともに、最高で300万円の懸賞金をかけるなどして行方を捜査していました。捜査関係者によりますと、男は黙秘しているということですが、警察はDNA鑑定を行って最終的な身元の確認を進め、身元が確認できれば、警視庁は殺人などの疑いで逮捕する方針です。

公安は昔からこの人を把握していただろうと思う。とにかく「過激派」はよく監視しているので(他にすることはないのかと思うぐらい)。だから、たぶん今をこのカードを使うタイミングだと判断したんじゃないだろうか。

ところで、1971年の事件だから46年経っている。時効はどうなっているのだろう。

最高裁「殺人の時効撤廃、さかのぼって適用できる」なぜ「合憲」と判断したのか? - 弁護士ドットコム
法務省だより あかれんが Vol.31 1/7
これらによると、たぶんこんな感じ。

1971年11月 事件発生。当時の公訴時効は15年。

1986年11月 公訴時効完成。

2005年1月 公訴時効の延期。殺人罪などは15年から25年に。このとき、改正前の罪については、「従前の例による」とされて遡及適用されないことになった。

2010年4月 公訴時効の延期(2回目)。殺人罪の時効は廃止。この時期までに時効が完成してない場合、時効は適用されないことになった。

2015年12月 最高裁判決。「犯罪が改正法の施行前に犯されたものであっても,その施行の際公訴時効が完成していないのであれば,改正後の公訴時効に関する規定が適用されます。」[2]

というわけで、これまでの記述では、すべて「時効が完成していなければ」という限定がついている。この事件については、仮に、殺人罪の公訴時効廃止前の規定であった25年で計算しても1996年には時効になっている。だから、単純な計算では、免訴されることになるんじゃないかと思う。

免訴が想定される被疑者をわざわざ捕まえてニュースにするというのは……というふうに勘ぐりたくもなるけれど、それは単なる勘違いかもしれない。
・何らかの事情で時効が完成していなかったのかもしれない。例えば長く海外に滞在していたとか。
・本来、時効かどうかに関わらず、警察は被疑者を発見したら逮捕送検するものなのかもしれない。
など。

法律の知識がなくてよく分からないが、それにしても大阪府警の捜査員は45年前に発生して20年以上前に時効になっているぐらいの事件の容疑者を、よく覚えていたものだなあ。

追記(2017年5月23日)

時効は完成していなかったという解説があった。

40年以上前の殺人事件に公訴時効が成立しない理由を解説しよう - 弁護士三浦義隆のブログ

1.共犯の被疑者が起訴されて、時効の進行が停止した。
2.その被疑者が裁判中に心神喪失となり、公判手続きが停止した。
3.2010年になって殺人罪の時効が廃止された。

こういう流れで時効にならなかったということだそうだ。
上記1は共犯がいる以上やむを得ないとしても、2や3は当人からすれば(表現は悪いが)運が悪いとしか言いようがない。何という巡り合わせだろう。
逆に見れば警察や被害者遺族からすればこの巡り合わせのおかげで犯人に迫れたということになるかもしれない。

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2017/05/15

またウォッチ対象を見つけてしまった……。

フリーWEB塾「郷什塾」へようこそ!

郷中教育は薩摩藩の郷士教育の慣習で、鹿児島県にはこれを称揚する人が多い。
それはまぁいい…んですが、アレな方向とくっつくとこうなるんだなという感じ。まあ元々郷中教育自体その方向と親和的な感じなんで「ああそうなるよね」という納得感はあります。

郷中教育に詳しくないのでよく分かりませんが、確か「郷中」が普通で「郷什」とは書かなかったような気がします。会津藩の(!)什と混ぜた造語なのでしょうか。まあ漢字や読み方をいじって手前勝手に概念を拡張して悦に入るってのは自意識肥大した人にはよくあるので生暖かい気持ちがわき上がります。

