« 兵庫県、文科省の通知を受け、朝鮮学校補助金を減額。 | トップページ | 太陽光発電のコストが下がっているという記事 »

2018/02/19

天皇教の一事例

「天皇陛下をひざまずかせるとは」「誰か止めるやつはいなかったのか」「天皇陛下がひざまずいているのに、被災者があぐらをかいて迎えるなんて何事だ」。両陛下の訪問後、町役場には報道を見た人から批判や怒りの電話が相次いだ。
「ひざまずいた」のでなくて「膝をついた」んだけど、そうは思えなかったんだろう。

ちょっと面白いのは、93年の奥尻島では批判電話がかかってきたのに、95年の神戸市にはそうした反応がなかったということ。別の記事では86年の三原山噴火の避難民を慰問したときには既に天皇夫妻が膝をついていたとのことなので、それを畏れ多いとする人はそれほど多くはないのだろう。奥尻島の場合には、絵柄として被災者が横柄に見える形で報道されたということかもしれない。尊い存在が下賤の民を慰問する姿に尊崇の念を強める一方で、その慈愛への感謝が不十分な被災者には怒りを抱き、抗議までする人がいる。それを配慮して、恭しくお迎えしているような絵作りで報道すれば、そうした態度が天皇への接し方のマナーとして流布することになるだろう。

ところで、全然関係ないんだけど、仮に自分が被災したところに天皇が慰問に来たとして、嬉しいと感じるだろうか。自問してみたけれど、なんとも微妙で対応に困りそうだ。知人や身内なら感情的つながりもあるし、今後の相談など話すこともある。役所や政治家の人なら、いろいろな手続きや見通しなどの話も出来る。でも天皇に来てもらってもなあ、何の話をしていいか分からない。いや、お見舞いはありがたいんですよ、それは誰に来てもらってもありがたい。でも何というか、何の関係もない(よく知らない)有名人が突然お見舞いに来てくれても、「はい、ありがとうございます……」ぐらいしか言えない感じがする。せいぜい記念写真を撮って後の話題にするぐらいだろうか。でも天皇の場合はたぶん一緒に記念写真とかダメそうな気がするから握手してもらうぐらいかな。

「陛下をひざまずかせるとは」被災の島に批判が相次いだ:朝日新聞デジタル
2017年11月21日05時05分

 ■「天皇をひざまずかせるとは」。両陛下の訪問後、町に批判の電話が相次いだ。
 北海道南西沖地震から16日目の1993年7月27日、奥尻島・青苗地区。津波と火災になめ尽くされ、家の残骸やつぶれた車などが広がる現場に、天皇、皇后両陛下が現れた。
 「いまだに一人も見つかっていません」。親類の一家7人が行方不明という女性の言葉に天皇陛下は絶句した。皇后さまは子どもらの肩を抱くようにして「大丈夫でしたか。お友だちのためにも頑張って」と話しかけた。
 奥尻空港で被害状況の説明を受けた両陛下は車で青苗地区に向かう途中、空港近くの仮設住宅に立ち寄った。皇后さまは「ご苦労さまです。工事をされている方ですか。頑張って下さい」と励ました。
 移動中、特別養護老人ホーム「おくしり荘」の前で出迎えた車いすなどのお年寄りを見つけると両陛下は車から降り、芝生を横切って歩み寄り、声をかけた。同行職員が「そろそろ時間です」と声をかけたが、皇后さまは「大丈夫ですか」と一人一人を励ました。
 避難所の青苗中学校体育館(当時)で天皇陛下はひざをつき、「どうぞ元気で」などと声をかけた。震災後、対岸の江差町内の檜山支庁(当時)から奥尻町役場に応援に入り、体育館の外から様子を見守った渡部和正(わたなべかずまさ)さん(69)は衝撃を受けた。天皇陛下はそんなことをするもんじゃないと思っていたからだ。
 「天皇陛下をひざまずかせるとは」「誰か止めるやつはいなかったのか」「天皇陛下がひざまずいているのに、被災者があぐらをかいて迎えるなんて何事だ」。両陛下の訪問後、町役場には報道を見た人から批判や怒りの電話が相次いだ。町職員だった竹田彰(たけだあきら)さん(64)は十数件に対応した。「両陛下の優しい思いやりから出た自然な行動」「町が頼んだわけでもなく、両陛下に意図はない」などと説明に追われ、仕事もままならなかった。
 だが95年に両陛下が阪神大震災の被災地を見舞った後に竹田さんが神戸市職員に聞いたところ、陛下がひざをついたことへのクレームは市に一件も寄せられなかったという。「当たり前の行動として国民に受け入れられるようになったのでは。陛下の被災地に対する思いが伝わったんだろう」(多田晃子)
 (No.371)

