宗教国家では教義に反対することは許されない。
東京新聞:君が代判決 強制の発想の冷たさ:社説・コラム(TOKYO Web)
2018年7月25日
卒業式で君が代を歌わなかったから定年後に再雇用されない。その不当を訴えた元教諭の裁判は一、二審は勝訴でも、最高裁で負けた。良心か職かを迫る。そんな強制の発想に冷たさを覚える。もともと一九九九年の国旗国歌法の成立時には、当時の小渕恵三首相が「新たに義務を課すものではない」と述べた。野中広務官房長官も「むしろ静かに理解されていく環境が大切だ」と。さまざまな思いへの理解と寛容があったのではないだろうか。
だが、実際には異なった。東京では教育長が二〇〇三年に「校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」と通達を出した。強制の始まりである。
入学式や卒業式は儀式であり、式典としての秩序や雰囲気が求められるのは十分に理解する。一方で国旗国歌に対し、「戦時中の軍国主義のシンボルだ」と考える人々がいることも事実である。教室には在日朝鮮人や中国人もいて、教師として歌えない人もいる。数多くの教員が処分された。
憲法が保障する思想・良心の自由との対立である。強制の職務命令は違憲でないのか。しかし、この問題は一一年に最高裁で「合憲」だと決着している。間接的に思想・良心の自由を制約するが、法令上の国歌の位置付けと公務員の職務を比較衡量すれば正当である。そんな理由だった。
仮にその判断を前提にしても、重すぎる処分には断固として反対する。最高裁も一二年に「減給以上の処分には慎重な考慮が必要だ」と指摘した。思想信条での不利益だから当然である。
今回の原告二十二人は〇七~〇九年に定年で再雇用を求めたが拒否された。現在の希望者全員が再雇用される制度の前だった。
その点から最高裁は「希望者を原則として採用する定めがない。任命権者の裁量に委ねられる」とあっさり訴えを退けた。
失望する。一、二審判決では「勤務成績など多種多様な要素を全く考慮せず、都教委は裁量権の逸脱、乱用をした」とした。その方が納得がいく。
再雇用は生活に重くかかわる。君が代がすべてなのか。良心と職とをてんびんにかける冷酷な選別である。日の丸・君が代は自発的に敬愛の対象となるのが望ましいと思う。
自然さが不可欠なのだ。高圧的な姿勢で押しつければ、君が代はややもすると「裏声」で歌われてしまう。
愛国者様たちから「サヨク」と罵られる東京新聞の社説である。著者は日の丸君が代に違和感を持っているような印象も受けるが、それを表に出してはいない。日の丸君が代を敬うことを支持しつつも、強制は信心には逆効果だと他の信者達を諭している。「サヨク」の東京新聞であっても、天皇教の信者を慮り、彼らに届く言葉と論理を選ぶほかなかったのだろう。あるいは、著者または社自体が信者であるのか。
「もともと一九九九年の国旗国歌法の成立時には、……さまざまな思いへの理解と寛容があったのではないだろうか。」
さらっとこんなご都合主義の歴史修正が入ってくるのは著者が天皇教信者である可能性を示唆する。国旗国歌法の制定は今で言う「小さく産んで大きく育てる」戦術だった。当時から、強制の糸口にされることが懸念されていた。賛成側は「国旗や国歌の制定法がないのは国家としておかしいので法制化するだけだ」と小さく見せかけてはいたが、日の丸掲揚君が代斉唱を国民に励行させ、国家主義を国民に浸透させようとする運動の到達点であったのは明確だった。「強制の根拠にはならない・しない」という答弁は、この見せかけ・建前を強調して本音を隠したものであって、思想・良心の自由の侵害を懸念していた反対派がこの答弁を引き出したのは確かに成果ではあったが、しかしその場しのぎの口約束でしかないのもまた明白だった。だから、当時の政府自民党が「さまざまな思いへの理解と寛容があったのではないだろうか」というのはとんでもない美化、歴史修正なのである。
これぐらいのことは社説の著者も分かっていて、あえてああ書いたのかもしれない。そうやって信者達を懐柔して心を開かせその先を読ませようとしたのかもしれない。しかし、その路線の先は信者への迎合でしかなかった。
「日の丸・君が代は自発的に敬愛の対象となるのが望ましい」
「自然さが不可欠なのだ。高圧的な姿勢で押しつければ、君が代はややもすると「裏声」で歌われてしまう。」
これらは要するに異教徒を帰依させるための戦術論である。
「神は自発的に敬愛の対象となるのが望ましい」
「自然さが不可欠なのだ。高圧的な姿勢で押しつければ、賛美歌はややもすると「裏声」で歌われてしまう。」
天皇は尊崇の対象であり、日本国(その実体が何かは説明されない)を愛するのは日本人の自然である。このテーゼから出発して、業務命令で強制するのは異教徒たちを取り込む上で下策だと言っているのである。
「賛美歌を無理矢理歌わせるな。歌いたくなるようにさせろ。」
「アッラーへの礼拝を強制するな。自ら礼拝するように仕向けろ。」
これは柔らかい強制である。東京新聞を取り囲む信者達に聞かせるにはそう言うしかなかったのかもしれない。しかし、彼らが当然だと思う業務命令との違いは、踏み絵を踏ませ踏まなければ火刑に処すという方法をとるか、「異教徒の存在を許します」と微笑みながら真綿で首を絞めるという方法をとるかの違いでしかない。
要するに、この日本においては、天皇教の教義に正面から異を唱えることは「サヨク」と罵られるメディアであっても、できない。あるいは、しない。それはタブーである。大多数の国民にとっての非常識であり、心の奥底を逆なでし逆鱗に触れる行為である。つまり、大多数の国民にとって、天皇を崇拝し「日本」を愛することは深層心理に刻み込まれ無意識化されている。すなわち、信仰なのである。そして、政府も自治体もこの宗教の慣行を業務命令化することに抵抗がない。さらには、日本国の司法は、この信仰の強制には、たとえそれが形式的には他の宗教教義の強制と同じであっても、異を唱えない。つまり、日本国は天皇教に基づく宗教国家なのである。
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