私からすれば、鹿児島は薩摩藩の圧政に苦しんだ土地だという印象があるのですが、なぜか島津氏や武家に自己同一化して誇りにしている人が多い。

で、創始者の岩渕秀樹という方、各地で後援会やセミナーをやっているそうで、まあ当然青年会議所がお得意先みたいですが、大学や企業でも講演してみるようです。新潟大学やALSOKとか……。

しかし、この手のアレな団体や人って本当に多くて到底追い切れませんね。
愛国保守って本当に商売になるんだなあ……としみじみ思いますが、単に右翼という一言でくくれるものでもなく、トンデモなニセ科学や陰謀論やいろいろな要素がコンタミになっていて一種独特の芳香があります。で、それがさりげなく福祉や男女共同参画や社会教育や地域振興の場で行政とつながっていたりする。実は根は広く深く広がっているんですよね。自営業や中小企業の経営者とか地域のきもいりがそれ系だったりすることもあるので余計にそういう傾向が出ます。私のイメージでは、儒教的価値観+ヤンキー文化が根っこではないかと思っています。その意味では孔子の責任を追及したい。

***********************

で、講演先に「一般財団法人子どもの未来支援機構」ってのがありまして。
かなり手広く活動しているようなんですが、役員の方々が面白そうです。まだ見てませんが。

法人概要 | 子どもの未来支援機構

ところで、「こども」と「未来」の付いた団体などはすごくたくさんあるんですね。今回初めて気付きました。

NPO法人日本子ども未来支援ネットワーク
こちらの名前で検索すると、元理事が事件を起こしていたりします。

「こども」「みらい」「支援」「ネットワーク」「機構」を持つ団体や行政部署は結構多そうです。ほとんど間違い探しの様相を呈しています。
詳しくないのですが、国の政策との関係でしょうか。

いかにもお役所的な組織の例:一般社団法人沖縄こどもみらい創造支援機構(Facebook)

で、個人的には、こちらで後援会が告知されている武藤杜夫さんにちょっと注目したい。ポスター(画像)が半端じゃなくかっこいいです。
この方、肩書きが「沖縄少年院 法務教官」となっています。確か今年法務省を辞めて「日本こどもみらい支援機構」の代表になったそうなのですが、法務省現役当時からこのスタイルでポスターを作っているのですね。

くるとん / 武藤杜夫講演会チケット(2017/5/27開催)画像魚拓

各地で講演を展開されているようです。本もあります。

んで、こんな人が講演の感想を書いています。

なぜ、少年院で人生が変わるのか? 武藤杜夫氏の講演を聞いて。|神谷宗幣オフィシャルブログ「変えよう!若者の意識~熱カッコイイ仲間よ集え~」Powered by Ameba

神谷さんはあの「龍馬プロジェクト」の人。じわじわとつながっていきますねえ……。

「なんちゃら先生」みたいに国会議員になりアレな主張をするようにはならないでほしいものです。

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2017/05/13

ニッポンスゴイの浸透事例:小学校5年生社会科の授業例

大田区立入新井第一小学校 山家 哲雄「小学校における NIE の可能性」

2014年3月に東京新聞がまとめたNIEの取り組みの一つ「がんばれ先生!東京新聞教育賞」第17回受賞論文の一つらしい。
がんばれ先生!東京新聞教育賞(TOKYO Web) 第17回(平成26年) 受賞者の論文

この山家先生は小学5年生の授業で新聞を活用し、学級新聞を作るなど、授業を工夫している。その努力や成果には敬意を表する。しかし、その報告の中に一つ残念な授業があった。