 ◆てんでんこ 互いにちゃんと避難する。そんな相互信頼の日常的な醸成も新たな意味に。

ひざをつく両陛下、被災者と同じ目線 まず皇后陛下から:朝日新聞デジタル
2017年12月6日05時10分

 「皇室と震災」シリーズをこの週で終えるにあたり、天皇、皇后両陛下が築き上げてきた被災地訪問のスタイルやその意義について、改めて考えてみたい。
 まず、両陛下が被災者の前でひざをついて語りかける姿について。象徴天皇制を研究する河西秀哉(かわにしひでや)・神戸女学院大准教授(40)や瀬畑源(せばたはじめ)・長野県短大准教授(41)、森暢平(もりようへい)・成城大教授(53)はテレビ番組や新聞記事を皇太子夫妻時代からさかのぼって調べた。
 たとえば皇太子明仁さまが1959年10月、天皇の名代として伊勢湾台風の被災地を訪れた際は、座っている被災者に、自身は立ったままで話しかけている。一方、皇太子妃美智子さまは、結婚後間もない62年に九州を訪れた際、宮崎や鹿児島の児童施設で子どもが横たわるベッドにかがみ込んだり、ひざをついたりして子どもたちに語りかけていた。
 結婚後27年の86年11月になると、姿勢に変化がみられる。今連載第3部初回でも紹介した通り、伊豆大島三原山噴火で東京都心に集団避難中の島民を慰問した際、ご夫妻でひざをつき、被災者と同じ目の高さで話した。91年の雲仙普賢岳のときの姿勢とほぼ同様だ。
 「皇太子は最初は人々との接し方に距離感があったが、美智子妃の姿を間近で見て、次第にその意識を変化させていったのではないか」と河西さんは推測する。
 ひざをつく姿勢は、昭和天皇にはなかったものだ。原武史(はらたけし)・放送大教授(55)は「昭和天皇は国民を抽象的な『臣民』ととらえていた。明仁天皇は自らひざをつき、国民一人ひとりと1対1で向き合った」と指摘する。
 皇后さまの姿勢の原点は、どこにあるのか。河西さんは「聖心女子大で学んだキリスト教主義的思考や、皇室がもともと持つ慈恵主義的な意識とともに、静養中からかかわるようになった精神科医の神谷美恵子(かみやみえこ)の影響があるのでは」と指摘する。神谷医師は、国立ハンセン病療養所長島愛生園(岡山県)の精神科医長を務めた。美智子皇太子妃が流産などで体調を崩した際、田島道治(たじまみちじ)・元宮内庁長官の勧めで60年代半ばから7年間ほど、お住まいの東宮御所に相談相手として通った。
 神谷医師からハンセン病の話を聞いたことがきっかけで、お二人は68年から国内各地のハンセン病療養所訪問を始め、2014年、全国14園の訪問を達成している。(北野隆一)
 (No.382)
掲載図:「鹿児島市の児童養護施設で子どもに声をかける美智子さまと、立って職員と話す皇太子明仁さま=1962年5月8日、朝日新聞社撮影」(略)

連載記事一覧 てんでんこ 皇室と震災 第3部:朝日新聞デジタル


« 兵庫県、文科省の通知を受け、朝鮮学校補助金を減額。 | トップページ | 太陽光発電のコストが下がっているという記事 »

日の丸・君が代、天皇制」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 天皇教の一事例:

« 兵庫県、文科省の通知を受け、朝鮮学校補助金を減額。 | トップページ | 太陽光発電のコストが下がっているという記事 »