③新聞ノートを使った、未来を考える社会科授業
5年生社会科の『日本の工業』単元のふかめる過程で新聞を活用した授業を行った。児童が毎週作成しているスクラップ記事から工業に関するものをまとめ、新聞ノートを完成させた。この新聞ノートの中には自動運転の車や、アメリカでの日本車の評判のよさ、曲がる耐熱ガラス、下町ボブスレー、宇宙旅行への取り組みなど様々な日本の工業製品の技術力の高さを取り扱った記事を載せた。記事を読み取った上で、日本の工業のこれからを考えていく展開である。未来を予想した後、事前に取材しておいた『外国での日本製品の現状を、海外に住む日本人に聞いたアンケート』を公開し、児童の意見を価値付けた。
単元のつかむ過程において、日本の自動車の生産台数が下がっていることを知り、危機感をもっていた子供たちだが、新聞から現状を知り、外国での日本製品の活躍を知ったことにより
『日本の技術はすごい』
『自分も将来そういう風になりたい』
『日本人でよかった』
そんなふうに明るく日本の工業を捉えなおし、未来について夢を膨らますことができた。

本質的な間違いは、日本の工業のパフォーマンス(生産量推移や製品例など)を日本(自国)への愛着や誇り、自信と関連づけていることで、「価値付け」の誤りにある。
一国の産業の盛衰は古くから愛国心と結びつけられてきたが(例えば殖産興業や植民地独立運動)、そこに経済的な合理性はない。この授業で取り上げられているトピックスで言えば、日本の自動車生産台数の減少は日本経済の危機とは関係しないし、日本製品の国際的成功や「技術力の高さ」は「日本」という国(国家にせよ地域社会にせよ)の優秀さを表すものでもない。例えば、ベトナムやバングラデシュ製のアパレル製品は世界を席巻しつつあるが、それはそれらの国々の優秀さ・素晴らしさの証拠としていいだろうか。また、1950年代の日本は例えばクリスマス電球の世界的輸出国であったが、それは「日本の技術はすごい」という「価値付け」に回収できる現象だったろうか。

一国の一産業の盛衰は、一面ではその国の産業構成や社会状況を反映しており時代によって変容する。典型的には一次産業から三次産業への「産業構造の高度化」を示すペティ・クラークの法則がある。日本は1950年代にクリスマス電球の世界的輸出国であったが、その生産と輸出は1960年代には急速に衰退した。香港などとの競争に負けたのである。だがこのことを日本の衰退や危機と見なすべきだろうか。このクリスマス電球の衰退の背景には、日本経済の成長に伴う人手不足と賃金上昇があった。クリスマス電球製造以外の産業が成長し、それらと労働力を奪い合う競争の煽りを受け、低賃金長時間労働による低価格を競争力基盤としたクリスマス電球産業は、他の低賃金国との価格競争に敗れたのである。したがって、クリスマス電球産業の衰退は日本における経済成長と賃金・所得上昇と結びついていた。このことから見れば、クリスマス電球産業の衰退を日本の危機や衰退と関連づけられないことが分かる。
これと同様に、近年の日本の自動車生産の減少もまた日本の衰退や危機とは関係ない。自動車生産はすでにグローバル産業であり、日本の国内生産は主に国内市場の状況を反映しているに過ぎない。日本の国内自動車市場はすでに飽和・成熟しており、買替え需要がその主体である。その需要は人口規模に依存している。人口成長が停滞し、高齢化に伴う労働力人口の減少傾向が続く以上、自動車生産台数が減少傾向にあることは自然である。そして、経済発展の成果として国際的に高賃金を達成した日本は工業製品の大量輸出をするのに適した国ではなくなっているし、近隣の大市場であるアジアや北米は自動車を生産できない地域であるわけでもない。要するに、日本の自動車生産台数の減少は、日本の経済社会の「成熟」と、それと関連する国際的な比較優位構造を反映しているに過ぎない。日本が「成熟した経済大国」であり、もはや「世界の工場」のような役割から解放されたことを表しているのであって、それは危機でも衰退でもないのである。自動車の生産が減れば、他の製品やサービスの生産が増えるだけのことである。

ここまでをまとめると、まず、自動車生産台数の減少に危機感を覚えた子どもたちの感覚を無批判に肯定したのは誤りであった。この自動車生産台数の減少に危機感を覚えるという感覚は、控えめに言っても、一産業・一製品の生産推移とGDPで代表される経済成長とを混同することで生じている。そしてこうした誤りは社会に流布しているから、この誤りを正すことには意義がある。だから、一産業は国民経済の一部に過ぎず経済全体への影響は限られること、自動車産業の変化は国民経済の変化を反映しており危機ではないことに気づかせるべきであった。その上で、例えば、なぜそのような誤解を持ってしまうのかについて考えを巡らせることができれば、間違いやすい数字のトリックや情報の発信・受容の歪みという論点に気づかせられたかもしれないし、「国」や「社会」という概念の曖昧さや、愛郷心や愛国心の危うさという論点にも気づけたかもしれない。

この授業の二つ目の問題は、日本製品の素晴らしさを無批判に取り上げ、しかもその肯定的評価を「日本」や「日本人」のイメージと直結させたことである。
言うまでもなく、日本製品は日本経済や日本社会の産物ではない。それらはそれらを開発し生産した人々の産物である。確かに、彼らの活動を可能にした背景には日本の経済や社会条件がある。しかしそれは「日本経済」とか「日本社会」とかいう抽象的かつ平板な概念でくくれるほど単純ではない。個別の製品開発には個別の文脈と個別の事情が強く働いている。個別の製品は第一に各企業や開発者固有の事情と物語との産物であって、仮にそこに「日本経済」とか「日本社会」とか「日本人」とかの普遍的性質を見いだせたとしても、それは非常に間接的かつ希薄な意味でしかない。例えば、世界的発明とされる紙、火薬、印刷は皆中国の発明だが、これによって古代中国の先進性を評することができるとしても、これらを当時の中国の経済社会あるいは中国人の素晴らしさを証する根拠とできるだろうか。紙を発明したことを「中国人」らしさや「中国人」が固有に持つ美徳と関係づけられるだろうか。紙は蔡倫、電球はエジソンというふうに個人に結びつけられる一方で、下町ボブスレーや下町ロケット、曲がる耐熱ガラスには個人名が結びつけられないのはなぜだろうか。個別の開発や製品の事例を安易に国や社会のイメージと結びつけるのは、社会と個人との関係への洞察を妨げる誤りであり、開発者個人の栄誉を損ねたり成功プロセスの複雑さを見失ったりする危険をはらんでいる。

この問題のもう一つの側面は、特定のユニークな製品や成功した開発事例を社会の美徳と受け取るという誤解の問題である。古代中国の発明の例で言えば、紙や火薬を発明した古代中国は素晴らしい国だとか、(当時の人が)中国人で良かっただとか言えただろうか。当たり前のことだが、立派な発明が生まれた国が社会問題を抱えていないわけではない。また、その発明と無縁な人々(例えば紙が一般社会に普及したのは蔡倫から遙か後の時代である)にとっては、自国が世界的発明の発祥であっても実際的な便益はほとんどなかっただろう。古代ギリシャは多数の学術的文化的な貢献をなしたが、そこの平民や奴隷からすればそんなモノより飯を食わせろというようなものであったろう。ピラミッドや万里の長城、東大寺の大仏が多大な犠牲を労苦を伴ったという話はよく知られている。確かにその国や地域で行われた偉業をその人々が誇らしく思う気持ちは自然である。それは所属意識や帰属意識に由来している。けれどもその感情作用はしばしばその国や地域が抱える矛盾や不満を隠すために使われる。そして、この種の感情作用は、往々にして、他人の偉業を自国のものと強調する一方で、自国で起きた(自国民が起こした)不祥事は他人の不始末として自国から切り離す傾向を持っている。従って、日本製品の素晴らしさを日本や日本人の素晴らしさと直結させる感覚を無批判に肯定することは、このようなダブルスタンダードの危険や社会の多面性に気づかせる契機を損ねるという点でも誤りである。

以上で述べてきたように、経済学をやっている人間からすれば、経済統計や開発成功事例などを日本や日本人の素晴らしさという分脈に使うこと自体が不適切にしか思えない。日本とか日本人とかの概念はあまりに茫漠としていて、何かの製品の統計や事例で語れるほど具体的な内実があるように思えないし、また具体的な事物を数点並べただけで「日本」とか「日本人」とかの本質を語れるとも思えない。それに、統計にせよ開発事例にせよ、それ自体が豊富な情報と含意を持っているので、「日本」や「日本人」の美徳みたいな話に使うのは正直もったいない、ある意味で無礼だとすら思えてしまう。経済統計や経済の事例はあくまで経済や社会の事実に関する授業で使うべきである。けれども、あえてこれらを教材として、「日本」を考える「価値付け」授業を行うとすれば、自分なら次のようなことを考える。

ところでこの先生はこの授業を社会科で行っているようなのだが、そもそも「価値付け」は道徳の「内容項目」の一貫であり、社会科の学習指導要領では出てこない観点だと思う。小学5年生の社会科の授業で生産統計や開発事例を使うなら、指導要領で言う「様々な工業製品が国民生活を支えていること」や「工業生産に従事している人々の工夫や努力」に焦点を当て「産業と国民生活との関連」への理解を深めるようにする。ここでは「価値付け」の話にはあまりならない。だから、以下では道徳の授業として考えてみる。

まず統計について言えば、そもそもどうして国内自動車産業が衰退することを「危機」と感じてしまうのだろうか。上で述べたとおり、一産業の盛衰と一国経済の盛衰は直結していないし、実際には自動車会社はグローバル化しているので国内生産が減っても企業が困るわけではないのに、である。そこから、子どもたちがなぜ危機感を抱いたのか、その危機感の内実は何なのかについて考えていきたい。そこからはメディア論のような視点、すなわち情報の伝え方・受け取り方と心理的バイアスへの気づきが得られるかもしれないし、愛郷心や集団帰属意識が与える社会認知のバイアスへの気づきが得られるかもしれない。こうしたことは、道徳の内容項目のうち「自主、自律、自由と責任」にある「自律的に判断」に関わることになるし、「真理の探究、創造」の「真理を大切にし,物事を探究しようとする心をもつこと。」につながるだろう。

次に、開発事例を「価値付け」に使うなら、「ニッポンスゴイ」ではなく、開発の背景や開発を可能にした条件、開発者の苦労、そしてそれが経済的成功に結びついた条件や人々の努力について考えたい。安易に社会一般の美徳のような解釈をさせないことが大切である。そこからは「希望と優樹、克己と強い意志」の「より高い目標を立て,希望と勇気をもち,困難があってもくじけずに努力して物事をやり抜くこと」や「思いやり,感謝
」の「日々の生活が家族や過去からの多くの人々の支え合いや助け合いで成り立っていることに感謝し」の大切さを考えることができる。ほかにも「相互理解、寛容」や「国際理解、国際貢献」とも関連づけることができるだろう。

簡単なまとめ

社会科の授業で「価値付け」が行われ、それがニッポンスゴイ的認識を強化する方向に作用している事例を検討した。

統計や事例(エピソード)は社会の一側面が表れる貴重な情報であるが、それをニッポンスゴイのような本質論の根拠に使うと、社会を詳細に考察する視点を失わせる危険がある。これらの資料はあくまで複雑な社会の複雑さに分け入るための契機とするべきである。
教師は、生徒が「日本とは」「日本人とは」のような安易な本質論に陥らないように戒めるためにこそ、このような資料を使うべきである。そのためには教師自らが資料の意味や使い方をよく理解する必要がある。社会科に道徳科のような視点を持ち込むことには十分慎重であるべきだろう。

参考
小学校学習指導要領「生きる力」第2章 各教科 第2節 社会:文部科学省

「小学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編」平成27年7月文部科学省(PDF)24ページ「内容項目の指導の観点」

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